ジミヘンから星野源まで
安里琉太
外出するときは音楽プレーヤーを持ち歩く。中高生の頃は、熱狂的に一つのアルバムをヘビロテ(ヘビーローテーションの略)して、少し飽きてくると別のアルバムを見つけることの繰り返しだったが、最近は、なんとなくその日の気分で聞きたい曲を聞く暮らしになっている。すっかりイージーリスニングである。
ただ、そうしてなんとなく聞き流される曲は、どれくらい「なんとなく」選ばれたのだろう。疲れているときは静かな曲、元気な時は激しい曲という心情と選曲の関連は勿論、眩惑するほど暑かったり、雨が降っていたり、風が強かったりというようなその日の天候などの外在的な要因ももちろんあるだろう。なんとなく選ばれたものが、なんとなく選ばれる前に、既に行われているのではないか。そんなことを考えると、もう「なんとなく」選ぶことが出来なくなってしまう。さて、こう前置きしたが、別にこれはこれから選ぶ俳句とは関係ないことであるので、聞き流してくれて結構である。
ジミ・ヘンドリクスのキャラ弁アフロは布海苔 榮猿丸
作者の句である「すいかバー西瓜無果汁種はチョコ」を彷彿としたが、「ジミ・ヘンドリクスのキャラ弁」も「すいかバー」も模倣されたものであって、模倣されたものに使われる素材を今一度捉えなおすことで、それを異化しているという点に興味が向かった。布海苔の縮れ感やうっすらと赤い色合いが、ありありと浮かんで面白い。
うぐひすもちの粉あをし粘着ローラーに 榮猿丸
「粘着ローラーに」と言われると、最初に考えていた「あをし」より更に青っぽい「あをし」を思った。
春郊や日時計と気づかずにいる 佐藤智子
「日時計」を「日時計」として認識せずにいたのか、「日時計」と一緒に何かに「気づかず」に居たのか、それとも作中の主体自身がいつの間にか日時計として機能していたということか。どれか分からないのだが、そのどれも「春郊」の時間の流れが句の雰囲気に作用している。
春眠や渚につどふさくら貝 丑丸敬史
この「つどふ」は擬人化というより「あつまる」程度のものとして読んだ。思えば、眠りとは、レムとノンレムの周期で波打つという点においては「渚」とイメージを共有しているし、静謐として淡い「さくら貝」とも近いのかもしれない。夢オチではなく、「春眠」が渚やさくら貝へなだれ込んでゆく印象。
蒟蒻を煮ただけ二月がもう終わる 伴場とく子
「蒟蒻を煮ただけ」で二月がもう終わるというのと「蒟蒻を煮ただけ」の料理があって二月がもう終わるのか。後者の方で読むと、まさしく終わりそうな二月の気持ちが、うっすらと濁った蒟蒻を通して思われる。
シーソーは錆びた水色ぎいばたん 木田智美
「錆びた水色」は、水色の塗装が腐食し出したということだろうか。こういう風に書かれると、色でシーソーの音が変わりそうに思えてしまって不思議である。
チューリップにやにや笑う星野源 木田智美
「最近の星野源は、なんだかイケメンのように扱われているけれど、昔はそんなかんじじゃなかったよね。昔のほうがいい」とファンの人がいっていた。でも、よく考えると、にやにや笑っていてもイケメンとして扱われる、そんなイケメンの枠を拡張した星野源はすごいのではないかとなんとなく思った。
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