【俳苑叢刊を読む】
第14回 岩田潔『東風の枝』
水平線と、雲と、そのほか。
小津夜景
第14回 岩田潔『東風の枝』
水平線と、雲と、そのほか。
小津夜景
1.
岩田潔『東風の枝』を一読してまず思ったのが、読みやすい、 ということ。
宿の内部にわだかまる翳り。路上の喧噪と、室内の静寂。 こうした〈光と闇〉や〈動と静〉のコントラストは、 西洋絵画のパースペクティヴにすんなりと収まるものだ。 またギヤマンの表出する精神性、溢れる葡萄の豊穣性、 祭という俗世の愉悦といったモチーフも単純明快。 解釈の罪を犯すより先に、 存在そのものの鮮烈な印象を読者へと開示する。
ギヤマンに葡萄溢れつ祭宿巻頭句。ギヤマンの縁をすべる輝きと、
句集の纏う雰囲気を巻頭の一句でもって定めたあとは、 流れるように西欧の風物を感じさせる句を口ずさんでゆく作者。
狭路の空におぼろの塔の灯れる
薫風や上着を腕に行く広場
酒場寝て夜霧渦巻く街の辻
南吹く道を馬車ゆき夕さりぬ
街は秋フランス國旗煙草屋に
裏町の木沓の音も島の秋
2.
岩田潔の俳句の特徴のひとつは、 モダンからドラマツルギーを差し引いたところにある。 道具立てが時にバタ臭くみえながら決して演出過多ではなく、 自己をめぐる感傷とも無縁。あくまでも平明な美を好み、 一句を書き上げる際は、自身の教養あるいは嗜好のツボ( それはしばしば甘い) だけを残してあとはさっぱりと片付けてしまう。この平明好み どうやらこの点が、岩田に俳句を書かせる理由かと思われる は、ときに遊俳の香を漂わせもする。
梅干してとなりの二時はやや遅く
新刊書手にしてわれも春の人
入海の見えてゐる露地金魚賣り
3.
岩田潔は俳誌「天の川」に所属しながら〈目=観念〉 の人ではなかった。もちろん彼は目で見る。 とはいえ彼の見明かそうとするものは意味ではなくマチエールの質 感であり、言い換えればそれは〈確かに此処に在りつつ、 それでいて記憶に触れるごとき光景〉としての〈存在〉である。
朝刊と牛乳〔ちち〕に夏めく日光〔ひかげ〕かな
麺麭燒くや桃は廚の窓に熟れ
ジャム作る夕餉の洋燈またたくに
北郊の踏切番に冬の虹
4.
岩田句のまた別の特徴は、その構成意識の高さにある。平明を真に 好む者は、 その句の置かれる空間的なバランスにも気を配るものなのだ。 例えば、ロシア風ショットのつづく次の箇所。
蒼天に露旗ひるがへり橇の宿
橇の犬旭〔ひ〕にかがやきつ丘越ゆる
橇を止む馴鹿〔トナカイ〕群るる丘見ゆと
眞日照れば疎林ゆく橇ゆるめつつ
原始林のほとりゆきつつ橇夕べ
居酒屋の灯に雪降れり橇をやる
一片の壁の冬日に酒場出る
靴下をかがりて冬日野に去りぬ
枯野ゆく二枚の銅貨ポケットに
オリオンに粉雪ふりつつ夜會果つ
雪の野の別れきし窓灯を消しぬ
寒燈の陸橋見えてキネマ裏
寢臺に霜しづくせる枝の影
混石土に日は褪せゆけり冬深く
締めの一句の、全体から適度に距離をとった余韻。 その理知的な美しさ。
5.
岩田潔が新興俳句を懐疑していたことは、ちょうど『東風の枝』 の刊行と同時期に書かれた彼のさまざまな評論から知ることができ る。さらにそこでは自らの句集も次のように自己批判される。
いきなり妙なことを書き出すやうであるが、こんど私は自分の小句集を編んで、その文學的な噓に滿ちた句々に 對しそぞろに飽き飽きする念ひがした。 自分の歩いて來た文學的道といふものがこんなにも空々しいものか と何がなし糞いまいましいやうな感じさへしたのである。「 文學は繪空事か」との嗟きは屢々文學者たちの衝き當る壁らしいが 、この壁の感じさせるうそ寒さといふものは、所謂「冩生」 を忠実に遵奉している人たちには恐らく理解の出来ぬ性質のもので はないかと思ふのである。〔*1〕
6.
