【俳苑叢刊を読む】
第13回 石塚友二『百萬』
粗雑と純粋
村上鞆彦
句集『百萬』は、「昭和四――六年」の章より始まる。石塚友二が二十代前半の頃である。ここには〈秋山の懐深き岩瀬かな〉など十句が収められている。
続いて「昭和十年」の章。〈夏星にヒマラヤ杉の秀は昏れず〉など五句を収める。
ここまでは明朗な自然詠といった印象の句が並ぶ。この頃の友二は、雑誌編集の仕事を通して水原秋桜子や石田波郷と知り合い、「馬醉木」に投句をしていたという。
次が「昭和十一年」の章。このあたりから単なる自然詠とは異なり、自らの生活に材を得た句が混じり始める。〈蚊帳吊るやわがひとり寝の白蚊帳を〉〈蜩に徹夜の窓の白みつつ〉
そして「昭和十二年」の章。冒頭に次の句が置かれている。
わが恋は失せぬ新樹の夜の雨
友二は三十一歳。失恋を詠ってはいるが単に暗いだけではない。夜の雨が打つものが「新樹」である点に、瑞々しさや生命感が滲んでいる。悲哀に浸りきることなく、前を向いた健やかな意志が息づいている。友二はこの句を得たことで自ら感じるところがあったという。生活と俳句との一致。この句を境に、『百萬』には友二の体臭が濃密に漂う句が並ぶようになる。以下、注目作を挙げつつ、『百萬』の世界を見てゆきたい。
金餓鬼となりしか蚊帳につぶやける
昭和十三年作。「金餓鬼」とはつまり金の亡者ということ。こんなナマな言葉を躊躇なくぶつけてくるのは、当時では異色だっただろう。一句全体には、自嘲かつ嘆息の気分が色濃い。
生活に金は欠かせない。生活と俳句とを一枚に重ねようとするとき、金のことから目を逸らしていては嘘になる。その点、友二は正直だった。〈金借るべう汗しまはりし身の疲れ〉〈為替手に一瞬嗤ふマスク中〉〈凍坂を下り来て長し尽日苦〉等、金を巡る喜怒哀楽はこの句集の重要な主題のひとつである。
酔ひ諍かひ森閑戻る天の川
昭和十四年作。酒場で俳句論を戦わせているうちに感情的な喧嘩になったのだろうか。帰路、天の川を仰ぎつつ、我が身を反省する一方で、どこかまだ納得のゆかぬ蟠りも少々抱えている。「森閑戻る」には、自らの内面を見つめる静謐な眼差しがある。この句に続く〈方寸に瞋恚息まざり秋の蚊帳〉にも同じ眼差し。胸中に吹きすさぶ怒りの嵐を作者はじっと見つめ、耐えている。
鳥渡る着のみの肩や聳えしめ
昭和十四年作。着流し姿で肩を吹かれて立つ一人の男の姿がイメージされる。「着のみの肩」は、「着のみ着のままの肩」を略した語と解するが、こういうやや強引なところに却って作者の気概がのぞく。「鳥渡る」が一句の境涯性をより濃やかなものにしている。
焚火すやわれ焼かる夜もかうぞ澄め
昭和十四年作。闇のなかの焚火の炎を見つめているうちに、いつしか思いは自らの死の上へ。中七下五には、全き死を希求する強い意志が感じられる。やや感情が高ぶり過ぎて空転している感もなきにしもあらずだが、しかし一句の底に流れる純粋さには打たれるものがある。同じく死を詠んだ作としては〈死の怖れ夜寒の闇にくわつと覚め〉もある。こちらは死の怖れ方の表現が、やや類型的。
たかんなの疾迅わが背越す日かな
昭和十五年作。友二はあまり背が高くなかったようだ。長身の波郷と並んで映った写真があるが、仲良し凸凹コンビのようでちょっと可笑しい。友二の右手は、波郷の左の肘のあたりを抱えるようにしている。肩を組みたいが、届かないので仕方なく、といった具合だ。それはさておきこの句、成長の早い筍はすぐに友二の背丈を越えたことだろう。そのスピード感を「疾迅」という漢語が強調している。また筍の成長を素直に讃嘆する気持ちが「かな」の詠嘆にこもっている。〈冬の蠅具足の翅をひるがへし〉という句もあるが、壮健なものに即座に応じる真率さを友二は持っていたようである。
一疋の雄の夜明けぬ冬薔薇
昭和十五年作。「一疋」といい、「雄」という。自らを人間というよりは動物として把握している点が特異だ。朝日に向かってやおら咆哮を上げそうな荒々しい気配がある。「冬薔薇」の取り合わせは、可憐でいじらしい。この取り合わせの味わいが、波郷の〈初蝶やわが三十の袖袂〉を思い出させるが、こちらはあくまでスマートな詠み振り。対して友二の句には男臭さが漂う。
裔いまだ体中の微塵枯木星
昭和十五年作。「裔」とは自らの子孫のこと。それがまだ形をなさず、体の中に「微塵」として散在しているという。『百萬』のなかでも発想のユニークさでは随一の句。この上五中七は扱いようによっては生々しくもなり得るが、ここでは「枯木星」の静謐さがそれを抑制し、一句を引き締めている。いつ子どもを持つのだろうかと我が身の未来へ思いを馳せ、粛然と心の澄んでいる作者である。
肩かけの臙脂の滑り触れしめよ
昭和十五年作。なめらかな臙脂の肩かけをしたその肩に触らせよと呼びかけている。相手は当然女性。この句の後に〈言いはず触れず女の被布の前〉〈寒灯下交みに弱き笑のみ〉と続く。女性や恋愛に関する句は『百萬』にいくらか出てくるが、ほとんどが憂愁の色合いを帯びている。〈胸の火を敢へてわが掻き短夜寝ず〉
今回この『百萬』を読んだことで、私は初めて石塚友二の作品にまとめて接した。これまで友二といえば、波郷の縮小版(大変に失礼な言い方だが)くらいにしか考えていなかったのだが、実際の作品に触れてみると、両者は「生活即俳句」を信条としながらも、やはり作品の相貌が随分異なることに気付いた。波郷の生活詠はその表現に切字を多用した簡潔さと古典に範を仰いだ落ち着きがあるが、友二の作品は饒舌で押し出しが強く、なりふり構わぬ粗雑さがある。〈汗と拭く柱鏡の脂顔〉なる句もあるが、この男臭さ、暑苦しさが『百萬』の随所から立ちのぼってくる。
しかしそれでもなお『百萬』の頁を次々と繰ってしまうのは、句の奥にちらりとのぞく純粋さやまっすぐな意志に惹かれるからだ。そのことを象徴的に物語るのが〈夜店行く白菊を挿す壺もがな〉という句。雑多な夜店の喧噪を分けて「白菊を挿す壺」という何とも可憐なものを求めて歩いていくひとりの男の姿。ここに愛すべき石塚友二の素顔がのぞいてはいないだろうか。
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