2013-03-10

【句集を読む】(ぶちまけられたおののき)のような 高山れおな「パイク・レッスン」(『俳諧曾我』所収) 小津夜景

【句集を読む】
(ぶちまけられたおののき)のような
高山れおな「パイク・レッスン」:『俳諧曾我』所収

小津夜景



はじめに

一般に作品は、それがいかなる手法で書かれたものであっても必ず一義的な読みに収斂しえない幅をもっている。またその幅が大きくなればなるほどその作品が実験的とみなされうる可能性も増してゆく。だが或るテクストが「決まった読みに収まらない」ということと「多様な読みに耐えうる」ということは全く別の次元の話であり、さらに付け加えればテクストが多様な読みを獲得するには情念(初めから書く力)でも理性(終わりから書く力)でもそれらの均衡でもないものがもたらす別の幅、言うなれば作品が作品たりうることの偶然性が不可欠となる。

ところで「パイク・レッスン」はこの種の偶然性を考える上で大変示唆に富んだ作品である。この作品はパイクによるパイクのための戦いを主人公「麿」がくりひろげる闘争譚であり、物語は槍(pike)を突き出して敵を制すといった欲望と、或る新機軸の俳句(同じくパイクと称される)を駆使したパフォーマンスといった心理と行為とのはざまを推移してゆく。その修辞法に関しては(1)通俗性溢れるワーディング&ストーリーを駆使して読者を非現実的な設定へ捩じ伏せる句の配置(dispositio)(2)イメージの対立や止揚を避けると共にその膠着や失効にいそしむ句の構成(compositio)(3)パイクという概念未満の着想(conceptio)といった三つの要素の個性を特化させているが、この時点でバタイユ好きの読者ならばこの作品名の頭文字である「p」が気になり出すかもしれない。あるようにもないようにも見える話の筋。絵空事ながらも触知性を欠かない描写。高揚と同時にそこからの転落を欲する主人公。確かにこのテクストはファルスの物語を予感させつつも、しかし「p」の屹立ではなくその不能を愛する心理を隠し持っているという意味でバタイユ的だといえる。

もっとも「パイク・レッスン」の文体のトーンはあくまでも明るくポップで暗いエログロとは没交渉だ。作者の節度ある才気に至ってはバタイユのそれと全く正反対であるとすら言える。だがたとえそうであるにせよ、バタイユの思想が「パイク・レッスン」を読む上での良き道標となることは以下この書評で確認されるとおりであり、またその道標はアルトーというもう一人の作家の痕跡をなぞりつつ「作品が作品たりうることの偶然性」の地平へと読者を導いてゆくことになるだろう。

1 配置 dispositio

この作者の作品にはおしなべて連作という手法をめぐる積極的な模索があり、その傾向は「パイク・レッスン」でも変わらない。そこでまずは配置だが、テクストという「地」から推移の分割をほどこした「図」を前景化すると、以下の大まかな物語が抽出される。

シーン1 ガムを踏みつつ高田馬場に登場する麿。これからパイク一つで戦いの旅に出る彼は小粋な宿を所望する。宿の窓から外を眺めれば、そこはドクロ雲が上がり、むやみやたらな爆撃が行われている、行く人もない地帯だ。(1句目〜5句目)

シーン2 昼、麿はジャンキー女子と飲み食いし、その歯の残像に悶える。夜、句日記をひらいた麿はその余白におびただしい数の足音を聞く(彼らもまた戦いに赴く者らなのだろうか)。翌朝、出陣の戸口には、夕べの残聴を解き明かすかのようにゴキブリが蠢いている(麿もまたこのような者に伍するのだ)。(6句目〜9句目)

シーン3 戦場の光景。麿は無惨なありさまで転がった無季俳句を目撃する。この辺りにはラッキョウの皮を剥く猿のごとき愚作者がいるようだ……そう思いつつ、身を屈めた麿はパイクを繰り出しながら、さまざまな技をしかけつづける。(10句目〜29句目)

シーン4 戦場でのクライマックス。電波がとびかうのは麿が通信(コミュニケーション)を担う機甲師団であるからか、それともパイクの神様からの霊的なメッセージなのか、それともパイクの先から詩的言語の波動が漏れているのか。(30句目〜34句目)

