〔週刊俳句時評62〕
おもに短歌の話
松尾清隆
毎日新聞の「短歌月評」(2012年3月18日 朝刊)で大辻隆弘氏は
「短歌」三月号の特集は「3・11以後」である。そのなかの田中濯、三原由起子、光森裕樹、石川美南ら若い世代の歌人の座談会に注目した。(中略)岩手で被災した田中は、震災や原発をフィクションとして歌うことは倫理的に許されない、と主張する。原発事故によって帰郷が不可能になった三原は、歌人たちの「文学の中で収まろう」とする態度や「守ってもらっている」姿勢に対する嫌悪感を表明する。彼らの発言には、「文学」の美名のもとに自らの政治的・社会的立場を糊塗しようとする歌人たちへの怒りが滲んでいる。と述べている。
この中で私が気になったのは、「震災や原発をフィクションとして歌うこと」といった面に焦点をあてた大辻の論旨とは話がずれてしまうのだが、「「文学」の美名のもとに自らの政治的・社会的立場を糊塗しようとする歌人たち」というくだり。そこから連想されたのは、かつて大辻が前川佐美雄の戦争詠について論じた「反転する自然―前川佐美雄『寒夢抄』がはらむ問題―」(「歌壇」1994年6月号)という文章であった。ざっと紹介する。
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『寒夢抄』とは、昭和22年10月に刊行された前川佐美雄の歌集で、既に刊行されていた『日本し美し』『金剛』の二歌集から戦争協力的でない歌を選び、または戦争協力的でない歌へと改作をして編み直された歌集である。佐美雄自身が記した後記には
現在の私は戦争中の自分に対し、また自分の歌に対して苛酷とも言ひうるさばきを与えてゐる。かかる自己判決をなすことは、現在及び将来の私にとつて極めて大切であるのは言ふまでもない。敢へてこの歌集を公にする所以は、又世人一般の冷静な批判を得て、更に私自身を鞭うちたいが為である。という、やや言い訳めいた一節がある。
これを受けて、大辻は
もし、佐美雄が本当に戦時中の自分に対して「冷静な批判」を得たいと思っているのだとしたら、彼はそれを得るために戦争協力に熱中した戦時中の自分の姿をありのままに世に公開しなければならないはずだ。『日本し美し』『金剛』を再刊するならともかく、その中から「戦争歌ならぬ雑詠の類」を抜き出して一冊にする行為は理屈に合わない。(中略)戦争協力に邁進した自分の姿を隠蔽しようとする彼の意図を感じざるを得ないだろう。/彼の言葉とはうらはらに、『寒夢抄』は当時起こりつつあった戦争犯罪人追求に先んじて彼が張りめぐらせた予防線としての意味をもった歌集ではなかったのか。といったところから検証をはじめ、
おのれをぞ滅して国に仕へなば清しさは夏の山くだるみづ
↓
おのれをばあるがままにしあらしめば清しさは夏の山くだるみづ
といった改作から、〈公〉を〈私〉に変換することで「濃密な自然のリアリティー」が生じていることを発見する。さらにそれを
戦時中の空疎な自然詠のいわば陰画として、かろうじて成立しえた〈私〉と自然の緊張関係。それはあるいは、戦後短歌一般を成立させた基本的な枠組みといえるのかもしれない。と、短歌史的な観点でとらえたことによってすぐれた評論としている。
単に昔の歌人を批判したというだけでは評論として価値を持たないが、具体的に作品を読み解きながら、その意味を検証する姿勢は真摯であり、佐美雄個人がとった行為についての可否を云々するににとどまらずに、最後の考察までもっていった手腕は見事としか言いようがない。
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既に一ヶ月が過ぎたが、3月3日に行われた「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」の第二回シンポジウムを思い出してみよう。
「三詩型の融合」といったテーマが掲げられていたはずだが、詩型の話というよりは震災や原発事故といった話題に多くの時間が割かれ、やや散漫な印象を受けた。そうした中で、岡井隆氏が原発事故後に発表した短歌作品についての批判や「一貫した態度はむしろ立派である」といった意見を聞けたのはよかった。これまでに、こうした声があまり聞かれなかったことを不気味に感じていたからである。ひよっとすると、予想外の反響の少なさに、岡井氏自身が拍子抜けしているのではないか。意地のわるい見方をすれば、「一貫した態度」というのは、戦後の転向を非難された前川佐美雄のような例を知っている岡井氏が、批判への賢明な対処をしているだけとも思えるのだが…
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さて、ここでようやく俳句の話。
俳人の皆さん、特に若い俳人の皆さん、有馬朗人を今、批判できないようでは俳句の先はないよ。というのは、田中濯氏のTwitterでの発言(2012年1月17日)。これは彼自身が岡井氏への批判を展開していることを前提にした発言で、同じ様に、若い俳人も有馬氏を批判するべきではないかという呼びかけである。
ちょっとまてよ、と思う。
おそらく、岡井氏とちがって、有馬氏は句作において原発推進や原発擁護といった思想を詠んでいない。そうであるならば、原子核物理学者や教育行政に携わった人としてならいざしらず、俳人として論難される筋合いは無いだろう。つまり、我々「若い俳人の皆さん」が批判をする必要も無いということになる(市民としては、また別)。
「短歌」3月号の座談会の中で田中氏は
原発災害をうたえなければ、前衛短歌が見いだした「短歌は思想の器である」という戦後最大の資産を失うことになってしまうと発言されているが、そもそもこのあたりに俳句と短歌のちがいがあるのではないか。俳句おいては、いわゆる〈思想詠〉のようなものが短歌のように確立されていないからである。そこには、盛り込める情報量の差や俳人と歌人とのメンタリティーのちがいといった要因があるだろう。「詩歌梁山泊」のシンポジウムのような場で、そんな話が聞けたらよかったのに、などと夢想する。
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4 comments:
田中濯です。
私のツイッターの発言について、
コメントを感謝いたします。
本来、まとめた文章にすべきでありますが、
どうも、その必要性をあまり感じなくなったため、
ここでの発言に留めます。
私の疑念は二点あります。
有馬氏に関しては仰る通りの判断が可能です。
しかし、例えるなら、現状は「東電の前会長」に相当するような人物(いや、もっと大物、ですね)、が
事故を無視かつ自己の来歴を無視、した状態で
なんの屈託もなく俳句を発表し続けている、ように見えるのです。
なにか、忌まわしいものを感じませんか?
