2017-04-02

【「俳苑叢刊」を読む】 第10回 長谷川素逝『三十三才』 若者の人生の物語 上田信治

「俳苑叢刊」を読む
10回 長谷川素逝三十三才
若者の人生の物語

上田信治


長谷川素逝の第二句集『三十三才(みそさざい)』(昭和十五年)は、ある人生の物語として読まれることを要求する句集だ。

この句集は、同じ作者による、戦場俳句の嚆矢であり最良の成果の一つでもある第一句集『砲車』(昭和十四年)の翌年、その第一句集の抄録を含む形で刊行された。

『三十三才』は、年ごとの大まか編年体になっていて、前半は、昭和十年前後から出征までの句が収められている。

「昭和十年以前」より

  雪ぐに
  いちにちのたつのが遅い爐をかこむ
  夜が来てまた夜が来て雪ごもり
  寝て起きて日々爐にあはすおなじ顔
  爐ばなしのわらひしあとのしんみりと
  いつぞやもこんな吹雪の晩のこと
  雪をんなこちふりむいてゐたともいふ
  いつも爐をたれからとなく寝に立ちぬ

  をりをり
  さよならと梅雨の車窓に指で書く
  車窓暮れ菜殻焼く火の来ては去る
  風呂を出たばかりの顔で夕焼けて
  緑蔭を出る新聞をぽけつとに
  避暑に来て夜は夜で町へたま撞きに
  遠花火海のかなたにふと消えぬ
  舟にのる月の出汐のひたひたと

切れや文語体を強調しない、口語的な平熱の文体。内容は、日常におとずれる感情をていねいにすくって、しばしば甘く流れる。平成俳句として提示されても、違和感なく通りそうな句ばかりだ。

素逝は、京大国文科在学中の、昭和六年から「ホトトギス」に投句をはじめた。

同年、水原秋桜子が「ホトトギス」を離脱する。

素逝は、虚子の嵐山行に田畑比古らと同行し、卒業論文は「明治俳壇史」だったという。ただ俳句に明け暮れた学生生活だったことが、うかがえる。

俳句にはまる以前の彼は、ボート部の活動に熱中し、高等学校を留年したりしたらしい。

※本稿中の伝記的事実と文章の引用は、すべて、うさみとしお氏の労作『長谷川素逝 圓光の生涯』(平成十七年 晩紅発行所)による。

昭和十年頃には、すでに素逝は「ホトトギス」のホープの一人になっていて、巻頭近くの五句欄四句欄の常連だった。

「昭和十二年」

  渓蓀(あやめ)の沼
  立ち枯れの木の原を来て渓蓀の沼(ぬ)
  蟇のこゑ沼のおもてをたたくなり
  山の雲渓蓀の水に下りてくる
  渓蓀の沼たふれ木うきて朽つるまま
  椎の花渓蓀の水にひかり降る
  沼の空ひそかに夏の日わたる
  牧の駒渓蓀の沼の岸にくる

  沙羅の花
  沙羅の花深山の空のしづけさに
  あかつきの沙羅の花こそほのぼのと
  うちしきてあしたの沙羅のよごれなし
  けがれなき白き花なりさびし沙羅
  うちしきて沙羅の月夜もよからずや
  ながかりし沙羅のをはりの山の雨
  沙羅の花をはりぬ山の空は秋

  七月抄
  七月の竹林くらくゆきにけり
  すすぎ場にのうぜんかつら花をたれ
  水な上みへ夏山色をかさねけり
  たくましきたうもろこしの葉の朝日
  田の人に朝ほととぎすしきりなり
  手花火のうしろすがたのほとうかぶ
  はまゆふに雨しろじろとかつ太く

〈うちしきてあしたの沙羅のよごれなし〉は、素逝の初期の代表句として挙げられることが多い。

「昭和十年以前」の句に一句の主人公として描き込まれていた作中主体が、これらの句では写生的な自然観照の視点に置き換わり、いったん抹消されたように見える。しかし、景全体に感情が染みわたるような形で、一句が自分の感傷を託す器とされていることに変わりはない。

また、この句集は、ほとんど全体が、4句〜7句毎に付されたタイトルのもと連作として読めるかたちで、構成されている。

素逝は、秋桜子の離脱とほぼ入れ替わりで「ホトトギス」に投句を開始するのだけれど、彼は、当時の「ホトトギス」にあって新興俳句的なものの影響を強く受けた若者の一人であった。

