2016-12-04

ボブ・ディランと俳句 平山雄一

ボブ・ディランと俳句

平山雄一


ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞のニュースを聞いて、とても嬉しかった。僕はディランの長年のファンであり、最も影響を受けたアーティストだからだ。

ただし、高校時代に初めてディランを聞いたときは、歌詞の難解さに圧倒された。アメリカ人でさえディランの歌詞は分かりにくいと言われているので、日本の高校生にとっては当然のことだった。しかし音楽が有り難いのは、言葉の意味が分からなくても、ディランが人生の真実を歌っていることが僕にも直感できたことだった。

そうして今回、受賞を機にディランを聴き直してみて発見したのは、ディランの歌を俳句を読むつもりで聴いてみると、高校時代より遥かに身近に感じられたことだった。驚くことにディランの歌と俳句には多くの共通点があり、それをよすがに聴くと、高校生のときには気付かなかったディランの歌の面白さや深さがわかるようになっていた。

なので、もしノーベル賞をキッカケにディランに興味を抱いた俳人がいるのなら、ディランの歌を俳句で読み解いてみることを勧めたい。俳人は、俳句に触れたことのない人よりずっと早くディランの本質に迫ることができると思う。


これまでのノーベル賞受賞者の大半は、密室で作業する研究者や文学者で占められてきた。だがディランは75歳になる今も精力的にコンサート・ツアーを行なっていて、大勢の人の前でのライブ・パフォーマンスを続けている。これだけ多くの人々から拍手喝采を受けたノーベル賞受賞者は、前代未聞だろう。

聴衆がいないと成立しないのは、ポピュラー音楽の宿命だ。そして俳句もまた、鑑賞者がいて初めて成り立つ文芸である。ポピュラー音楽家は、「伝わらなくてもいい」や「わかってもらわなくていい」という立場は絶対に取らない。俳人も同じである。だからこそ俳人に、ディランの歌に触れてほしいと思う。


俳句とディランの共通点は、まず歌詞も俳句も韻文であることだ。簡潔な表現の中に膨大な情報量を蔵し、飛躍するイメージを韻(ライム)の力で聴き手の脳内に定着させることができる。

また、ディランの歌詞も俳句も、結論を言わないところで成り立っている。ディランの有名な「風に吹かれて」のサビは、♪答は風に吹かれている♪と結ばれている。歌の内容をどう受け取るかを、聴き手(読み手)に委ねている。その結果、混沌や不在といった“世の中の深淵”を描くことに成功している。

月いづこ鐘はしづみて海の底  松尾芭蕉

江戸時代の俳句としては、超モダンな響きがある。「月」も「鐘」も見えないのに、この二つの物が“海の底”で確かに出会っている。こうした描写が、ディランにもある。♪誰も痛みを感じない。今夜、俺が雨の中に立ちつくしていても♪(「Just Like a Woman=女の如く」より)は、芭蕉の描いた“不在の感覚”に非常に近い。


ディランはシュルレアリスムの詩からの影響が強いとされている。ロートレアモンの「解剖台の上での、ミシンとこうもり傘の偶発的な出会い」という有名なフレーズは、企業や個人名鑑の広告欄からランダムに抜き出された言葉で構成したとされているが、その作詩の方法にディランが挑戦した映像が残されている。

若い頃のディランを撮ったドキュメント映画『ノー・ディレクション・ホーム』(2005年公開 マーティン・スコセッシ監督)には、街に立ち並ぶ広告看板からディランが即興で詩を読み取っていくシーンが収められている。

「求む/タバコを売る店」
「求む/犬をシャンプーして送り届けてくれる店」
「求む/手数料で動物や小鳥の売買をする店」

これらの看板を前に、ディランは即興で詩を組み立てる。

「風呂を洗い、タバコを届けてくれる人/大募集」
「動物にタバコを/小鳥に手数料を」

と次々に読み替えていく。

これらの機知に富んだフレーズは、ディランの歌詞の中でよく見かけるタイプのものだ。

そして俳句にも、こうした“物と物とのぶつかり合い”の句が多くある。

渡り鳥見えますとメニュー渡さるる  今井聖

大きな湖のそばのレストランでの句だろうか。渡り鳥とメニューの出会いが、意外でもあり、新鮮でもある。解釈はすべて読み手に委ねられ、句の中には結論も説明もない。意外さと新鮮さが同居しているのは、ディランの「動物にタバコを/小鳥に手数料を」の手法に似ている。それこそ「渡り鳥にメニューを」と読み替えたくなる一句だ。

今井聖はシュルレアリスムの俳人ではないが、一見関連性のない事象から詩(ポエジー)を読み取る方法論には、ディランとの共通性を感じる。その他、聖の句には「日が差してをり刈田からピアノまで」、「鰐の背に日の当たりをり風邪兆す」、「乾鮭の眼窩に星を嵌めて寝る」などがあり、リアルでありながらディランと似た超然とした響きがある。


ディランの初期の傑作に「I Want You=アイ・ウォント・ユー」という曲がある。その歌い出しはこうだ。

やましい葬儀屋はため息をつく 淋しい手回しオルガン弾きは泣く 銀のサキソフォンは君を断るべきだと言う ひび割れたベルと洗いざらしのホーンは僕の顔に軽蔑を吹きつける 君を失うために僕は生まれて来たんじゃない 君が欲しい 君が欲しい♪。

