2015-05-03

後記+プロフィール419

後記 ● 福田若之


読んだところによると、『週刊俳句』は「「在京」感が高い」のだとか。よく分からないけど、そうなのかもしれません。

そして、「関西」の人たちに言わせると「東京がなんぼのもんじゃ」ということになる。これは、そのとおりでしょう。

あれっ、でも待ってくださいよ、

……そもそも、「関西」の対義語は「関東」じゃないんでしたっけ?

それを言うのは粋じゃないって? そうかもしれません。いや、けれども、どうしてそれは「関東」と呼ばれずに「東京」と名指されるのか。そこに僕らはもっと意識を向けてもいいのではないでしょうか。

言うまでもなく、「関西」に対する「関東」が単に地理的な対立項にすぎないのに対して、「東京」は首都、すなわち中心としてのイメージを持っていますよね(仮に、その「東京」のさらなる中心が空虚にすぎないのだとしても、です)。だから、「「在京」感が高い」という言い方は、おそらく、なんかいろいろ集まってる感じがするぞ、ということに焦点があるわけです。そして、「東京がなんぼのもんじゃ」だからこそ、そこに価値観を転覆させるという意義が、すなわち、ある粋な感じが出てくるわけです(これが「関東がなんぼのもんじゃ」だったら、粋でもなんでもないただのケンカ腰になってしまう)。

「東京がなんぼのもんじゃ」と言うことには、それを通じて〈中心〉なるものにアクセスする、揺さぶりをかけるという意味があります。実際には、東京の価値が問われているのではなくて、〈中心〉なるものの価値が問われているわけです。すなわち、任意の中心に在ることの価値が、あるいは、任意の中心として在ることの価値が問われているわけです。それはリアルな東京ではなくて、観念としての「東京」です。リアルな在京ではなくて、観念としての「在京」です。

となると、『週刊俳句』の「「在京」感が高い」ということは、『週刊俳句』が少なからず観念としての「東京」、すなわちひとつの中心に近づいているということにもなる(やはり、その「東京」のさらなる中心が空虚にすぎないのだとしても)。さて。

天気さん、そこらへん、どうでしょうか(と急に名指しで振ってみる)。

すくなくとも、今回、作品を寄稿いただいた柳本さんは、プロフィールを読むと(リアルな)東京にお住まいだそうですが、(観念としての)「東京」からは華麗に――というのはミュージカルというのは華麗なものだから――はみだしている感じがします。

まあ、なんにせよ、手の届く範囲により多くの(というのは単に量だけではなく質の面でも多様な)作品や、批評や、もっと広く言えば言葉やその他もろもろがあることには、きっと意義がある。『関西俳句なう』も『週刊俳句』も、結局はそういうことなんだと思います。



というわけで、『オルガン』プレゼント。ご応募お待ちしております。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.419/2015-5-3 profile

柳本々々  やぎもと・もともとかばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com

■田島健一 たじま・けんいち
1973年東京生れ。「炎環」「豆の木」。現代俳句協会青年部委員。ブログ「たじま屋のぶろぐ」  

■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。

■太田うさぎ おおた・うさぎ
1963年東京生まれ。「豆の木」「雷魚」会員。現代俳句協会会員。共著に『俳コレ』(2011年、邑書林)。

■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。


■マイマイ まいまい 1966年生まれ。「いつき組」。俳句マガジン『100年俳句計画』にて「詰め俳句計画」連載中。2013年句集シングル『翼竜系統樹』上梓。  

■近 恵 こん・けい
1964年生まれ。青森県出身。2007年俳句に足を踏み入れ「炎環」入会。同人。「豆の木」メンバー。2013年第31回現代俳句新人賞受賞。 合同句集「きざし」。

福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「ku+」に参加。共著『俳コレ』。現在、マイナビブックス「ことばのかたち にて、「塔は崩れ去った」掲載中(更新終了)。

23 件のコメント:

  1. 在京感にもいろいろあるのでしょうが、柳本々々さんにもそれらしきものはやはりあります。それは社会に対する自明性です。柳本さんの論には「世界」が多く登場しますが、その世界からは「社会」、もっというと「社会的なフリクション」がきれいに取り除かれています。そこでは社会のあり方は所与であり自明なのです。これは「中央」としての「東京」独特の感性といえるでしょう。