昭和八年には「京大俳句」が創刊、素逝も編集同人として参加する。しかし、有季定型にどう対峙するかについて井上白文地と論争となり、ほどなく(昭和十一年)素逝は同人を離脱している。

昭和十二年八月、素逝は、三十才で召集された。

彼が戦ったのは、同年七月の盧溝橋事変にはじまる、日本による中国に対する侵略戦争だ。

砲兵隊の小隊長(少尉)として、北支、中支、南支と転戦し、翌十三年秋、病を得て内地に還送されている。

  砲車抄
  夏灼くる砲車とともにわれこそ征け
  胸射ぬかれし外套を衣を剪りてぬがす
  雪に伏し掌あはすかたきにくしと見る
  みいくさは酷寒の地をおほひ征く
  馬ゆかず雪はおもてをたたくなり
  雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り
  おくれつつかをりやんの中に下痢する兵
  おほ君のみ楯と月によこたはる
  てむかひしゆゑ炎天に撲ちたふされ

「この集の大部分の句は、馬の上で地図の上に走り書きしたり、まっくらな夜中、手帳に大きな字で探り書きしたりしたものが多い」(『砲車』あとがき)

戦場から投句される作品は、「ホトトギス」巻頭を五回取り、その句や写生文を題材にラジオドラマが放送されるなど、たいへんな評判を得た。

つまり『砲車』は、刊行前から、その成功が約束された句集だった。

「何と言つても俳句は短いものだから、実感を完全に表すことがなかなかむつかしい。歌の方がその点でむしろ適してゐると思へるので、歌を習つて来なかつたのを悔いた」「四行詩くらいの詩だつたら一番都合よく表し得るやうな気がした」(井上白文地「長谷川素逝会見記」昭和十四年)

「字数が多く普通なら無論採らない。しかしこの人の場合、戦場の句として特別な感情を運ぶ形として、却つて効果を出してゐる。やむを得ず生まれた自然の調べであることがよくわかる」(高浜虚子「私の記者生活」朝日新聞 昭和十五年)

目の前に、戦争がある。

  夏灼くる砲車とともにわれこそ征け
  をのこわれいくさのにはの明治節
  ともをはふりなみだせし目に雁たかく

といった句は、ひたすらヒロイックだ。

  雪に伏し掌あはすかたきにくしと見る
  みいくさは酷寒の地をおほひ征く
  おほ君のみ楯と月によこたはる

は、同じくヒロイックではあるが、悲愴だ。

当時の読者はこれを皇軍賛美と読んだろう。けれど、たとえば「雪に伏し」の句、命乞いをする支那人を「にくしと見る」ことの痛み、悲しみは、見落としようもない。

  胸射ぬかれし外套を衣を剪りてぬがす
  かかれゆく担架外套の肩章は大尉
  雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り 
  秋白く足切断とわらへりき

これらの句は、戦争の悲惨を訴える反戦句として書かれたのではないだろう。彼は、ただ、戦争に、目を見開いているのだ。

『三十三才』の『砲車』以後の句。

  黄河の民
  ひとつかみの鹽を盗みて老婆剥がれ
  雨季くらくさそりは壁の割れに棲む
  日々死にてコレラを汚物を沼に捨つ

  河北河南
  雨季くらくひとつの土間に牛と住む
  氾濫の泥をかむりし麦を刈る
  熱風は人住む土の家を吹く
  頭剃りし裸の漢豚を剥ぐ

  陸軍病院
  胼の掌が面会証を大事と持つ
  ねんねこの女傷兵とはなしつきず
  脚切つたんだとあふむいて毛布へこめり
  室寒く傷兵と老人とうつむける
  春光は大病室の窓より入る
  病兵は春の入り日を窓に見る

  応召ふたとせ帰郷
  郁子の門をくぐりてつねのごとかへる
  額とせしかかの汗の日のわがうつしゑ
  それからのはなしに雨のかはづの夜
  青蚊帳の灯を消してふるさとの闇
  朝涼のまをちちははのおくつきへ
  ふるさとにして青梅を籠(こ)にちぎる
  静臥すずし人に会はまく会はず居る