視点を少しずらして。
桑原武夫「第二芸術」には、初出に存在していたのに、 そのわずか半年後桑原自身の手によって削除されてしまった重要な 箇所があった。長谷部文孝「消された俳句 第二芸術論争の空白」によるとそれは《俳句に新しさを出さうとし て、人生をもり込まうといふ傾向があるが、 人生そのものが近代化しつゝある以上、 いまの現實的人生は俳句には入り得ない。 俳諧修業は人格の完成であり『俳句に人格の光あれ!』 などといつてみても、 今日の世に風雅などに遊んでゐる者からの光のさしやうはないので ある。たとへば俳壇の名家の世界認識とはどういふものであるか。 》といった桑原自身の文章につづく次の一節である。
言挙げぬ国や冬濤うちかへす かけい
岩田潔氏の解釋がある。「……はつきりと言挙げせぬ國日本が浮び上つて來る。禪にしろ、 茶道にしろ、俳句にしろ、すべて批評よりも實踐を尊ぶ日本文化を 物語るものである。 理論無用の國日本をめぐつて冬濤はたゞ默々と打ち寄せてゐる、 云々。」これ以上付け加へる必要はないが、 たゞ冬濤が何の象徴であるかが解釋されてをらず(恐らく、 小うるさい西洋合理主義であらうか。 聯合國ととるとあまりに不穏だから)、また「實踐」 といふ文字があまりにも輕みをもつて使はれてゐることに注意する にとゞめる。〔*2〕
7.
岩田潔は桑原武夫の「象徴読み」を気の毒に思ったようだ。『 宿雲』昭和23年2月号に寄稿した論文では、 上掲の一節を指して曰く《この一節は、『現代日本文化の反省』 に収録した「第二芸術」の中では削除してあるが、 これは氏のために賢明な処置であったと言はざるを得ない。 事は私に関することなので気がひけるが、「第二芸術」 の主旨には殆ど賛成である私にも、この部分は拙く、 氏のためにとらない。かけい氏の句の『冬濤』を『 小うるさい西洋合理主義』の象徴とみるなど、俳句の『読み』 方を知らぬと言われても仕方あるまい(……)冬濤は冬濤として、 それのみで鑑賞していたゞきたい。 俳句は象徴の芸術だからといって、 何でも象徴と結びつけて考へようとするのは、それこそ『 小うるさい西洋合理主義』に災ひされてゐるのではなからうか》 と書いた。〔*3〕
8.
また「俳句には近代的精神を盛り込めない」 という桑原の思いつきに対してはこのように書く。
芭蕉の傑作と云つても、當時の、西鶴や近松が素材としたところの「現實」や「社會」は、 直ちに素材とは爲し得なかつたのである。〔*4〕
9.
詩人でもあった岩田潔は「意味を求める若者は詩を書け」と言う。
生活探究派が意圖するやうな「動物的生」或ひは「動物生」を詠ひたいのであれば、何故、 十七音定型と季題といふやうな窮屈千萬な殻の中に自らを閉ぢこめ てゐるのであらう(……) 親の遺言でこの窮屈な俳句を作つてゐる釋でもあるまい(……) 自分の心の中に湧きたぎつ詩的感動(詩精神)が大事か、 偶々自分の擇んだ俳句といふ詩形式が大事か、 生活探究派は大いに熟考してみる必要があると思ふ。〔*5〕
10.
閑話休題。弟を戦地へ送り、父親を失った岩田潔は、この句集の最 後の章で父親のふるさとに戻って来る。 表面上はなにもかわらない毎日。
秋風の町行けば會ふ人親し
日記にはけふも落葉とあるばかり
波寄せて冬あたたかき乳母車
春を待つこころよ砂に身を起す
囀りや紅茶の後の支那煙草
手にとりてみなみかぜ吹くメニューかな
11.
しかしまた、次のような句集中の記述も。
毎日、眞青な海を眺めながら、生の憂愁に銷されてゐた。死の誘惑と闘ひつゝ、懸命に生きてゐた當時の私の面影が、 句に現はれてゐないことを、人は非難するだらうか。
障子張りて雲あたたかき日なりけり
三月のマントさびしき砂丘かな
木蓮の散りて裏町朝闌けぬ
松かげに歸帆遠のく墓参かな
鯉のぼり見えて街道海に沿ふ
12.
『東風の枝』は1933(昭和8)年から1940(昭和15) 年夏までの句をあつめた岩田潔の処女句集。岩田は1911(明治 44)年函館生まれ。父の職業(船員)の関係で横浜、神戸、 大阪に住む。中学卒業後は大阪、伊勢、名古屋の税関につとめ、 1939 年(昭和14)年には碧南市で煉炭会社役員に。「青垣」「詩風土 」「コギト」などの詩誌の同人を経て、昭和初期の山本梅史主宰の 俳誌「泉」に投句し、以後「天の川」「雲母」などに参加。戦後は 無所属。大浜練炭会社に勤務中、ガス中毒にて50歳で死亡。
春惜しむ人に水平線と雲
註
〔*1〕岩田潔「高野素十論」『俳句静思』臼井書房, 1946年, p.43
〔*2〕桑原武夫「第二藝術」『世界』第1巻第11号, 岩波書店, 1946年, p.62
〔*3〕長谷部文孝「消された俳句 第二芸術論争の空白」『炎環』1998年1月号,p.86 なお引用箇所の仮名遣い表記は当論文ママ。
〔*4〕岩田潔「俳句の運命」『現代俳句論』, 靑潮社, 1947年, p.143
〔*5〕同上, p.133
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