【イベントレポート】
韻石が頭に降り注ぐ
四ツ谷龍講演「俳句は音韻をどう利用してきたか」を聞いて
黒岩徳将
俳句を様々な視点から考える時に、定型のことが話題に上がることは多いが、音韻について深く掘り下げて語るのを聞くのは、私は初めてだった。例えば、句会などで「この句は頭韻を踏んでいるからリズムがいい」という評を誰かがしたとして、そのリズムや言葉の持つ響きについてというよりは、どうしても句の内容や景についての話に戻る方が多い気がする。なぜなら、リズムや音韻の構成要素が、特定の理由により善し悪しを測れるものではないと我々が潜在的に思っているからだ。
その意識を裏返してくれたのが四ツ谷氏の講演の第一章である。今回は母音の話が中心であるが、まず「音には色彩がある」として、A音=晴れやか・めでたさ、I音=冷ややか・とげのある、U音=心の中にそっと秘めておきたい、E音=ゆがんだ・ねじれた、O音=ほのぼの・あったかい親しみ、というように各母音にイメージが備わっていることを紹介し、歌謡曲やキャッチコピーなどをふんだんに列挙して示した。もちろん、比較的そういうイメージをもった言葉が多いという話で、俳句と同じく受けるイメージに個人差は備わっているが、「愛」「陰険」「浮気」「えげつない」「おかあさん」という例を見たら、大きく反対する人はいないはずだ。
それを踏まえたうえで、韻の話に移った。韻には頭韻・脚韻・始めと終わりで韻を踏むサンドイッチ韻(ex. バッカじゃなかろうか、ルンバ 野村克也)といったパターンがあり、最も印象的だったのは次のような頭韻と脚韻をミックスしたものである。これを四ツ谷氏は「AABB方式」と呼んでいた。
こんな
よるに
おまえに
のれない
なんて 雨あがりの夜空に/RCサクセション
あえて節に区切っているが、前半は「こ」「よ」「お」とO母音で頭韻を踏んでいるのに対し、「な」「に」「に」と、脚韻だったN行が後半で「の」「な」と頭韻に「化けて」いる。
作詞した忌野清志郎が意識していたかに関わらず、「のれないなんて」がこの歌詞の中でいい意味で期待を裏切るような大きな手柄だったということが分かる。この部分だけだと短いので、もっと長い間隔で頭韻脚韻の逆転現象を見てみたいと思った。そうすれば前半と後半で大きく雰囲気の違う詩ができるかもしれない。
では、俳句における音韻を考えるのに何に着目するのか、それは4点である。
(1)一句全体でどの音が多用されているか
(2)とくにA母音の使用数は重要 17÷5を考えると、7音以上Aがあると多い、0~1音だと少ないと判断していい。
(3)句頭・語頭/ 句末・文節末・語末
(4)句の前半と後半で韻が踏み変わっていないか
特に 虚子の
流れ行く大根の葉の早さかな
をA音の有無だけで見ると ○○×××○××××○×○○○○○ となり、下五で畳みかけるようなA音に、だんだんテンポが速くなるイメージが内在している、という話が大変興味深かった。
言うまでもないことだが、実作者が講演に来ているのだから、来場者が気になっていることの一つとして「音韻研究が実作に活かせるのか」があるはずだ。その中で、講演中に話題に挙がっていたA音の使い方は、キーワードになるにちがいない。子音全てと向き合っていたらキリがないかもしれないが、A音くらいなら操れるかもしれない。冒頭に戻るが、私の感覚では、俳句を詠む時に音韻を考えるのは、内容や景を考えた後の、最後のブラッシュアップとしてではないかと思っていた。内容から作る、言葉から作る(題詠)と同じ立ち位置に音韻がなりえるかが、これからの論点である。
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第二部では虚子・誓子・草田男・静塔の第一句集(他俳人から影響をうけていない可能性が高いため)をエクセルで一文字ずつ分解・解析し、五十音のそれぞれの使用頻度をコンピュータ解析した結果の分析が発表された。虚子に「か」「な」「ひ」「と」「や」が多いのは「かな」「ひと」を多用するのと、「や」を上5に置いて状況設定するのが得意なパターンだったためだった。誓子と静塔は虚子よりも偏った五十音の使い方をしていて、誓子は句集「凍港」の中で「海」を多用したため、「う」が多く、静塔は医者だったために「医」の割合が明らかに多いといったように、俳人ごとに傾向があると言える。
