2014-09-07

【週俳8月の俳句を読む】つい意味を付与してしまう  鈴木茂雄

【週俳8月の俳句を読む】
つい意味を付与してしまう

鈴木茂雄



スタートダッシュ夏の部品となる少年   宮崎斗士

背表紙だけ見ている恋とあめんぼと

バードウィーク捺印ぴたり円の中

詩は理屈を嫌うという。だからだろうか、俳句が説明を拒むのは。わたしがいいと思う句はいつもこうだ。一読、いいと思い、こちら側にすうっと入ってきて、だからこうして書こうとしているのだが、言葉で説明する段になると、うまく表現出来ずにもどかしい思いをすることになる。

「すうっと入ってきて」と言ったが、宮崎斗士の「雲選ぶ」10句はしかし決してわかりやすい句とは言えない。むしろ難解な方だろう。たとえばそこにあるものを写生という手法によって伝えようとか、言語によってイメージの構築をしてやろうというのではどうもないらしい。いわゆる虚子的写生句とも兜太的造形句とも違う。ツブヤキが俳句という定型に収まり、定型であるがゆえに無形を夢見て、独創の文体を模索しているようだ。ツイッター的独白の句、それがわたしの第一印象だった。

「スタートダッシュ」の句、一読、すうっと入ってきた。入ってきたのだが、わかったというのとはまた違う気分で、わからないというのでもない感覚だった。なんとももどかしい物言いで恐縮だが、こういうとき、わたしは一句を分解することにしている。<スタートダッシュ/夏の部品と/なる少年>もっとばらばらにしてみよう。「スタートダッシュ」「夏」「夏の部品」「部品」「部品となる」「少年」だんだん鮮明になってきた。この句にかぎらず、最初、すうっと入ってきたと思ったのは、記号としての文字が入ってきたからで、意味としての文字を理解しようと思った途端に、同じ文字が文法的配列や俳句的省略によって記号としての文字に歪みが生じて、わかったようなわからないようなということになるのだろう、ということもあらためて気がついた。スタートダッシュと夏の間に鋭い裂け目が見える。切れ字を挟んで世界が衝突する。その瞬間、遠くで雲が峰をなし、少年は夏の一部となるのだ。

「背表紙」の句、「背表紙だけ見ている」という独白は、ツイッターに書き込んだコトバのようでもあり、それに続く「恋とあめんぼと」は、本のタイトルなのかも知れないが、まるで作者の脳裡を巡るCDのメロディのようにも思えてくる。「背表紙だけ見ている恋」こう読むと、上句の破調もよくその効果を発揮して、途端に切ない恋になる。棚に手を伸ばして本を手にする勇気がない。本は断るまでもなく女の隠喩だが、その本を開く勇気は「あめんぼ」の存在ほどもないと読むか、「あめんぼと」一緒に淡い思い出の余韻に浸ると解するか、いずれにしても最後の「と」が揺れて切なく響く。技巧的手法を見せない手法で表現する。ツイッター的独白と言った所以である。

「バードウィーク」の句、「捺印」を「ぴたり」と押すときの緊張感と、「ぴたり」と書類の枠の「円の中」に収まった時の軽い安堵感。「バードウィーク」はその折の感慨だろう。ここでやめておけばいいのだが、もうひとつ、<愛鳥週間婚姻届に捺印す>という読み方だってあり得る、とつい意味を付与してしまう。読み手が気まぐれに意味を付与してはならない。そう思いながらもやはり自分に都合のいいように読んでしまうのは、結局は詩の曖昧性とどこかで折り合いをつけたいからなのかも知れない。


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