二点目。
俳人は季語を尊重されておられます。
季語は「美しい日本の自然や文化」を基に成立したもので、
ひとつの季語はひとつの「宇宙」を形成する、とも聞きます。
さてここで、日本の自然のある広大な領域を
事実上永遠に汚染した事故がありました。
俳人は、この状況を放置してよろしいものでしょうか。
また、放置した場合、「季語」についてこれまで通り語ることができるのでしょうか。
そして、季語を使い続ける人物が、季語の根本たる自然を汚した責任をもつと推定される場合、
それもまた議論にはしない、ということが
ありえるのでしょうか。
以上になります。
一点目。「特に疑問は感じない」というのなら、それはそれで結構だと思います。
二点目。「季語」と今回の事故は全く別で、議論の対象にもならない、というのであれば、それはそれで結構だと思います。
長いコメントになりました。申し訳ありません。
それでは、失礼いたします。
田中さん、コメントありがとうございます。
心情は理解できますが、俳句のフィールドにおいては社会的な
立場のちがいが棚上げされるというのがひとつの美点としてあ
るように思います。
原発事故によって自然が汚染されてしまったことについては、
「季語」とか「俳人」という以前に、人として憂うべき事態と
考えます。季語とは言葉であって自然そのものではありません
が、季語をとおして自然への認識が深まるということはあるか
も知れません。ただし、そのあり方には個人差があるはずで、
残念ながら、倫理観のようなものを規定したり、強要したりす
ることはできないと思います。
今更ながら、興味深く読ませていただきました。
田中さん、松尾さんのご意見、ごもっともと思います。
仮に「社会思想」を言葉に刻印できるとして、
その方法は短歌とは根本的に異なると思いますし、
だからといって「原発推進」に加担してきた有馬
氏に対して不満がないわけではない。
そうした「もやもや」の原因は、おそらく「社会
的な立場のちがいが棚上げされる」という「美点」
にあるのかもしれません。
実際、それゆえに松尾さんは田中さんのアジテーシ
ョンに違和感を表明することになったのでしょうし
(わかります)、有馬氏自身もけっして自らの仕事
を反省するようなことを俳句の場でなすことはない
でしょう(いけないとは思いますが、これもわかり
ます)。
ここで詳述することはできませんが、こうした問題
には、俳句の17文字が作者「自身」(←まあ、それ
もフィクションだと言うことも可能ですが)を反映
しているかどうか、という程度の問題がありますね。
したがって、有馬氏の俳句におけるフィクション性
(作者と作品の距離感)をふまえたうえで話をしな
いと、俳句の話にはならず、結局のところ「倫理観
のようなもの」の「規定、強要」にすり替わってし
まう……ということなのだと思います。
逆に言えば、田中さんのツイッターでの発言は、
若手俳人が「社会的な立場のちがいが棚上げされる」
ことを疑問もなく「美点」と言ってしまうような言
葉との距離感にもう少し自覚的になるべきである、
という「鼓舞」であると解釈することもできます。
もっとも、そこでいうところの「若手俳人」とは、
フィクション性の際立った「大人のあそび」として
の俳句作者たちのこと(多かれ少なかれ「天為」も
そこに含まれることでしょう)ですが。
俳句の世界のリーダー的存在の方は、自分の職業の上に乗っかって俳句という文芸によって豊かな人生を生きてきたのでしょう。原発推進思想と俳句を作る心とは一体です。俳人仲間から讃えられるような、どれほどすばらしい句を詠む俳人であろうと、原発を推進しようとしてきた人間としての罪が消えるわけではありません。東電という会社の中で句作を楽しんできた社員たちも、そのOBたちも同罪です。許されるべきではありません。
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