現代語のノリ
藤田哲史
先日中原中也を再読してみたら、意外にも文語詩の印象が強いことに気付いた。
たしかに、よく知られている「湖上」の
ポッカリ月が出ましたら、 舟を浮べて出掛けませう。という文体はたしかに口語なのだけれど、詩集全編の口語詩の割合はそれほど多くない。中原中也を詩集で読んだことない読者には、「幾時代かがありまして」の書き出しの「サーカス」や「秋の夜は、はるかの彼方に」の書き出しの「一つのメルヘン」のイメージがあるのだけれど、それらは詩集のなかでは少数派といえた。
波はヒタヒタ打つでせう、 風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、・・・
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口語と文語。自由詩でははっきりと区分けできるものだけれど、こと俳句ではどうだろう。
たとえば、口語俳句といってよく挙げられるのは、
サイネリア咲くかしら咲くかしら水をやる 正木ゆう子のような破調と口語が分かちがたくあるような俳句だろうか。
ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子
あるいは、破調という要素を除いて議論するなら
盗人に逢うた夜もあり年の暮 芭蕉あたりの古典がよく持ち出されるだろうか。
海に入りて生れかはらう朧月 虚子
けれども、私は「文語の格調」や「口語の諧謔」といった言葉をほとんどあてにしていない。文語・口語をどのように使うか、という問題は結局作者の主義・主張でしかないし、俳句のアイデンティティたる「切字」自体が文語として破格の存在であるいじょうは、文語と口語を二項対立で語ること自体もあまり意味があるように思えない。
何よりも、俳句の文体にとって、実際に大事なのは、文語であれ口語であれ、その文体がどこまで現代語の感覚と隔たっているか、といった、あいまいだけれどしかし読者にとって根本的な要素でないかという直感があるからだ。
たとえば、伝統回帰を旗印にしている昭和30年代世代俳人の
春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂の「ゐる」。旧かな表記でしれっと文語のような顔をしているけれど、現代語寄りの表現の感じとか、議論として突き詰めていけばとても面白いと思う。
木瓜咲いて鴉の羽根の落ちてゐる 岸本尚毅
あるいは次の俳句。
夏嵐机上の白紙飛びつくす 正岡子規どちらも口語か文語かの判断はつかず、動詞の終止形で言い切る構成がよく似ている。ただ、これらの俳句を見比べて、なぜか作年の古い子規の俳句の方が現代よりだと感じる読者は多いと思う。山口誓子の「全紙」といういかにも漢語らしい言い方とか、「浸り」「浮く」と状態を動詞2つを続けるところとか、あきらかに漢文の韻律を意識しているところに、現代語らしくなさがある。
冬河に新聞全紙浸り浮く 山口誓子
ここでいう現代語の感覚は、おそらく世代とか、これまでに何を読んできたかとか、どんな地域で育ったかにもよるだろうから、絶対的な指標というものはない。けれども、品詞分解では解き明かせない現代語の感覚(ノリ、と言ったほうが私自身はしっくりくる)を含めた文体にこそ、わかりやすい口語俳句ではない、新しい文体のヒントが隠されている気がする。
鰯雲日かげは水の音迅く 飯田龍太現代語の感覚でそのまま読める定型の典型の一つ。日向よりも日陰の方が水音が速く聞こえるとか、何げない語彙で詩情をたっぷり含ませたり。
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎この俳句以降のすべての青春詠は、この俳句と見比べられてしまうようになった。切字と文語によらない、現代語による現代のための青春詠とか。
戦争の次は花見のニュースなり 山口優夢「次はお花見のニュースです」というアナウンサーの語り口がそのまま転写されている感じとか。
春めくと枝にあたつてから気づく 鴇田智哉「と」は引用の「と」。似た構成の成語に〈一葉落ちて天下の秋を知る〉があって、「知る」と「気づく」のノリの違いにこそ、この俳句の詩情の核心がある。
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約束の寒の土筆を煮て下さい 川端茅舎私はけして現代語のノリが野卑とは思わない。文語でなくて、字余りで、それでもこの俳句で格調が失われない理由を考えるたび、まだまだ俳句が作り足りない思いになるのだ。
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