シーン5 さらなるパイクを繰り出す麿。「みえず/きこえず/のざらし/きこうし」とゴキブリさながら這いずってゆくことを止めようとしない。目と耳はすでに不如意だが、口だけ、いやパイクだけはまだ達者なようだ。(35句目〜45句目)

シーン6 暗号文「多蚊夜馬」……そこには麿の戦いの結果が記されていた。当の麿は、花に魚を煮るぞけさ達の風流な宴を朦朧と想いつつ、バカバカしすぎて物悲しい断末魔のパイクを口から漏らして息絶えんとしている。最期の「『これはパイクではない』とパイクかな」はおそらく麿の墓碑に刻まれたパイク、エズラ・パウンド風に気取るならば「自らの墓のためのオード(Ode pour l'éléction de son sépulchre)」であろう。(46句目〜50句目)

2 構成 compositio

次に構成を調べると「パイク・レッスン」の各句には文学および美術からの引用が多く見られることがわかる。とくに印象的なのはそうした過去の作品を「詩的遺産の運用」ではなく単なる「ブリコラージュの具」とみなす作者の頑な姿勢である。例えば、

  此の道や行く人なしに秋のクレーン

  句日記の夜々の足音どこから降る

  コーヒー店、俳句薔薇戦争の火に滅べり永遠に

  絵のような鎌倉に来てお汁描き

  (ぶちまけられた海苔弁)のような朝、

  何匹か戸口にてZAZA

といった句は、イマージュへの欲望を外部の世界に転移させることによって次元を異にする観念群を束ねてみせるといった意味で、この作者の句作全般において典型的といえる外観を表面的に具えている。ところがその実質を検討すると、かくなる外部の世界が母型としての優位性(階層性)をテクストに対して保持していないという点で「パイク・レッスン」はすこぶる特異なのである。掲句では芭蕉「この道や行く人なしに秋の暮」や吉岡実「秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり」や永田耕衣「コーヒー店永遠に在り秋の雨」などの本歌、鎌倉住まいの虚子が提げた「花鳥諷詠」「客観写生」という画論もどきの命題、キーツの「like au upturn'd gem」を盛り込んだ西脇順三郎の「(覆された宝石)のやうな朝/何人か戸口にて誰かとさゝやく/それは神の生誕の日。」の詩の形式、といったものが作者に転移をうながす母型であったはずのものだが、作者の専心はこれらのオリジナルを欲望することにではなく去勢することにのみ向けられる。「秋のクレーン」では「秋の暮」の内包するコード化された真理が剥奪され、「どこから降る」では聞こえる筈のない足音をとらえるさまに黙示された実存の硬質な手触りが宙ぶらりんな幻聴に置きかえられ、「コーヒー店」では耕衣のなえした日常性の根源的反転がイデオロギーの火中にあっさりと葬られ、「お汁描き」では具象されるべき客観がぼかしやにじみのようにしか描かれず、「ZAZA」ではキーツのロマン主義をアヴァンギャルド(前衛)へ昇華したシュルレアリスムの詩が大きく屈折させられてキッチュ(後衛)と化すのみならず「宝石」が「海苔弁」へさらに「人」が「ゴキブリ」へと引きずり下ろされる、といった風にどれも同じ傾向の修正を蒙っている。これは従来の作者の句が「世界への憧憬」を原動力として対象とテクストとを結び、かつ結ばれたその靭帯から弾力性のある豊かな意味を迸らせている事実と比較すると大きな相違であることは間違いない。ではこのように対象を引き倒して一種の貧しさへの転換を図ることで「パイク・レッスン」は一体なにを目指しているのか。私が思うに、それは母型となる外部の世界とその表象=再現(représentation)であるテクストとの間に存在する階層の虚脱化である。

  日々電波の如きを糞るここが愛の巣

  終わった戦争の上で電波と犬交る

  終わらぬ戦争の電波がパイクを痺れさす

  ・

  皓い歯の残像に悶える麿がいた

  心拍(ハートビート)な折れ線で来る君は女面鳥(ハーピー)

