くしゅん。ごめんね。
太田うさぎ
ピアノ線もて天球に吊らるる日 生駒大祐
ウィキペディアによると天球とは「惑星や恒星がその上に張り付き運動すると考えられた地球を中心として取り巻く球体のこと」。太陽や月もこの球面上を移動する。その天球に吊られるとは宇宙の外側にいるということだ。しかも繋ぎ止めているのは一本のピアノ線。大変孤独で危うい状況である。けれども、この句に恐怖を煽るような様子はない。<吊らるる日>がいささか他人事めき、祝祭性すら帯びているためだろうか。天球から垂れるピアノ線のイメージが魅力的な故か。どこか神話的なエレガンスのある句だと思う。
方舟はペアのみですと息白く 青柳 飛
地上リニューアルのために、ノアとその妻、息子たちとその妻、そしてあらゆる動物の一番のみが方舟への乗船を許される。それ以外は全滅。伴侶があっても認められないのだから、生殖相手を持たないシングルは猶の事。有資格者のみが招かれるパーティー会場を守るボディガードのようなにべのなさだ。惜しむようにもたらされる簡素な拒絶の言葉とともに漏れる息は白く目は冷たい。<ペア>というあたかもトランプのカードのような軽い言い回しは諧謔味があるが、寛容性についてふと考えさせられた。そんなご時世ということか。私も方舟に背を向けてとぼとぼ来た道を辿る組ですが。
翻し畳むシーツや春隣 小関菜都子
大きなシーツを畳むのはちょっと手がかかる。端と端を持ち、勢いをつけてその両端を合わせる。空気を孕んでふっとシーツが翻った。そのときに春の訪れが近いことを頭ではなく五感で直感するのだ。俳句を書くとはそんな閃きの湧水に道筋をつけてやる作業なのかもしれない。
マフラーを編み国境の橋を編む 中村安伸
マフラーと橋、関係性の薄いこの二つが<編む>という行為によって結びつくのが短詩型の面白いところ。一つの国ともう一つの国の隔たりを埋めるのは一朝一夕には行かないだろう。一段一段網目を増やして完成するマフラーのように時間が必要だ。そのようにアナロジーとして読めもするし、この国境を内なるものや、人対人と捉えることも出来るだろう。いずれにしても手元のマフラーと遠い国境との呼応は静かで美しい。
幻の君に謝るくしやみかな 西生ゆかり
今ここにいない君はかつてここにいた君なのだろうか。くしゅん。ごめんね。謝ってしまう、いつもそうしていたように。謝れば君が現れるかのように。一瞬見る君の面影。でも次の瞬間それは掻き消え、私はひとり。切なさがあるけれど、暗くはない。そこがいい。
青いねと言うとき空の声が変 瀧村小奈生
青空が自らを青いねと言う。青いものを青いと言っているのだから問題ないはずだが、その声を変と聞いた。本当は青くないのか、騙されているのか。そもそもこの青さは不自然ではないのか。些細な綻びが疑問を呼び、ついには世界がガラガラと音を立てて壊れていくような感じ。フィリップ・K・ディックの小説にも通じるような。
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