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  2. 匿名さん 天気さん

    コメントありがとうございます。
    ひとまずこちらでは匿名さんのコメントについて書かせていただきます。

    >柳本さんの論には「世界」が多く登場しますが、その世界からは「社会」、もっというと「社会的なフリクション」がきれいに取り除かれています。

    もしそうなら、これっていわゆる「セカイ系」ですよね? 柳本さんの論の全般について今ここで詳細な議論をすることはちょっとできないのですが(もし、ここに批評の余地があるなら、ぜひどなたでもまとまった文章を書いて『週刊俳句』に寄稿していただきたい)、「セカイ系」自体は、「「東京」独特の感性」とは言いがたいのではないでしょうか。なるほどたしかに、「セカイ系」の大本になったといわれている『エヴァ』は(地理的には箱根であるとはいえ)「第3新東京市」という架空の「東京」を舞台にしています。しかしながら、一方で、たとえば『ブギー・ポップは笑わない』の舞台となる「深陽学園」は「県立」ですし、『涼宮ハルヒ』シリーズの舞台は兵庫県の西宮市ですし、『最終兵器彼女』は北海道です。セカイ系の作品に共通している「社会的なフリクション」のなさは、むしろヴァナキュラーなものをヴァナキュラーなまま「世界」と直結させるときに最も強く現れるものなのではないでしょうか。

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  3. 福田様

    なるほどセカイ系という便利なワードがありましたね。しかし作品の舞台設定云々というより、そういった「オタク」情報や活動の中心は現実的にどこであるかと考えれば、やはり中央依存といわざるを得ないのではないでしょうか。舞台設定としての地方も所詮はイメージ消費対象としての道具立て以上のものではないでしょう。

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  4. なんだか後記ばかり盛り上がっていてよいものやら……

    曾呂利さん

    コメントありがとうございます。ブログ記事より引用しつつ、回答させていただきます。

    >だから、「東京がなんぼのもんじゃ」で対視(あえて敵対視とはいわない)されている「もの」が、週俳のような限定的で流動的なメディアでは、あまりに気宇が小さい。
    >もっとありますでしょ、「東京」のもつ権威的なもの。

    まあ、「東京がなんぼのもんじゃ」を「『週刊俳句』がなんぼのもんじゃ」とは、実際、誰も読むまいと思います。一方で、『週刊俳句』が、「東京」の一部をなしているという認識が生じる可能性は(これは『週俳』側の問題として)、ありうるのかな、と。

    >もうひとつ、以前からやや気になっていたのは、週刊俳句誌上に登場機会が多い評論家のスタイルで、ある「好み」が共有されているような、特定の作家をつねに話題にするような、一種の連帯感が透けて見えることだ。

    これに関しては、僕も同感です。ただ、好みについては嘘をついても仕方がないので、これはもう、新しい評論家の登場を待つしかないですよね。その可能性に向けては、『週刊俳句』は常にひらかれているはずです。というわけで、僕も

    >だから、「カウンター」の刺激というのは、やはり存在意義のあるものであり、俳句は、いろいろな方向からのカウンターで常に撹拌される、「広い」ものであってほしいと思うのだ。

    に同意します。匿名さんに対するコメントは次に。

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  5. 匿名さん

    コメントありがとうございます。

    >しかし作品の舞台設定云々というより、そういった「オタク」情報や活動の中心は現実的にどこであるかと考えれば、やはり中央依存といわざるを得ないのではないでしょうか。

    たしかにその通りでしょう。

    しかし、それを言い出したら、あまりにも多くのものが「在京」感を伴っていることになってしまいませんか。セカイ系の感性が観念としての「中央」に独特のものであるという認識(これに対して僕は否定的な見解を示したのでした)と、セカイ系のコンテンツの商業的な流通の中心が現実の東京であるという認識(匿名さんが今おっしゃっているのはこのことだと思われます)とは、別のことだと思われます。

    また、仮に観念としての「中心」と現実の東京を同一視したとしても、全体人口と比較してオタク人口だけがことさら東京に集中しているとは僕には思えません(データを確認したりしたわけではありませんが)。地方にだってセカイ系のコンテンツに共感する人たちがいるでしょう。

    >舞台設定としての地方も所詮はイメージ消費対象としての道具立て以上のものではないでしょう。

    僕はそうは思いません。結果としてイメージが消費の対象となることは否めませんが、舞台設定は物語作品の整合性にかかわる極めて重要なものです。地方を舞台に展開されることでそれらしく見える物語、というものがあって、それはおそらく、その物語によって共有される感性が観念としての「周縁」と不可分に結びついているということです(物語の真実味というのは、そういうふうにして支えられるものだと思います)。