  マロン食うマリリンと麿、滅亡か

  踊る嫁が君(マウス)よ、私が私で、明るすぎる

上記の句では高邁な美学戦争が猥褻な下方衝動によって虚脱の憂き目に晒されている。掲句を見る限り、戦場とは電波を糞りしたり、電波に痺れたり、電波の上で交ったりと、とてつもなく恍惚とした空間のようだが、こうした恍惚は戦争だけでなく女の口をめぐる一連の掲句にも託されていて、どうやら「パイク・レッスン」を読み解くにあたっての重要な要素であると断定できそうだ。食うことを暴力的に明示する皓い歯のフラッシュバックに身悶える麿。死体をも食いあさる怪鳥さながらの女がばっさばっさと飛ぶが如く迫ってくる戦慄の光景。マロン(おそらくマリリンと麿をみちびく音の戯れのみならずクリトリスを意味する)を食いながら自己崩壊するマダム・エドワルダのような女と麿が絶頂に至らんとするその瞬間。そして中でも最も注目を引くのが、妻のマウスが蠢くのを眺めながら己の自己同一性を発見した男がそのまぶしさに打ち震えるさまを描いた掲句である。この句はサミュエル・ベケットの戯曲『わたしじゃない』を母型にしていると思われる。ベケットの戯曲では、暗黒の舞台にスポットライトを浴びた女の口が浮き上がり、観客は「私が私であること」を否定する言葉をほとばしらせるその口の蠢きを眺めつづけるのだが、かくなる母型を転回させたであろう掲句の要所は一体何かと思案するに、どうやらそれは妻の口を眺めながら自己同一性へと至る男の至福がエクスタシー(=脱自・忘我) という形式でしか達成されていないという点であるらしい。つまり「私が私で(おのれの同一性のゆるぎなさに)明るすぎる(うっとりしすぎて何も見えない)」という光景は、完全なる自我が我を忘れることでのみ得られるさまを物語る脱自シーンなのであり、またこの恍惚=脱自とは対象(生を死に晒す「戦争」&タナトスと不可分のエロスを象徴する「女の口」)と意識といった二項対立の膠着化、とりもなおさず「母型となる外部の世界とその表象=再現であるテクストとの間にある階層の虚脱化」のヴァリエーションであると看做すことができるのである。

  前衛多蚊夜馬丹生体反応蟻矢無之

  ぞ散るらんぞけさは花に魚を煮て

  チルサクラウミチルサクラウミ辣(ラー)

  口吸や、生命(ゾーエー)の西風(ゼピュロス)の歌麿の

上掲の句も同様の原理でつくられている。一句目から三句目は「配置」の項での確認によれば断末魔の麿のパイクに相当するが、これらの句からは「生体反応」がもはや危ぶまれるほど虫の息となった麿がさまざまな様式の痙攣的言語によって死の擬態をなしつつ自我を粗相している様子がすんなりと読みとれよう。四句目は嵩高い不埒の感じられる美しい作品で、その魅力の基本は3歩格を4種の5音節で割ることによって造形した大ぶりの律動と、剝き出しの生を象るゾーエー、春風と共に女を略奪するゼピュロス、春画の代名詞である歌麿、の三素材を並べただけという構成のシンプルさによって逆に引き立てられた各素材の詩的度量にあるが、実は他にも無視できないエッセンスがあってそれは何かというとこの句が多行形式ではないという点である。イメージの直接性、ロマン主義的修辞を排した表現の客体性、韻ではなくフレーズのパターンによる言葉の律動性といった特色を鑑みるに、イマジズムを思わせるこの句が多行にも対応しうるのは言うまでもなく、また「パイク・レッスン」を所収する『俳諧曾我』には多行俳句をまとめた分冊が都合良くも存在する。にもかかわらず一行に留められた理由は何なのか。推論するに、それはゾーエー・ゼピュロス・歌麿といった三者の内に流れる生命と性愛の活力を改行という閾で塞き止めてしまわないためであり、また三つ(とりわけ最後)の「の」による三者の膠着には「萌芽する生命、隆起するイメージ 、恍惚する身体」が閾なく混ざり合う場、すなわちアルトーの言う「器官なき身体」という内在平面を描き出す意図が織り込まれていると考えられる。またそのような前提の上、さらに作者はこの「器官なき身体」と化した領域を「口吸」という行為と関係させ、既述の戦争や女の口で扱われていた生(エロス)/死(タナトス)の充溢とその閾の失効とをあいかわらず目論んでいる訳だ(尚、上には掲げていないが「俺の家って(自己を内包する器って)塊と化したジェット噴射とか凄いエネルギーの飛瀑とかみたいだろ(全ての活力を一つにして流動する器官なき身体のようだ)」と豪語する主体を詠んだ「接写した滝みたいだろ俺の家」なども、この作者の性向が作品の方向性とうまく重なった句だと言えよう)。
 このように「パイク・レッスン」は世界/テクスト、対象/意識、死/生などあらゆる階層の虚脱を目指すといった構想をどこまでも執拗になぞりつつ、その思惑をさらに固有名においても具体化する。

