あとがきの冒険 第18回
辛袋・ひたい加熱・病み主将
吉田戦車『惡い笛 エハイク2』のあとがき
柳本々々
辛袋・ひたい加熱・病み主将
吉田戦車『惡い笛 エハイク2』のあとがき
柳本々々
さいきん出たばかりの歌誌『かばん』(2016年12月号)の特集「描く短歌」の特集チーフを務めさせていただいたのだが、刊行されたあとにふいに思い出したのが私が〈絵と短詩〉をめぐる事柄に考えをめぐらせるようになったのは吉田戦車さんの『エハイク』(装幀は祖父江慎さん)がきっかけだったのではないか、ということだった。
この本は、吉田さんのハイク(俳句)に吉田さんのエ(絵)がついた絵俳句集なのだが、たとえば、
辛袋/ひたい加熱の/病み主将 吉田戦車
という吉田さん特有のシュールな575句に添えて、高熱の主将がレトルトカレー(辛)の袋をひたいにのせてうなされる絵が描かれている。
リーダー・熱・汗・カレーという過剰な〈あつくるしさ〉を含めて、いつもの吉田戦車カラーが遺憾なく発揮されている本だ(たぶん戦車さんのひとつの特徴は、〈必要以上の暑苦しさ〉だと思う)。
この本のいいところは、〈シュール〉とはなにかを考えさせられることにある。たとえばこの句で言えば、「からぶくろ」や「ひたいかねつ」「やみしゅしょう」と造語をつくりだし、《無理矢理》、575に突っ込んでいく。
ところがその《無理矢理》つくられてしまった「からぶくろ」「ひたいかねつ」「やみしゅしょう」はひとつの添えられた絵によって《成立》してしまうのだ。
絵はどんな非合理な言語をも納得させてしまう不思議な説得力がある(それは非言語や非概念をイメージに置換することをギャグに据えた『伝染るんです。』において証明されてきたことだ)。
ということは、シュールとは実は非合理的な言語実験というよりも、先行した合理的イメージだと言えるのではないだろうか。
つまり、わたしたちにはあらかじめ合理的なイメージがあって、しかしそれを言語に翻訳したしゅんかん、〈シュール〉が生まれるのだと。
たとえばわたしたちはなにか難解な句があると、〈実験的〉だと言って説明を終えてしまうことがある。しかしそれがどれくらい〈実験的〉なのかは吉田戦車のイメージレベルを通して一度再考する余地もあるのではないだろうか。絵にしてみれば、うん、そうか、と言えるものでもあるのかもしれないのだから。
たよれる、得がたい相棒と思っているからこそあえていうが「どうでもいいだろうそんなの」と普通の人なら思うようなことに、異常なまでにこだわるのが祖父江慎だ。
読点や鍵かっこが半角になっており祖父江さんから〈わざわざ〉読みにくくされている吉田さんの「あとがき」。祖父江さんの「どうでもいいだろうそんなの」なこだわりが遺憾なく発揮された「あとがき」であり、やはり『伝染るんです。』からお馴染みの〈意味のないあとがき〉である。
「あとがき」において一切俳句にはふれておらず、この本の装幀を担当した祖父江さんの話〈のみ〉に終始して終わる。つまり「どうでもいいだろうそんなの」と「あとがき」で書いた吉田さんの「あとがき」自身が〈どうでもいいだろうそんなの〉が生きられた「あとがき」になっている。
しかし、考えてみれば、吉田さんも祖父江さんも『伝染るんです。』の頃から真剣に〈どうでもいいだろうそんなの〉と向き合い、成立させてきたのである。
そしてだからこそ本書から教わるものは、短詩をわたしたちが読む際に〈どうでもいだろうそんなの〉と一見思うようなことを〈わざわざ〉経由してみる勇気だ。
奇プランを/光るまなこで/そぶえしん 吉田戦車
短詩を読むときに、どのように「奇プラン」を密輸できるだろうか。
たとえば実験句にみえるような句や歌でもなにかに翻訳したときにナチュラルになってしまうような状況がないかどうかあえて「どうでもいいだろうそんなの」をやってみる勇気がひつようかもしれない。今回の私の記事も「どうでもいいだろうそんなの」と言われるかもしれない。しかし、やってみたのである。
もちろんやったらやったで「どうでもいいだろうそんなの」と言われることもあるだろう。じっさい、私もよくいわれる。でも、そこでめげてはいけない。「どうでもいいだろうそんなの」を続けていると「どうでもいいんだろうかそんなの」と「ん」や「か」をつけてくる奇特なひとがあらわれることがある。
あらわれたら、どうするのか。私も、まだ、そこまではわからない。
(吉田戦車「あとがき」『惡い笛 エハイク2』フリースタイル、2004年 所収)
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