    むろん、セカイ系のすべてが「周縁」的な感性によるものだとは思いません。「周縁」に結びついたセカイ系と「中心」に結びついたセカイ系があるはずです。だからこそ、セカイ系であることがそれだけで「在京」感に通じるとは僕には思えません。したがって、柳本さんの書いたものについても、単にそのセカイ系的な感性を指摘するだけでは、「在京」感の説明にはならないと思います。

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  6. 福田様

    コメントありがとうございます。周縁からの文学と言えば、ポストコロニアリズムが思い浮かびますね。そこでは植民地と宗主国との関係を無視して世界が語られることは稀です。つまり個人が直接世界と結びつくというセカイ系の設定そのものが宗主国の発想であるともいえるのです。

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  7. 曾呂利さま 福田さま

    こんにちは。ひとつご質問があります。

    曾呂利 もうひとつ、以前からやや気になっていたのは、週刊俳句誌上に登場機会が多い評論家のスタイルで、ある「好み」が共有されているような、特定の作家をつねに話題にするような、一種の連帯感が透けて見えることだ。

    福田 これに関しては、僕も同感です。


    これ、どういう意味ですか?
    私自身、去年ここへの登場機会が多かった一人なので、
    「ある『好み』の共有」「特定の作家」「一種の連帯感」の部分をぼかさずに
    はっきり書いてもらえると、当事者として勉強になってたいへん助かります。


    なんとなく、私が自分で考えたのはこんな感じのこと ↓ です。

    1 昨年『週刊俳句』への登場機会が最も多かったのは、柳本々々、西原天気、瀬戸正洋、私(小津夜景)でしょうが、この四名が「好み」を共有しているとは到底思えない。そもそも柳本さんは「特定の作家」を話題にするような書き方をしたことがない。あと西原さんも瀬戸さんも書きまくっていましたが、毎回取り上げる対象がちがう。(私については三俳人しか論じていない上、新刊本は鴇田智哉だけだったので、省略)。

    2 「つねに話題にされる特定の作家」という表現から唯一想像できるのは、私には鴇田智哉以外いないのですが、これであってますか?

    3 もしそうだとしたら、柳本さんと瀬戸さんは鴇田さんに対して「好み」を全く共有していないし、それ以前にほぼ話題にしてすらいない。西原さんは鴇田句に好意的な感想を書く方ですが、にもかかわらず昨年の書評では、昨今の〈鴇田句への信頼〉の風潮(平たく言えば『凧柱』アゲの風潮)から距離を置きました。

    3 鴇田さんについて昨年最も論じた人間は、この私ではないかと思います。しかし最終回の総括は「〈揺れ〉ている振りをしつつ、実は図式的・定位的」「予測可能な事しか起こらない」「今後、繊細を騙る通俗性へ向かうかも」という批判です(言いたい放題ですね…)。そしてこの私の「好み」はどうやら誰からも「共有」「連帯」されていないようです。

    4 総じて捉えて、お二人は、ネット上で見聞する「好み」を『週刊俳句』の「好み」と混同しているんじゃないかな、と感じたのですが、いかがでしょう?



    追記 この書き込み、もしも2重投稿になっていたら、初めの投稿を削除してくださいませ。

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  8. 小津さま

    こんにちは。思わぬところから一撃いただき、恐縮です。
    えーっと、詳しく書こうとすると大変になるので簡単に書いてしまいます。
    まず、私の発言はここ1~2年ではなく、週俳の流れ全体のつもりだったので、「昨年」登場の多かった人たちの「好み」をとりあげたつもりはありません。

    で、全体に言えば、もともと週俳は俳句世間からずれた媒体ですから、良くも悪くも、俳句世間に対してカウンター的な作家がとりあげられることが多いです。

    一番は、若手世代です。超高齢化社会である俳句世間ではほぼ無視される世代の作家が、とても多くとりあげられています。
    佐藤文香、福田若之もそうですが、若手新人賞への反応や第一句集などへの言及は特筆に値します。
    (俳句世間で若手の扱いは極めて小さいので、週俳を見て期待の新人なのかと思ったら俳句世間ではまったく知られてない人だった、ということがありえます。)

    若い世代が多いぶん、私自身もふくめて、お互い多少の仲間意識をもっている面がある。また逆に、書き手それぞれが好みで書く(俳句世間の政治・おつきあい的判断では書かない)から、自ずから自分に近しい作家を優先的に選ぶ傾向にある。それがなれ合いに見えることもあると思います。
    (その意味で、依光陽子さんの角川応募作品を読むは刺激的でした。)