  E. Pの墓守る百億の昼の蜥蜴(ドラゴン)

  ISBN4-00-008922-6の顔、パリに

  無礼なる妻、μ☎÷0.43♨Σ●の色紙をずたずたに

本来、固有名とは意味の媒介なしに直接指示対象に結びつくシニフィエなきシニフィアン(内容のない記号)である。ところが掲句では意味内容のみならず指示対象までが消えてしまい、またそれが記号の側にそっくり吸収されたことで、作品という場に内包される記号と指示対象との本有的な隔たりが無化されている(なおこの理屈でゆくと「歌麿」や「ムーミン」などは作者にとって一般性へ解消される類の名だということが明らかになる)。その結果「E・P」「ISBN4-00-008922-6」「μ☎÷0.43♨Σ●」といった固有名を失うと共に機能をもたない記号と成り果てたそれらは本質=唯一性への立ち返りを阻まれ、再現すべき自己のイマージュを失い、もはや誰からも呼びかけられることのない無機質な符号としてテクストへ付着することになるのだが、はからずもその符号は失われたイマージュの表層に生起した引き攣れ——言語の機能不全によって生起した痙攣——のおもむきを呈していて非常に興味深い(ちなみに「E・P」はエズラ・パウンド、「ISBN4-00-008922-6」はラウル・ハウスマンの作品である「機械的頭部(われわれの時代精神)」が表紙となった『岩波 世界の美術 ダダとシュルレアリスム』の書誌番号であることが作者および別の批評において既に明かされている)。

さらに以下の句では、作品という場に内包される指示対象/記号の隔たりの問題が、作品(現前)/媒体(言葉)といったより実地的な見地に絞られている。

  ムーミンはムーミン谷に住んでいる

  24句目と書く24句目に他ならず

  45句目は消去しました、に他ならず

掲句では現前(作品)と言葉(媒体)との間の隔たりが極度に消されてしまい、ムーミンは自らの名で呼ばれるトポスに存在し、24句目という文字は24句目に出現し、45句目に至っては消去された句(拭い去られた現前)の代わりにその事実を宣言する文字が作品の場を占拠している(露となったメディウムそれ自体が作品へと転化している)。このような現代美術的な手法もこれまで確認してきた事柄の延長上で捉えることができ、また掲句に固有の効果としては、これらの句が名指しと現象といった階層の虚脱化を通じて芸術における最も根源的な遊戯を明示していることを指摘できる。要するに作者は、芸術的再現性がつねにかくのごときトロンプ・ルイユすなわち恣意的な偶然によって担保された約定であること、また芸術とはとりもなおさずこうした約定をめぐるゲームであることを単刀直入にここで暴露しているのであり、またそのことによって芸術をめぐる表象=再現の問題に生々しく踏み込んでいるのである。

3 着想 conceptio

全句の配置ならびに各句の構成を一通り俯瞰しおえた今「パイク・レッスン」が前衛諸派を強く意識したテクストだということはもはや疑うべくもないだろう。だが一連の俯瞰がそのことと並んでつまびらかにしたのは、この作品における前衛の主旨が既成概念の否定や揚棄を意図した非論理性や、既成概念の上空を悠々と飛翔することで現実への不戦勝を宣言する超現実性や、実存の内省的模索から派生する不条理性などといった、自己と世界との乖離を前提とする形而上学的趣味と根本的に相容れないといった実相だ。ならば一体「パイク・レッスン」はどのような前衛の系譜に連なる作品だと主張されるべきなのか。それについての私の考えは以下の通りである。

