自由律俳句を読む 154
「橋本夢道」を読む〔2〕
畠 働猫
前回、新年のご挨拶をしてから、ご無沙汰してしまいました。
現代のプロレタリアートとして年度末業務に忙殺されておりました。
さて前回に引き続き橋本夢道の句を鑑賞する。
<略歴>
橋本夢道(はしもと むどう、1903-1974)
本名は淳一。徳島の小作農家に生まれる。
高等小学校卒業後、15歳で東京の肥料問屋奥村商店に奉公に上がる。
荻原井泉水の自由律俳句に共鳴し、『層雲』へ入会したのは19歳のときであった。
俳句を通じて、生涯の伴侶となる静子と出会い、26歳で結婚。しかし「自由結婚」を禁じていた奥村商店より、それを理由として馘首された。
同じ頃から栗林一石路とともにプロレタリア俳句運動の中心となって活動した。
1941年2月、治安維持法による言論統制・弾圧の対象となり投獄される。(新興俳句弾圧事件)以後2年間、東京拘置所に拘禁された。
出獄後は『層雲』に復帰し、戦後は新俳句人連盟の結成から中心作家として活躍した。また、戦後は銀座の甘味処「月ヶ瀬」の役員として宣伝広報にあたり、「あんみつ」の創始者であるとも言われている。
69歳で食道癌を患い、71歳で死去。
生前に三冊の句集を上梓。
・『無礼なる妻』(昭和29年)
・『良妻愚母』(昭和39)
・『無頼の妻』(昭和48)
以上、その略歴をまとめてみた。
ドラマチックな人生である。NHKの朝の連続テレビ小説の題材になってもよさそうだ。
夢道の句には、恋と労働という二つの主題が貫かれている。
その生涯を支えた妻への慈しみと、自信を含めた庶民に向けた眼差しが、実に明快に表現されている。
句集ごとの鑑賞については次回以降に置くとして、その生涯のドラマが垣間見える折々の句を拾ってまずは紹介したい。
野菊咲き続く日あたりはある山路 橋本夢道
句集『無礼なる妻』の冒頭に配されたこの句は、『層雲』へ初めて投句し掲載された句なのだと言う。
青年の若々しく朗らかな足取りが目に見えるようである。
句としては平凡にも見える。句会では埋没してしまいそうにも思う。
しかしこの素直さ、衒いのなさは狙ってできるものではない。
しみじみとよい句であると思う。
しかしそれは私が、若者をただ若いというだけでまぶしく思う年齢になってしまったためかもしれない。
僕を恋うひとがいて雪に喇叭が遠くふかるる 同
ふたりに月がのぼり椎の花ちつている 同
ふたつは桃くりやの水に浮かせてある 同
ここには恋の喜びが詠われている。
夢道にとっては覚悟の恋であった。その熱情が熱情のままにこれらの句にはあふれている。
夢道にとって「恋」こそが、井泉水が「句の魂」として主張した「光」であったのだろう。
父をののしつて社会はわたしを売り買いする 同
資本主義社会の童話しかない国の絵本さがしてやる 同
スイッチを入れると機械が生きて俺と鋼鉄を削る夜だ 同
この銃口から父がおろおろ小作稲刈る手元が見えた、瞬間 同
軍国化と戦争の気配が濃厚となってゆく時代の中で、貧しき労働者として、戦争を憎む者として、プロレタリア俳句運動の中心として活躍していたころである。
井泉水が「句の魂」として上げたものは「光」と「力」であった。
夢道にとって「光」が「恋」であったように、「力」は「庶民の生活」や「労働」であったのだと思う。
しかしその井泉水によってプロレタリア俳句が否定され、以降対立することになるのは皮肉である。
大戦起るこの日のために獄をたまわる 同
うごけば、寒い 同
もう書くところがないわが句作紙石板に三百句 同
1940年から始まった新興俳句の俳人に対する言論弾圧は、夢道や一石路にも及んだ。前回紹介の「うごけば、寒い」もその投獄中に詠まれたものである。
獄中生活は2年6か月に及び、その過酷さを夢道は「病む鶴のように総身痩せ細った」出来事として後年語っている。
またその壮絶な日々を支えたものも妻への思慕であったようだ。
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 同
春燈に妻の他に妻なく泣くも怒るも嘆くも妻 同
われ獄のとき千日千夜妻の微笑が来て曇らず 同
妻よおまえはなぜこんなにかわいんだろね 同
句集の題名にもなっている「無礼なる妻」は、当然諧謔であり、深い愛情に根差した表現である。戦中戦後の食糧難において、あれこれと手を尽くし、家族の食事を用意する妻のことを他の句では「飢餓食造る妻天才」とも評している。
青年期の情熱的な恋とは形を変えて、二人は今やともに人生に立ち向かう盟友として並び立っているのであろう。思想の弾圧、貧しさ、物資の不足。そうした困難の中、つくづく見入った妻に対して本心からもれでた言葉が「なぜこんなにかわいんだろね」だったことだろう。
人間や働いて勝利の果てる命かな 同
桃咲く藁家から七十年夢の秋 同
69歳で発症した食道癌は、手術により一旦は回復し、2年後には北海道旅行に出かけている。しかし帰宅後再び病状が悪化。
昭和49(1974)年10月、橋本夢道死去。
上にあげた2句は、夢道の死の2週間ほど前に入院中の病院で妻・静子へ託した絶句である。
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句集『無礼なる妻』のあとがきに、夢道の俳句観が述べられている。
手元に該当の句集がなく、孫引きになってしまうがそちらを引用し今回の稿を終える。
「俳句は、民族の正統なる詩でなければならない。民主的な人々によっておこなわれている俳壇の、屈指の作家も鑑賞の玩具にひとしい仕事しかやっていないのではないか。私たちのやっていることは、玩具ではなくて、民族が生きるための文学でなければならない。悲しみの玩具ではなく、目的をもった要求の文学でなければならない。農民が生産しながら歌っている稗搗歌、米搗歌、俚謡、俗曲のように共同に生きつらぬく文学でありたい。それを俳句の形式をとおして自由に歌いたい。いまもなお抵抗しなければならない。」
次回は、「橋本夢道」を読む〔3〕。
※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。
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