    ほかに、お名前の出た鴇田智哉氏の師、今井杏太郎氏なんかも、亡くなってからこんな継続的にとりあげているのは、おそらく週俳だけで、こちらは総体的な「週俳の好み」を感じます。

    ただ、ご指摘を踏まえると、むしろ書き手が限定的になってるのが問題なのかも知れませんね。
    以前は週俳にも時評欄があり、複数の書き手がいろんな話題をとりあげていました。
    書き手の顔ぶれが固定化すれば、自ずから好みも固定しますから、書き手の数を増やすことのほうが重要なのかも知れません。

    とすれば、私ももっと努力をしなきゃいかんわけですが、なかなか力不足ですみません。。。(思わぬブーメラン自傷)

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  9. 曾呂利さま

    「自分に関係ある?」と勘違いして、変な場所からいきおいよく飛び出てしまいました。どうかおゆるしください。


    > ただ、ご指摘を踏まえると、むしろ書き手が限定的になってるのが問題なのかも知れませんね。

    若い方なんかが、ごくふつうの文芸批評の長さ(30枚〜100枚くらい)で、論考を書いたりなんかしたら、きっとおもしろいですよね。
    10枚程度のエッセイだとドラスティックには作品を批判出来ない(説明責任を果たせない)ので、どうしても「おつきあい」っぽくなっちゃいますし。

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  10. あのですね。

    現行に限っても、自由律俳句、橋本直さんの子規、八田木枯、BL俳句etc、以前なら、小川春休さんの爽波、野口裕さんの林田紀音夫の両連載、これだけいろいろな記事の幅があるのに、

    《曾呂利 もうひとつ、以前からやや気になっていたのは、週刊俳句誌上に登場機会が多い評論家のスタイルで、ある「好み」が共有されているような、特定の作家をつねに話題にするような、一種の連帯感が透けて見えることだ。
    福田 これに関しては、僕も同感です。》

    って。

    おふたりとも、ボンクラですか?


    それとも、自分の「印象」から漏れる「例外」は無視するという手法?

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  11. 夜景さん 曾呂利さん 天気さん

    >(俳句世間で若手の扱いは極めて小さいので、週俳を見て期待の新人なのかと思ったら俳句世間ではまったく知られてない人だった、ということがありえます。)

    >今井杏太郎氏なんかも、亡くなってからこんな継続的にとりあげているのは、おそらく週俳だけ

    まず曾呂利さんのコメントから引用しましたが、これらは、良い意味で「好み」が出ている例ではないのでしょうか? このあたりには、僕の問題意識――これはちょっと強すぎる言葉ですから、ここんとこもっとなんかあったらいいのになという感じ、とでもしておきたいのですが――は全くありません。

    僕が「同感です」と書いたのは、批評における「好み」の共有という点についてなのですが、よく考えてみると、曾呂利さんが指摘している「好み」と僕の思い描いていた「好み」とが食い違っている。

    僕の思い描いていた「好み」というのはむしろ古典のなかで「特定の作家をつねに話題にする」という、時評的なものよりも、もっと古いものへの言及にかかわる「好み」です(だから、それを「自分の「印象」から漏れる「例外」は無視」しているというなら、たしかにそうでした。もちろん手法などではなく、読解のときの思い込みというやつです。読み解きの説明不足)。

    それを説明した上で、僕のここんとこもっとなんかあったらいいのになという感じのありかに関して、ひとつの例を挙げておきます。

    たとえば、2015年5月7日現在の話ですが、「蛇笏」でブログ内に検索をかけて少し調べてみると、蛇笏の句が引用された記事は、2013年9月15日付の、大野秋田「再説「俳句の文語」(前編)完了の「し」はよくある間違いか?」以来、ひとつもないらしいということが分かります。

    『週刊俳句』には基本は週一で俳句関連の記事が載っているわけですが、もう一年以上、蛇笏の句について誰もまともに触れていないということです。でも、無論、蛇笏の句についてはすでになにもかも語りつくされてしまっているなどとは、僕には到底思えません。俳句がどんどん新しくなっているなら、読みだってどんどん新しくなっていくはずですから。

    このあたりには、やっぱり、若干のさびしさを感じます(まあ、だったら自分で何でも書いたらいいわけですが)。だから、正確に言えば、「特定の作家をつねに話題にする」というよりはむしろ、「特定の作家が不自然なほど話題にのぼらない」ということを問題(という言葉はやっぱり強すぎるのですが)だと考えていたのですね(書いていて気づきました)。