その本質的な基軸を鑑みるに「パイク・レッスン」の文学的本領はアナーキズムという一点のみに集約される。作品の中で繰り返される「言葉から世界(意味)を拭い去る」行為は、無意味に意味を見出すことで価値の転倒を図ることではないし、言葉を極度の抽象に近づけることで不可能を象徴的に描き出すことでもない。パイクを駆使したあらゆるパフォーマンスは二項対立を撹乱させるためではなく(それは暗に形而上学の永劫を祈念している)対象と自己との関係の虚脱によってアンフォルメルな強度そのものを造形することにあり、また言葉は世界と無関係なただの記号というその出自を鮮明に曝け出すとき、原エクリチュールの状態に留まるものとしてみずからの存在を読者に強く訴える。ジャック・デリダは著書『GLAS』の中でエクリチュールについて「concept(概念)の conception(発想・妊娠)作用を欠けば、それは死せる言語であり、みまかったエクリチュールとパロール、ないしは意味作用をもたぬ響き(klang であって Sprache ではない)である。ここで klang とエクリチュールとの類似性。」(荘田常勝・豊崎光一訳)と述べるが、いまだ世界を現前させない言葉とはエクリチュールの純粋な様態であり、そしてパイクとはつまるところこのような、決して概念(concept)に至ることのない発想(conception)そのものである。

デリダに倣ってもういちど書こう。パイクとは分娩を欠如した妊娠、或は妊娠という強度それ自体であり、身悶えの骨頂である陣痛のさまを介して孕まれているはずの(だが決して出会うことのない)胎児を読者に想像させる、といった性質のエクリチュールだ。そしてそんなパイクのレッスンとは生を粗相し死を擬態するエクリチュールの実地演習であり、意味を拭い去った記号の綴り方であり、芸術をめぐる約定を転回する遊戯であり、非定形の場所を「ZAZA」と這い回る虫の模倣であり、また同時に「ZAZA」と鳴り止まない電波を滴らせたお筆先の稽古である(とここまで書いたところで、私はこの作品になんども登場する「ZAZA」という語がデリダの言う klang を暗示していたのではないかと夢想する)。欲望とその滅却を同時に感覚し、生と死の境界を悶えながら無化し、表象=再現をめぐる芸術のドグマを空文化し、けっしてイデオロギーに崛起することなく横ばいのシミを震えながらなすりつけるお筆先なのである。

  「これはパイクではない」とパイクかな

「パイク・レッスン」の最後はマグリットの作品『イメージの裏切り』を母型とし、作品(現前)と媒体(言葉)との落差を自白すると同時にみずからを作品の場にすり替えてしまうといった、既に確認ずみの手法による句で閉じられている。もっともこの句は最後を飾るだけあって、読者を作品世界から現実へと引き戻す働きも具えているようだ。これはパイクではない——そう言われてみれば、たしかに作者のパイクはバタイユを越えアルトーを潜り抜けることで確認された筆法であるにしてはあまりにその筆さばきが理性的かもしれず、また上記の句はそんなパイクに宛てた作者自身による批判のようにも思われる(ちなみに私が「配置」の項で最終句を「自らの墓のためのオードである」と評したのはそんな作者の心情を勝手に穿ってみたのである)。

さて、おしまいに一つだけ追記したい。それは最後の句を契機としてふたたび現実に帰還した読者が「パイク・レッスン」を全体としてあらためて眺め返したとき「一体この軽やかな悦楽にみちたテクストのどこに残酷な狂気を秘めたアナーキズムがあるというのか?」と首を傾げることになるかもしれないといった一抹の懸念についてだ。ここまで尽くしてきた考察が衒学ととられないためにも念のためこの問題に触れ直しておくと、まず、遠くから見たときと近づいて見たときとでは全く違う印象を与えるコラージュのように「パイク・レッスン」の全体と細部とが同時に両立しない別々の文法に依拠し、またそれゆえ別々の表情をみせている事実は「配置」と「構成」の項を別個にもうけることで確認した通りであり、従って読者が「理解への欲望とその断念」を常に同時に抱えながらこの作品を読むであろう状況については、そもそもテクストに織り込まれた与件だと考えるべきである。次に、この作品が作品として成立するためには、全体/細部の関係に孕まれる視差に読者が身悶えつづけることが必須の条件となる。なぜならこの視差は「欲望と断念の膠着」を読者にもたらす契機であるのみならず、一見よせあつめにしか見えない雑多な句群から「そこに読みとるべき一つのまとまったゲシュタルト、即ち作品(恣意的な偶然に担保された現前)が存在している」という信念を逆説的に引き出す原因にもなっているからだ。かくしてこの書評は「パイク・レッスン」が「作品が作品たりうることの偶然性」を獲得する地平にまでようやく辿り着いた訳だが、この小さなトリックに最後の最後で気づかされることとなった我々読者は、こんな場所にもトロンプ・ルイユをしかけていた作者の遊び心に笑みをこぼしつつも、内心その力量に対して深い戦慄をおぼえるに違いない。

