【「俳苑叢刊」を読む】
第6回 皆吉爽雨『寒林』
寒林閑語
三村凌霄
第6回 皆吉爽雨『寒林』
寒林閑語
三村凌霄
その句を見ても題材豊富とは言えない。少なくとも変幻自在との印象は受けない。特に注意されるのは下の如き句群である。
噴煙へ馬ひきむけつ登山かな「阿蘇(四句)」と題せられたこれらの句はいずれも噴煙を詠じている。いま仮に吟行に行ったとして、一つの風景、一つの題材をもとに複数の句を作ることはあるだろうか。わたくしはそのような作り方をしないが、或いは何句か捻って書き留めておく人もあろう。しかし句会で投句するに及んでは概ね一句に絞るのではなかろうか。いずれにせよ、十年間で三百句弱という厳選の下での重複は異とするに足る。
登山道いまは噴煙めざすのみ
噴煙の映るに浸す白馬かな
噴煙のいま濃し御する登山馬
当時の句集では広く如上の現象が見られるのか、寡聞にして知らないが、爽雨の場合、連作というよりは寧ろデッサンの意識を以てなされているのではないかと思われる。ある風景を前に、ためつすがめつ詠み方を吟味しているのである。悠々たるものではないか。この鷹揚さを感じ取ることが『寒林』読解の第一歩である。
爽雨の句はしばしば長い時間を感じさせる。
菱採のはじめてあげし面かな写したのは一瞬である。しかし爽雨はずっと見ていた。「菱採」をずっと見ていたからこそ「はじめてあげし」と言える。余韻は後に残る響きであるが、この句は前の時間へ向かって響きを放っているかの如くである。
たれかれの木の間すがたや菌狩ここでは「たれかれの」によって時間が生じている。それを作者は凝視している。
座をかはりあうて眺めや遊び舟贅言は不要であろう。ついでに言えば前掲の「噴煙のいま濃し」も「いま」に到るまでの過程を含意している。
出水橋一人ひとりと渡すなり
ところで「出水橋」の句は遠景か近景か。わたくしは、「一人ひとり」の個を拡大して見ているのではなく、やや引いたところから、人影を「一つひとつ」見ているのだと読みたい。『寒林』全体から受ける印象がそう読ませるのである。
細部を克明に描写することだけが写生ではない。
遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子これも客観写生であることは言うまでもない。ここに生き物が点綴されると爽雨の句となる。
春雨の雲より鹿や三笠山ここで改めて『寒林』を読み返してみると、比率からいって遠景を描いた句がどれほどあるのか、客観的に多きを占めるのか、いささか疑わしく、この文章を書きつつも「印象」の頑強さに呆れるばかりである。とはいえ客観的なデータと初読の印象と、どちらが真実を語っているのか、これは一概に言えぬ問題である。
遠景の句の多寡はさておき、人間を含めた動物が殆ど毎句詠み込まれていることは誰の目にも明らかであろう(『雑草園』の青邨とは関心の在り所がはっきりと異なっている)。そしてその詠み込み方の典型を示すのが前引の「春雨」の句であり、生き物は全面に出ることなく、景や、季語の喚起する雰囲気の中に融解する。
時雨るるやあるじの声の夕勤め「あるじ」の姿は見えておらず、「時雨」の音と「夕勤め」の「声」とが縒り合わされるのみである。
戦場ヶ原のひとつ家水打てる二句目、「島の子」が拡大されているようでありながら、「元日の島」という大きな背景が用意されていることに注意されたい。
元日の島の子甘蔗(きび)を嚙めるのみ
以上、『寒林』の句が景に向き合う姿勢に焦点をあてて論じてみたが、ここからは感銘を受けた句について、一言ずつ申し述べたい。
ほぐれ散る苗もありつつ投げにけりこれも時間を感じさせる句、殊に時間の進み方が遅いように感じられる句である。
たちまちや峯のかな〳〵わが坊へ切れ字の使い方が面白い。「たちまちに」「三味のしばらく」と改めても良さそうであるが、『寒林』では非常に律儀に切れ字が使われている。『寒林』の句の調べがどことなく俳諧の発句を思わせるのはこのためであると考えられる。
向ふ峯に三味しばらくや梅さむし
あやめ見る低き橋あり高きあり確かにあやめを見るための橋は低い。それも発見であるが、高い橋があるとは更に驚きである。『寒林』に在っては比較的派手な句と言えまいか。
鶯の大きな声をそこねけり遊んだまでであろう。
石人に石馬に手やり悴みぬ悴むと分かっていながらこのような行動を取っているのがおかしい。石に手を触れたら悴むのは当然である、理屈である、と批判する人は、蓋し石造物に心惹かれる風流を知らぬのであろう。
向きあうて茶を摘む音をたつるのみ「のみ」「ただ」の如き限定詞がやや目立つことも指摘しておこう。
鴨の陣ただきら〳〵となることも
織りはげむ雪眼ながらの女房かなわたくしにとって雪眼は非日常の事に属するが、この句の舞台の地方では珍しからぬことなのであろう。「雪眼ながらの」は「雪眼でありながら」の意ではない。「織りはげむ」「女房」に「雪眼」という要素が単に加わっているに過ぎない。雪眼であろうとなかろうと、この「女房」は「織りはげむ」のであろう。「雪眼」は確かに普通ではない状態であるが、そういう状態になったからといって、取り立てて云々する程のことでもないのだ。
***
ところで、『寒林』において人間を詠んだ句は、生の実相を抉り出すでもなく、人をして思わず膝をうたせるような巧妙な切り取り方をするでもない。ただあるがままに詠んでいる。何の物語も無い日常の姿を写しながら、しかしそこに何かが、誰かが生きていることを感じさせる。
例えば「時雨るるや」である。「声」しか聞こえないが、確かにそこには人がいて、「夕勤め」という、日々の勤めを果たしている。「あるじ」にとって「夕勤め」は厳かなものでもあろうし、日常の中で繰り返される一瑣事に過ぎないかもしれないが、そういう営みを行っている「声」から、確かにこの人は生きているのだ、と確認される。
「あるじの声の夕勤め」は堅固な措辞である。上五で「や」で切って名詞で閉じている。しかも「夕勤め」は毎日のことである。季語が動くと言う人もいるだろう。然り、季語は動く。わたくしは、「時雨」はかなり利いている、などと判者ぶるつもりはない。動いて良いのだ。人生において、唯一無二のことなど殆ど無いのだから。
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