    で、そこには、やっぱり、若干の批評のスタンスの、偏りとまではいわないまでも、傾きというか、何を好きかと言うよりも何を語りたいかをめぐっての「好み」の傾向があるのではないかと思うんですけれども、思い違いでしょうか。

    なにが欠けている(※ように僕には見えている※)のかというと、個々の古典にゆるくかかわりながらそれらを毎度新しい切り口で新しく読み替えていくような単発の記事がもっとあってもいいのではないかと。

    一年に二三本くらい、誰かが蛇笏についての評論あげたり、あるいは、なんでも良いですけど、風生についての評論とか、久女についての評論とか(こういう記事はちょっと過去記事に検索かけてみても『週俳』ではあまり見ないと思うのですがどうでしょうか)、そういうのが(長期連載とかではなく)もっと気軽にたくさん出てきてもいいと思うのです。

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  12. >なにが欠けている(※ように僕には見えている※)のかというと、個々の古典にゆるくかかわりながらそれらを毎度新しい切り口で新しく読み替えていくような単発の記事がもっとあってもいいのではないかと。

    大いに期待。

    蛇笏にかぎらず。

    まだ時間はたっぷりあります、福田くんには。

    返信削除
  13. 福田さま

    こんにちは。盛り上げてしまって恐縮です。

    今回、あらぬ死角から私が飛び出してしまった原因の文章は、

    1 《もうひとつ、以前からやや気になっていたのは、
    2 週刊俳句誌上に登場機会が多い評論家のスタイルで、
    3 ある「好み」が共有されているような、
    4 特定の作家をつねに話題にするような、
    5 一種の連帯感が透けて見えることだ。》
    6 《これに関しては、僕も同感です。》

    といったもので、これは「昨今見られる、一部の活発な書き手による党派活動への懸念」の表明としか読みようがないと思います。ですからまさか、登場の多い評論家の件(←これ、話の主語です)も連帯感の件(←これが懸念の総評)もすっとばして、

    >まず曾呂利さんのコメントから引用しましたが、これらは、良い意味で「好み」が出ている例ではないのでしょうか?
    >僕が「同感です」と書いたのは、批評における「好み」の共有という点についてなのですが、
    >僕の思い描いていた「好み」というのはむしろ古典のなかで「特定の作家をつねに話題にする」という、時評的なものよりも、もっと古いものへの言及にかかわる「好み」です。

    といった「週俳の好み」の話へと壮大に横滑りしていたとは、ちょっと想像もできませんでした。

    というか、これ本当に私のことだと思ったんです。
    「近年、評論での登場機会が多い人って誰?」と『週俳』のタグで記事数とその内容とを見たら、そうなので。

    だから、もしもお二人の話が単なる「イメージ」だったとしても、いえ、そうであるならなおさら、そこで「イメージ」されている私の「好み」とはどういうものか、また私の評論がどなたと「共有」「連帯」して見えるのか、そしてその理由はどの辺にあるのかを具体的に知りたかった訳です。先に書いた通り、私が自分なりに妄想しえたのは、

    1 《以前からやや気になっていた → 1年〜1年半くらい?
    2 登場機会が多い評論家 → 柳本、西原、瀬戸、小津
    3 ある「好み」が共有 → 全然わからん
    4 特定の作家をつねに話題 → 鴇田智哉、ではありえないし誰?
    5 一種の連帯感が透けて → 全然わからん
    6 僕も同感です → 話が成立してる!?(これは質問しないわけにはいかない…。) 

    という感じだっだので。
    ともあれ、自分のことに関しては納得できました。ありがとうございます。

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  14. 皆さま

    すみません、なんか私が不用意な発言したのが誘爆炎上してしまったようで、さらに不毛な沼に入り込んでしまいましたが、福田くんが適正、かつ、発展的なコメントを返してくれたので退場します。ありがとうございました、お騒がせしました。

    小津さま
    どうも、いらぬご心配をかけたようで失礼しました。
    小津さんの評論は、バックボーンも関心の在り方も独特で、言い意味で俳句の枠組みとは違う点が多いので興味深く拝読しております。ちょっと、普段読んでる文脈と違いすぎてうまくついていけない時がありますが。
    どうぞ、お気になさらず、またご論拝読するのを楽しみにしております。