2 件のコメント:

  1. 高山れおな2013年3月11日 0:47

    小津夜景様

    東京は春の嵐が吹き荒れる夜となっております。

    拙句集『俳諧曾我』より「三百句拾遺」をお取り上げくださったのに続き、今度は「パイク・レッスン」を論じていただきましたこと、厚く御礼申し上げます。作者が、時に意識的に、時に無意識的にたどった稜線を正確に炙りだすかと思えば、思いもかけない深読みもあり、大いに楽しませていただきました。

    まず、「配置」の章で、パイクを携えた麿の冒険譚を6シーンにまとめていただいたあたりは、なんとも嬉しい読み込みです。実際を申せば、パイクに「槍」の意味があること自体、本作の初稿の一部を雑誌に発表した後、市堀玉宗さんのご指摘で知った迂闊さ。しかし、その意味を知らぬまま付けたタイトルがたまたま「槍の稽古」と訳し得るものだったために、貴文のような物語的な読みが可能になったとも言え、「作品が作品たることの偶然性」のはからいを思わずにはおれません。

    それから「構成」の章にある、〈過去の作品を「詩的遺産の運用」ではなく単なる「ブリコラージュの具」とみなす作者の頑な姿勢〉というご指摘は、まったくその通りです。ひとくちに本歌取りとかパロディーと申しますが、じつはそこにはいろいろな位相が含まれています。そのような自覚は第二句集を纏めて以降にやってきたもので、「パイク・レッスン」における間テクスト性は、小生の従前のそれとは志向を異にしているのはその通りなのですが、そこを的確に見届けていただけて安心しております。

    同じく「構成」の章における拙句、

    踊る嫁が君(マウス)よ、私が私で、明るすぎる

    についての読み込みには虚を突かれました。季語「嫁が君」→鼠=マウス→PCのマウスというずらしまでが作者が考えていたところ。これがさらにmouse/マウス/mouthとずらされて、嫁=妻の口のイリュージョンまでが重ね合わされたことに唸りました。しかし、貴文の解釈により「私が私で、明るすぎる」という表現の落としどころがはっきりしたようです。じつは該句は、「私は私で」とする案もあり、「私が私で」とどちらにするか推敲に迷ったのですが、この形にしてよかったと思いました。

    今からちょうど30年前に、坪内稔典氏の編集により『俳句の現在』(全3巻 1983年 南方社)という、当時の若手作者のアンソロジーが出ました。以下は、そこに寄せられた永田耕衣の栞文(「未知の若き友へ―晩年的寸感」)の一節です。

    私は虚名を甚だ好まないが、私の俳句は褒められる毎に確と成長してきた。図に当った褒め言葉に出会うて昇天の嬉遊をほしいままにすることができた。くさされることは図に当っていても不快なものだ。この不快はヒマをかけて精進のエネルギーにはなるが、図に当った褒め言葉の方が、もっと強烈なエネルギーになる。正当なエゴイズムである。

    というわけで、このような書評をいただけた幸いを、正当なエゴイズムによって味わい、噛みしめております。有難うございました。

    高山れおな拝

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  2. 高山れおな様

    「俳句という概念」を虚脱したものが「パイクというエクリチュール」とだけ申し上げるつもりでしたのに、結果的に長くなってしまいました。この分量の書評になることが最初から分かっておりましたら「三百句拾遺」の書評もためらうことなく句を引けたのに、と思いほんの少し残念です(なにしろあちらの分冊には良水のようなのどごしがありますので)が、それはまたいつかの機会に。かしこ

    小津夜景拝

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