【週俳3月の俳句を読む】
蛸と寝釈迦
山田露結
俳句はたった十七文字しかないから作者が言いたいことを言うのには向かないという言い方をときどき目にすることがある。
では、いったい俳句には何が書いてあるのだろうか。
十七文字から立ち上がる十七文字の外にあるイメージは読者の力によって掴み出されなければならない。
ということはつまり、そこに書かれてある以外のことは読者に委ねられている訳で、ある意味、読者がどんなに勝手でメチャクチャな読みをしようが誰からもとやかく言われる筋合いはないはずである。
と、あらかじめ言い訳をしておいた上で勝手な鑑賞をしてみる。
涅槃図の蛸大足を伸ばしゐる 涼野海音
はて、涅槃図に蛸がいただろうか。
象や虎や牛、犬、猫、兎、鳥、蛇、他にもいろいろな動物が描かれていたと思うが蛸は記憶にない。
私が知らないだけなのかもしれない。
何れにしても、少なくとも私にとっては涅槃図と蛸は繋がりにくい。
もしかしたらこの句は「涅槃図の」でいったん切れているのかもしれないが。
「大足を伸ばし」ている蛸の図と言って私がすぐに思い浮かべるのは葛飾北斎の「蛸と海女」のあのエログロである。
う~む。
掲句は涅槃図と北斎の蛸の図とをドッキングさせたのだろうか(北斎に涅槃図があっかどうか私は知らない)。
掲句が、横たわるお釈迦様に絡みつく大蛸の図だとすると「蛸と海女」以上のエログロだ。すごい光景である。
「春キャベツ」と題された涼野海音氏の10句。
うららかな春の情景が若い女性らしい繊細なタッチで描かれていて好ましいなぁと思いつつ読み進めていくと、この「蛸」の句で躓いた。
それで、この句を勝手にエログロ解釈にしつらえてしまったために、たちまち他の句までが性的なモチーフを詠みこんである作品のように思えてきてしまった。
まるでオセロゲームのように一気にすべての句の解釈が反転してしまったのである。
一句目の「サラダボールのしづく」も、二句目の「古墳の前のにはたづみ」も、三句目の「菜飯」も、四句目の「啓蟄の畦」もタイトルになっている「春キャベツ」も、そのあとの「手紙の横の桜餅」も、すべて女性器、またはその周辺部分の隠喩なのではないか。五句目の「絵の中」の「われに似し人」はさしずめ春画に描かれた女性だろう。いや、「蛸」の句のエログロのイメージをもってすれば、ほかの句をそのように鑑賞するのはそれほど無理なことではない。
「行く人も来る人もなき春野」は屋外における性交の描写、「眉かかれたる犬」はご主人様に忠実なM女である作者自身の自画像である。
このように鑑賞してみると「春キャベツ」10句は、なんともあやしげな春の気分に包まれた実に甘美な作品ではないかと思うのだがどうか。
いや、おそらくは「どんな句もエロ句に見えてしまう病」にかかった四十男(私)のくだらない妄想であろう。
第254号 2012年3月4日
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2012-04-08
【週俳3月の俳句を読む】 蛸と寝釈迦 山田露結
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5 comments:
露結様 あの、凉野さんは男性ですが、それもプレイの一環という解釈で、よろしいのでしょうか。
上田信治様
わっ、まさにメチャクチャな読みですな、私(恥)。
しかし、俳号も俳句も女性的ではあります。
作者が男性であってもそれなりの読みは可能かと。
こんにちは
論旨にはあまり影響ありませんが、真如堂の涅槃図には蛸も(それから猫も)います。
リンクを貼りわすれました。
http://shin-nyo-do.jp/main/houmotu.html
kryagさま
リンクありがとうございます。
蛸、確認しました(大足ではありませんがw)。
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