関 悦史
『ふらんす堂通信』第147号より転載
甲(かぶと)虫縛され忘れられてあり 西東三鬼『夜の桃』
この甲虫は当然オスなのだろう。メスではこういう形で子供のおもちゃにはなりにくい。然り。これは立派なツノをはやし、王者然としたオスの甲虫なのである。
擬人的に考えたら、それなりの矜持も実力もあるだろう。それがおそらくはたかだか子供にもてあそばれて縛められ、あまつさえ、そのまま放置される。その屈辱たるやどれほどのものか。
あえて擬人化しない写生の枠組でこの句を読めば、そうした内面の葛藤よりは(昆虫に内面などはない)、存在感を保ったまま、自力では動けない奇妙な物件となりはてて放置されてしまった昆虫にあわれをもよおすといったところが句の興趣になるのだろうが、それにしても「忘れられてあり」は、単にたまたまそこにいるということではない、加虐者=子供との関係をあらわしているのであり、この加虐=被虐関係の発生とともに、甲虫が何やら内面や感情をもった生き物になかば見えてしまうのである。
かといって語り手が感情移入しきって、甲虫の身になっているわけではない。あわれをもよおしつつも、所詮は虫のことであって、冷淡であり、わざわざほどいてやったかどうかすらあやしい。
異族の美しい英雄に対する加虐のような興趣が、この句にはわずかながらひそんでいる。
笑う漁夫怒る海蛇ともに裸 西東三鬼『変身』
加虐と被虐という関係は一応あるものの、一読、明るい日の光に満ちた健康的な印象の句ではある。明治の洋画家、青木繁の代表作となった油彩画「海の幸」にも通じるような神話的なスケールのモチーフでもある。
「笑う」「怒る」といいながらも、個人レベルの心情からは離れていて、それが何によってはたされているかといえば、ひとつは、当の「笑う漁夫」「怒る海蛇」という対句表現によってなのだ。この並列によって「漁夫」と「海蛇」は、圧倒的な力の差はありながらも、対等に通じあえる存在にされているのである。「漁夫」は「笑う」によって「海蛇」に近づき、「海蛇」は「怒る」によって「漁夫」に近づく。素朴なリアリズムでいうところの人間でも動物でもない領域を、互いの感情によって作りあっているのだ。
個人の心情を離れた神話的スケール感をもたらすもうひとつの要因は、いうまでもなく「ともに裸」という下五である。しかしこれを、単に文明に毒されていない素朴な生命同士の交歓の姿とばかりとらえてはならない。
基本的には人間社会に属し、この句のなかでも職業的属性で名指されている「漁夫」にとって「裸」は、必ずしもつねの自然の姿ではないし、逆に「海蛇」にとっては服を着ることなどおよそありえない以上、「裸」といわれることでかえって人間に通じる知性や文明性を背負わされてしまっているからである。
両者は百パーセント人間でもなければ、百パーセント動物でもない。句の言葉がつくりだす寓意的な空間のなかでのみ「裸」でふれあうことができるのだ。
悪童のみな貌美くて浜に古り 西東三鬼
句集未収録の句で『西東三鬼全句集』の補遺に収録されている。初出は昭和九年の「京大俳句」。「海浜小景」という題で発表された、「悪童」ばかり五句並べたなかの一句目で、全体の構成は以下のようなものだった。〈悪童のみな貌美くて浜に古り〉〈悪童に羞ぢらふ胸乳波に浸し〉〈悪童の口笛ひしと波の娘に〉〈悪童のコーラス沖に雲の下に〉〈悪童らインクの色の沖へ去る〉
見てのとおり、二句目と三句目で「娘」との関わりが出てきてしまう(二句目の「胸乳」は乳房のことで女性にしか使わないため、悪童自身の乳首を指しているわけではない)。従って、悪童の群像が描かれているとはいっても一応は異性愛者ということになりそうだが、しかし悪童と娘との関わりはといえば、二句目は娘の側が一方的に悪童の視線を意識しているだけであり、それに対する三句目での悪童のリアクションは口笛を吹くという程度のものでしかないのだ。べつだん、俳句だから品良く、あまり性愛には踏み込まずにまとめたということではない。三鬼には後年〈餅の黴いよいよ烈し夫婦和し〉(昭和三十七年)のような、健康で目出度い家庭内の性行為を、悪魔的に冷淡な視線で見据えた句もあるのである。どぎつい題材であっても、どうとでも表現はできるのだ。
この連作に戻っていえば、「娘」との関わりは、「悪童」たちの魅力を引き立てるためのツマのようなものでしかない。一、四、五句目の「悪童」たちの、コーラスしたり、インクの色の沖へ去ったりという行動のまとまりぶりを見れば、そのホモソーシャル性の強さはあきらかであり、「娘」など飾りでしかない。その一句目において、まず「悪童たち」の共通性を保証するのが「みな貌美くて」という美貌の指摘であり、ついで「浜に古り」という、「悪童」という呼び方とも相俟って、およそ社会的にも性愛的・家庭的にも生産性のある位置を占めるにいたっているとは思えない頽落の相なのである。「悪童」たちが去る沖の色が「インク色」という反自然的な呼び方をされるのも、自然のなかのおおらかな性愛などとはほどとおい不毛性をあらわしていよう。