しかし、コンピュータ解析の結果は、それ自体が目的ではなく、四ツ谷は記憶の問題と結び付けようとしている。四ツ谷はアラン・バトリーの記憶モデル「ワーキングメモリ」を参照して、俳句を一度耳で聴いただけではその俳句がどのようなものかイメージするのが難しい、なぜなら、言葉と言葉の切れ目がわかる日本語の記憶は長期記憶になりやすいが、耳で聴いた音が音韻貯蔵庫に入っている時間は1.5~2秒ほどであり、一度目に俳句を読む場合は反芻する必要があり、記憶のプロセスが異なることを指摘している。
また、飯島晴子の「俳句は(中略)一句の上下同時に眼にはめ込まれるようにうけとられるものである。俳句一行のこの棒は、私には眼玉の直径となり得るギリギリの長さのように思われてならない。」(「言葉の現れるとき」)を引用し、俳句は上から下まで一気に読む(そして、長期記憶の助けを借りることで理解できる)もので、この意見とワーキングメモリの相似を指摘した。(あくまで仮説)飯島晴子が学問としてでなく、俳句らしさとしてとらえていたものが精神分析学の観点から説明できるというのは非常に面白い。
その上で、四ツ谷は御中虫が「詩客」の連載で
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之
を例に、切れと音韻が密接な関係にあると主張した(「し」とI音の韻の多用)ことを取り上げ、松尾芭蕉や中村草田男などの「句またがりの句」を挙げて、句またがりをして、かつまたがっている箇所で切れている時に韻が踏まれている可能性が高いことを示した。これも先ほどと同様に、句またがりを印象付けようと意識して韻を踏むことができ、それが成功すればよい効果が生まれる可能性があるということだ。そして、私には、できればあざとすぎず、今回四ツ谷氏が例示したような、「検証すると韻が踏まれていた」くらいの韻の存在感の方が佳句である可能性はある気がした。
最後に、音韻は記憶と密接に関わっているが、韻を踏んでいるからといってその句が佳句なのかどうかは別問題である。そして、俳句は一句でかたちとして独立していなければならない(つまりワーキングメモリの中で処理されるものでなければならない)、にもかかわらず、俳句は形式として完成されていてはならない。俳句が何かを期待させるとして、(期待に解答を与えてはならない)期待を喚起するうえでもっとも有効な手段の一つが「音韻」であると、四ツ谷氏は締めた。
※ワーキングメモリに関しては、web上にわかりやすい説明が見当たらなかった。四ツ谷氏が参考文献として挙げていたアラン・バドリー『ワーキングメモリ 思考と行為の心理学的基盤』(井関龍太・齋藤智・川崎恵里子訳、誠信書房、2012年)を参照されたい。
黒岩徳将 様
返信削除講演のまとめの力作、ありがとうございました。相当広い範囲のことを話しましたが、要点をよくまとめていただきました。
ワーキングメモリについて知りたい方は、まず次のページからご覧になってはいかがでしょうか。(バドリーの初期モデルに基づく記述で、最近のバドリーのモデルはもっと緻密になっています)
http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E9%9F%B3%E9%9F%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
四ッ谷さんの講演に激しくインスパイアされ、めらめらと「短詩系用音韻解析ツール おんいんくん」というものを作りました。いろいろ試してみて下さい。
返信削除http://yukari3434.web.fc2.com/onninn.html