ディランは“I Want You”のひと言を伝えるために、葬儀屋やサキソフォンを動員して混沌を演出する。意味のありそうでなさそうな語の連なりが、突然“君が欲しい”というテーマに集約される。“I Want You”は、論理的に導かれた結論ではない。いきなりテーマとして放り出されている。井上陽水の「傘がない」は、これとよく似た手法を取っている。

関係性のよくわからない情景描写の後に、歌の核心となるテーマを突然さらけ出す手法は、“人に受ける”ことを前提としたポップソングを作る上で有効なやり方だ。そして、一見無関係な情景描写に、作家の個性が出る。ディランも陽水も、情景描写とテーマに関係性があるかないかに関して、俳句でいう「付く・付かない」と同じ判断基準を用いているように思われる。 

コスモスなどやさしく咲けど死ねないよ  鈴木しづ子

は、“死ねないよ”を伝えるために、直接は関連性のないコスモスを描いている。読み手に自分の気持ちを伝えるために、この句の作者の施した工夫は、賞賛に価するものだ。やさしく咲くコスモスと死の組み合わせは、意外性と切実さが両立している。

ディランはシュルレアリスムと並んで、アメリカのフォークソングの伝統も重んじていた。それらのフォークソングの多くは、名もない貧しい人々、農民や労働者の生活の記録であった。ディランは恐ろしい程の記憶力を持っていて、レコードを1、2度聞いただけで憶えてしまう特技があった。少年時代にディランは夥しい量のフォークソングのレコードを聴き漁り、歌作りの糧とした。つまりディランは、アメリカの民のリアルな生活実態に精通していた。そうしたリアルとシュルレアリスムとの狭間に身を置いて、彼は歌を作っていたのだった。

それゆえディランは、創作を超える現実があることをよく知っている。「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、ディランの幻想的な作風は、幻想に逃げ込むところから生まれたものではない。小説より奇妙な現実を、彼は描こうとしていたのではないかと僕は思う。それがディランの歌詞と俳句の類似性に繋がっていく。

たとえば《水打てば夏蝶そこに生れけり 虚子》は、ある種の幻視である。また《泉の底に一本の匙夏了る 飯島晴子》も同じだろう。

「水打てば」の句は、打ち水から蝶が生まれたのかのように見えたという比喩であるはずなのに、虚子は断定として言い切っている。これが短詩の力であり、魅力なのだ。

また「泉」の句は、本当に泉の底に匙があったのかどうかは問題ではない。これもまた、リアルとシュルレアリスムの狭間にある一句だ。ディランもこうした幻視や断定の表現をしばしば使っている

さらに例を挙げれば、北大路翼の田中裕明賞受賞作『天使の涎』の中にも、同様の句が多数収録されている。

ハロウィンの斧持ちて佇つ交差点  北大路翼

ワカサギの世界を抜ける穴一つ  同

倒れても首振つてゐる扇風機  同

これらのリアリズムとシュルレアリスムの狭間にある表現の解釈は、聴き手(読み手)に委ねられ、聴き手の中でイメージが昇華されるのを待っている。

話を最初に戻すならば、ポピュラー歌手であるディランは、歌の自由な解釈をずっと聴き手に委ねてきた。委ねられた聴き手は、自由の素晴らしさと恐怖を同時に感じながら、ディランの歌を味わう。この文学的行為こそが、今回の受賞の理由なのだと思う。

このディランの受賞が、俳句などの短詩作品がノーベル文学賞にノミネートされる可能性につながればいいと思う。


最後にディランの音楽的側面についても少し言及しておきたい。

近年のディランのライブを観る限り、歌からはメロディが消え、ほとんど呪文か浪花節のような語りに近いものになっている。しかし、それでもディランは優れたメロディメーカーだと断言する。彼の歌を他のアーティストがカバーすると、美しいメロディが忽然とあぶり出されるからだ。ピーター・ポール&マリーの「風に吹かれて」やザ・バーズの「ミスター・タンブリ・マン」を聴けば、誰もが納得するだろう。

この素晴らしい旋律と、歌詞の韻律が合わさってディラン作品は成り立っている。だからこそ説得力がある。現在のディランの歌唱は、極限まで削ぎ落とされた究極の歌なのかもしれない。その削ぎ落し方もまた、俳句に通じている。


僕の最も好きなディランのアルバムは、1966年にリリースされたアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』だ。この稿を読んでディランに興味を持った人には、できれば彼の歌を聴いて欲しい。

終わりにディラン・ソングの歌詞の一部の和訳を挙げておく。
Desolation Row=廃墟の街
♪アインシュタインがロビン・フッドに変装して、トランクに思い出を詰め、
嫉妬深い坊さんを道連れに、この道を一時間前に行った。
彼は実に嫌みったらしく煙草をねだり、排水管の匂いを嗅ぎ、
それからアルファベットを唱えながら立ち去ったのさ。
君はもはや彼を気にも留めないだろうが、彼はその昔、エレキバイオリン弾きとして有名だった、廃墟の街でね♪




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