    返信削除
  15. 最初に、先ほどのコメントで事実誤認が一個あったので訂正します。

    ×蛇笏の句が引用された記事は、2013年9月15日付の、大野秋田「再説「俳句の文語」(前編)完了の「し」はよくある間違いか?」以来、ひとつもないらしい。

    →日付けが違いました。正しくは、「2013年12月8日付」です(9月15日付の記事はそのひとつまえに蛇笏の句が引用された青木亮人「愛と幻の俳句甲子園(2)その他のインタビューから」でした。ちなみに、どちらの記事も、蛇笏はとくにスポットライトを浴びているわけでもありません)。

    さて、

    >1 《もうひとつ、以前からやや気になっていたのは、
    >2 週刊俳句誌上に登場機会が多い評論家のスタイルで、
    >3 ある「好み」が共有されているような、
    >4 特定の作家をつねに話題にするような、
    >5 一種の連帯感が透けて見えることだ。》
    >6 《これに関しては、僕も同感です。》

    この六分割、とても便利なので使わせていただきます。

    1 《もうひとつ、以前からやや気になっていたのは、
    →これ、いつからのことかは分からない感じです。曾呂利さんが週刊俳句を読むようになった頃以降、くらいに漠然と解釈。

    2 週刊俳句誌上に登場機会が多い評論家のスタイルで、
    →「評論家」って……? 評論専門(ないし中心)の書き手って誰のこと? 僕もその一部ですかね? などと思いつつ、以下に週刊俳句誌上の批評記事に広く共有されている執筆態度・傾向についての指摘が続くと思い、身構える。

    3 ある「好み」が共有されているような、
    →文脈上、「編集後記」本文(=多様なものが手に取れるところにあることについての肯定的見解)のテーマは共有されていると判断。それゆえ、何かを取り上げることが問題なのではなく何かを取り上げないことが問題とされているのだろうと解釈。ここから読みの歪みが生じる。

    4 特定の作家をつねに話題にするような、
    →3の解釈から、この言葉のネガ(特定の作家が表にでている一方で、埋没しているものがある)のほうを読み取る。そして、ここで背景に、古典的な作家についての記事が、今の作家についての記事と比べるとずっと限られているという漠然とした「印象」が思い起こされた。古い作家についての記事は連載ものが多く、取り上げられる作家が比較的偏っていることを検索ツールで確認。

    5 一種の連帯感が透けて見えることだ。》
    →過去よりも今についてより多くを語ろう、あるいは、できるだけまだあまり多くを語られていない作家についてより多くを語ろう、という「一種の連帯感」(それを通じて批評の書き手がお互いの批評に関心を示しあうところの、ひとつの気分)のことと理解。

    →6 《これに関しては、僕も同感です。》(もっと古いものについても幅広く書かないといけないなあ)

    ……と、大体こんな過程を経たわけです。

    ですから、厳密には、
    >すっとばして
    ではなく、一周回って見渡したときに『週俳』全体の「好み」の問題に重きが置かれていると読むに至った、という感じでした。

    これで説明になっていればいいのですが……。

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  16. 福田さま

    >これで説明になっていればいいのですが……。

    はい、とてもよくわかりました。
    ありがとうございます。

    曾呂利さま

    >どうも、いらぬご心配をかけたようで失礼しました。

    いえ、皆さんが大事な(?)話をしていたところへ突然横入りして、こちらこそ失礼しました。

    曾呂利さんの《以前から気になっている》という表現が5〜6年のスパンだと思わず、わたしが勝手にここ1〜2年のことと判断したのが原因で、そのあとに続く話の脈絡がどうやら「読め」なかったみたいです。ご説明、ありがとうございました。

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  17. 盆暗(ギャンブル用語)、つい気軽に使ってしまいますが、暴言でした。

    曾呂利さん、福田くん、申し訳ありませんでした。

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  18. 別に週俳が「党派的」であったり「連帯的」であったりしても全然いいし、芸術上の運動というのはそういうもんだと思います。むしろそういう自覚なく不偏不党の中立だと思い込んでいる方がよっぽど危なっかしいかと。

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  19. 党派、連帯、芸術、運動。どれも週刊俳句に似合わないかんじです。

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  20. >党派、連帯、芸術、運動。どれも週刊俳句に似合わないかんじです。

    まさにこれこそ党派なんですよね。

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  21. みなさん、それぞれに週刊俳句を特徴づけていただいています。

    参考≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/05/blog-post_66.html


    それだけ読んでいただいているということですから、当番(運営)としてはうれしいことです。感謝いたします。これからもご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。

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