語り手の視線はここではあくまでよそ事というに近い審美的なものであり、「悪童」たちの内面に踏み込むことよりは、絵図としての面白さに関心が向いている。かといって、必ずしも句の言葉が外観にばかり終始しているというわけでもない。ここで描かれているのは美貌を抱えながらいたずらに海辺に年を重ねていく若者たち同士の、個体の枠を超えた、群体的ともいうべき連携ぶりなのである。この「悪童」たちは、人間というよりはどこか機械とか、前掲の「甲虫」のような別種の生命感にひたされている。三鬼を貫いているのは、不毛な美によってこそ世界の意味性がたちあらわれるという、一種の美的倫理学であろう。
蛇足をくわえれば、この連作はすべて無季である。
月夜です閑雅な鳥は留守でした 西東三鬼
これも全句集の補遺に入っている句。昭和十一年の「旗艦」に発表された。
何もことさら同性愛的な匂いをかいでみせるまでもない、ごく無害なメルヘン的な句ではないかといってしまえばそれまでだが、人間と動物等が対等に交感する寓話的世界がBL的なものと相性が悪くないのは、稲垣足穂や、あるいは長野まゆみの初期の小説を見てもわかることで、この句の、三鬼には珍しい口語調で組織される「鳥」との交流は、どこかそれらに通じるものが感じられる。
そもそも「閑雅な鳥」というのがあやしい。単にしずかにしているだけではないのだ。「閑雅」といえばこれはほとんど人ではないか。
また「留守でした」との下五からは、「閑雅な鳥」との出会いを期待していたらしいことがうかがわれる。ところがその期待は果たされなかった。この「鳥」は夜だというのに「留守」にして出歩いているらしいのだ。ここから「鳥」とは、作者としての三鬼の知りあいである人間の誰それのことなのだといった方向に想像をのばしてはならない。「閑雅な鳥」は「閑雅な鳥」であり、世の常の鳥ではない知性的存在が「鳥」であるままふつうに暮らせるテクスト内にのみ存在できる「鳥」である。それと対応する語り手もふつうの人間であるかどうかはあやしい。
はぐらかされた出会いの期待と空白感を「月夜」が埋め、満たす。「月がきれいですね」といえば周知のとおり、夏目漱石による「I love you」の和訳とされている。異種間の友情とも恋ともつかない雰囲気はそうしたことからもかもしだされているのだろう。
同根の白菜食らひ友は使徒 西東三鬼『夜の桃』
「静塔カトリツク使徒となる」という四句のうちの一句である。これも全句の並びをそのまま引くと〈脳天に霰を溜めて耶蘇名ルカ〉〈洗礼経し頭を垂れて炭火吹く〉〈ルカの箸わが箸鍋の肉一片〉〈同根の白菜食らひ友は使徒〉となる。
実態としては友人である俳人平畑静塔と炭火をおこして鍋をつついているというだけのことであり、ルカという洗礼名の荘厳さが、鍋に残った最後の肉一片をめぐる気づまりさを詠んだ三句目などに用いられると、かえってユーモラスなものとなるといった効果を上げていたりもするのだが、友が何やら聖性を帯びてしまったことへの微妙な違和感という、さしあたりは日常の次元にとどまる無害なモチーフでしかない。
ここにとりあげた四句目は、そうしたユーモアの要素も目立たず、この並びのなかでは一見もっとも地味な句ということになるのだが、その分抑えがきいて、複雑微妙な感情的要素を、ものがいえない俳句という形式ならではのやり方で作品化しているといえるのではないか。
食事をともにするというのは、ある共同体に参加し、その一員と認められるようになるために欠かすことのできない儀式のようなものである。共食という行為自体に、もともと共同体の背骨を成しうる一定の聖性がひそんでいるのだ。ましてここで「ルカ」となった友と共食しているのは「同根の」白菜である。友の洗礼を通じて、自分にまで何か滋味ゆたかな光がしずかにさしてくるようではないか。聖性の世界に入ってしまった友を遠く、眩しく、さびしくも感じつつ、その威光は間接的ながら自分にも及ぶのが感じられ、ありがたい気もする。こういうものも愛の場面と呼ばれて然るべきなのだろう。
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関悦史 露
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