2015-08-16

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(11) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (11)
今井 聖

 「街」105号より転載

いなびかり北よりすれば北を見る  
橋本多佳子(はしもと・たかこ) 『紅絲』(1956)


なんだこりゃ。 

イナビカリキタヨリスレバキタヲミル

ちょっと待って。なんでこの句が「なんだこりゃ句」なの?これ多佳子の代表句でしょ。という巷の声が聞こえてくる。

確かにこの句、多佳子作品の中ではもっとも喧伝されている句の一つに入る。既に名句としての評価が定まっている作品と言ってもいい。

だがじいっとこの句を見て、よおく考えてごらん。
いなびかりが北からしたので北を見たということでしょ……。

どこがいいのかなあ。
魅力を述べてみてよ、魅力を。

同じ作者の

乳母車夏の怒濤によこむきに

なんかは正真正銘の名句だろう。

構図の大きさ、見事さ、小さな生命と怒濤の対比。どこから見ても類を見ないほどの絶品。小津もクロサワも脱帽のカットだ。

それに対して冒頭の句はかなり異なる。

この句を絶賛する従来からの鑑賞は、長く寡婦であった多佳子の孤独感とか、北という語感が持っている研ぎ澄まされた厳しい感じとかが賞賛の中心だ。

それってどうかなあ。

寡婦であったことはこの句自体からはうかがえないし、「北」にロマンを感じたりするのは古いモダニズムの残滓じゃないの。西と言えば西方浄土を思い、南と言えば南方の玉砕の島々を思いますか、例えばですが。

まあ、南も東もこの句でそのまま使えば字余りになるし。

そういえば歌謡曲だって春日八郎も小林旭も北島三郎も吉田拓郎もみんな「北」だ。北へ旅立つって言った方がカッコいいんだな、やっぱし。

いなびかり西よりすれば西を見る

これが西方浄土をことさら意識せざるを得ない仏教系の住職の句なら納得するという問題かな?
そんなことでもなさそうだ。

この句が多佳子によって何時何処で作られたか、そのとき多佳子がどういう境遇だったかという考証は、句の評価には直接関係ない。

そう言うとすぐ子規の「いくたびも雪の深さを尋ねけり」だの「鶏頭の十四五本もありぬべし」だのを例に出して境遇と俳句評価との関係を云々する人が出てくる。境遇も含めて俳句だ。俳句とはそういうものだ。なんてね。

僕は違うと思うなあ。

一句は一句のみで鑑賞評価されるべきだ。一句だけでは、その人の人生のリアリティにまでは入ることができないと思う人がいたら、その人はそういういい句に出会ったことのない人。または入れないという先入観で凝り固まった人だ。

子規の句も前者は境遇への知識無くしては魅力を失うが、後者は「ありぬべし」の尋常ならざる表現から句の奥行きを引き出せる。

そういう観点から言うと「いくたびも」の句は喧伝されているほどの秀句ではないということになる。

すでに秀句としての鑑賞が一般化している場合でも一句一句をもう一度まっさらな自分の眼で検証すべきだろう。

この句の評価のもう一つの論拠はこの句が「根源俳句」を具現しているという見方。

「天狼」創刊の旗印ともなった「根源」という言葉の意味に関しては諸説あるが、平畑静塔の「藁塚に一つの強き棒挿され」や永田耕衣の「かたつむりつるめば肉の食ひ入るや」加藤郁乎の「冬の波冬の波止場に来て返す」などの傾向が西東三鬼などの仕掛けによって喧伝された。

これについては少し理解できる。耕衣のエロチシズムはちょっと違うと思うけど、無意味の「意味」のようなところを仕掛けてそこに存在の不安を描こうとする意図についてはわからなくはない。

この多佳子の句もそのラインにあるという見方だが、その点で言えばいなびかりのような光るものへ目を向けるというところですでに動作の動機と言うか因果関係が生じるので、静塔や郁乎の句ほどには意味性は希薄ではない。つまり「無意味性」が薄い分「実存」を醸しだすのはちょっと無理な感じがする。

では、この句から学ぶべきところは無いのか。
ある。

この句の作られた当時、俳壇の「女流」は星野立子や中村汀女などのホトトギスの女流と細見綾子、野澤節子ら「花鳥諷詠」と境涯派のミックスが主流。つまり「毅然とした己の生き様」や「育ちの良さや知性、品の良さが滲み出てくる」ように自己肯定、自己美化を詠む女流俳人たちがほとんど(まあ、今でもそうだが)。

それに加えて例えば多佳子と同年生まれの三橋鷹女なんかは自由詩のモダニズムに「かぶれた」モダンガールぶりが売りのいわゆる「お転婆」俳句。

良妻賢母自己美化とモガのお転婆。両方とも男社会への「媚び」のうちだ。

その点、無意味の意味というか、存在の不安というか、目的のない、意味のない所作の中に俳句固有の「詩」を見出そうとしたのは、成功作とは言えなくとも画期的な一歩であることは間違いない。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。



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1 件のコメント:

  1. >乳母車夏の怒濤によこむきに

    >なんかは正真正銘の名句だろう。

    >構図の大きさ、見事さ、小さな生命と怒濤の対
    >比。どこから見ても類を見ないほどの絶品。小津
    >もクロサワも脱帽のカットだ。

    そうなんですか?
    確かにこの句、一読して驚きはします。が、
    「狙い過ぎ」ではないですか?
    クロサワというくらいですから映画的と
    いうことなんでしょうが、私の記憶違いでなければ、
    黒澤映画にも賛否はありますよね。特に、30作のうちの、
    カラーになった終わりのほうは。

    >この句を絶賛する従来からの鑑賞は、長く寡婦で
    >あった多佳子の孤独感とか、北という語感が持っ
    >ている研ぎ澄まされた厳しい感じとかが賞賛の中
    >心だ。

    >それってどうかなあ。

    >寡婦であったことはこの句自体からはうかがえな
    >いし、「北」にロマンを感じたりするのは古いモダ
    >ニズムの残滓じゃないの。西と言えば西方浄土を思
    >い、南と言えば南方の玉砕の島々を思いますか、例
    >えばですが。

    そうなんですか?
    おっしゃることには九割がた賛成しているつもりですが、
    立論が浅くないですか?

    >一句は一句のみで鑑賞評価されるべきだ。
    >すでに秀句としての鑑賞が一般化している場合でも
    >一句一句をもう一度まっさらな自分の眼で検証すべ
    >きだろう。

    この点、私自身は「その通り」と思う者です。しかし
    ほかの人がそう思わなくても気にしません。
    俳句の鑑賞は人それぞれ、という
    ごく単純な話です。
    俳句の鑑賞に「べき」は、不要と考えます。
    ここで「べき」を使われる根拠がわかりません。

    >良妻賢母自己美化とモガのお転婆。両方とも男社会への
    >「媚び」のうちだ。

    当時の事情として、論旨にはこれも九割がた賛成しますが

    なぜ、そうなったか?

    それを考えないでケナしたままでいいのでしょうか?

    >いなびかり北よりすれば北を見る

    作者がどういう人物かまでは調べることがなくても
    作者(あるいは句の主人公)がどういう人物かを想像することは
    句の鑑賞の際に、むしろ普通のことと思います。
    作者あるいは句の主人公の、ある屈託した思いというものがこの句にはあると思います。
    西や南でなく、北である意味を積極的に捉えたいです。
    もっとも、この点は感覚的な、印象にすぎないといわれればそれまでなんでしょう。しかし、
    「北」が古いモダニズムの残滓? いったい、どういう、誰の作品のモダニズムでしょうか? 具体的に
    教えていただきたいくらいです。

    前回もコメントしました。
    もう繰り返す気がないので
    これで止めます。

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