「静臥すずし」が、句集『三十三才』の掉尾の句だ。

素逝は、応召後一年半ほどで、肺尖に浸潤が見つかり入院。昭和十三年十一月、本土に転送される。

昭和十四年、四月「ホトトギス」同人に推挙される。

同年、句集『砲車』刊。虚子の十一ページに及ぶ序文と、川端龍子の装画。

昭和十五年二月「京大俳句事件」。白文地、静塔、辰之助、白泉、三鬼ら十五名が検挙される。

同年三月、句集『三十三才』刊。

素逝は『砲車』を出し直すようなかたちで「実質的な第一句集」(うさみとしお前掲書)『三十三才』を刊行した。それが、「京大俳句」事件と同時期であったことは、もちろん偶然だろう。

うさみは、同年に書かれた素逝の句〈冬の日ががらすを透り身にあふれ〉〈ふりむけば障子の桟に夜の深さ〉〈水のごとすみゆく白さ花夕べ〉などについて「事件と関連づけるつもりはない」としながら「はかなさ」「亡びの意識」「けはいをたてず息を殺している情感」を指摘している。

素逝に、時代に対する不安と不審の思いはあっただろう。そう考えうる傍証はある。

素逝の戦場詠は、前半と後半で、その声調を異にする。『砲車』前半において、軍に加わったばかりの長谷川少尉は、聖戦をうたがわず、ヒロイックで戦争行為にも熱心だ。しかし、しだいに彼の句は、戦地にあって、しばしば彼我の境目を見失うようになる。

  かおりやんの中よりわれをねらひしたま
  かおりやんの中よりひかれきし漢
  てむかひしゆゑ炎天に撲ちたふされ
  汗と泥にまみれ敵意の目を伏せず

殺し、殺され、狙い、狙われ。寒く、暑く、不潔で、病気で、死にそうになって、死んだりする。それは、日本人も支那人も同じことだ。

  さむく痛く腹をぬらして雨やまず
  おくれつつかおりやんの中に下痢する兵
  ひとつかみの鹽をぬすみて老婆剥がれ
  日々死にてコレラを汚物を沼に捨つ

敵も味方も自分も、等しくやられっぱなしなのだ。

  地(つち)凍る漢民族の大き国土
  雨季くらくひとつの土間に牛と住む
  氾濫の泥をかむりし麦を刈る
  頭剃りし裸の漢豚を剥ぐ

かくして、「砲車抄」を含む『三十三才』は、天然の反戦句集という趣が強い。

もっとも、その後も求めに応じて、みごとな聖戦賛美の句を作ったりしていたようだから(「あふぎたる冬日滂沱とわれ赤子」「国は凍ての厳しさわれらみな神兵」)、素逝は、石田波郷のような非協力者ではない。

しかし、素逝は、やがて義弟の死などを経て戦争を深く憎み、『砲車』の句を悔いるようになる(その消息は、うさみ前掲書にくわしい)。

彼は、死の直前に自選した『定本素逝句集』(昭和二十二年)において、『砲車』の全句を(戦争と関係のない三句を残して)抹消した。

「血なまぐさい場面、むごたらしい所、きちがいじみた勇気の場、いや、もっともっと人間のもっとも深い意識の中にひそんだ、いやらしさをむき出しにするいくさの現場を、作品化すること自体が、その人間の獣性の産物に違いない(…)彼が自らの中の獣性による俳句表現、戦争表現を罪としてうけとめていたのではないか。……余程、心にやり切れないものがあったにちがいない」(平畑静塔「素逝のこと一つ」晩紅5号)

前掲の、うさみとしお『長谷川素逝 圓光の生涯』に紹介されているエピソードによれば、素逝という人は、体が大きく、明るく温かい人だったようだ。

『砲車』の句を見ても、それは分かる。

素逝は『三十三才』において、『砲車』の前と後ろに、昭和十二年以前の自分を、接合した。そうやって、彼は、自分の一貫性を保った。

この句集が、人生の物語として読まれることを要求しているというのは、そういうことだ。それは温顔の若者が、戦場から、そして戦場俳句の旗手という立場から、日常のつましい美の世界へ帰還するという物語だった。誰よりも素逝その人がその物語を必要としていたのだ。

それはそうと、昭和六年から昭和十五年にかけて、秋桜子『葛飾』、誓子『凍港』『黄旗』『炎昼』、窓秋『白い夏野』、草田男『長子』、草城『昨日の花』、たかし『たかし句集』、虚子『五百句』など、俳句史を画する句集がつぎつぎと刊行されている。蛇笏、石鼎、露月のような人たちも家集を刊行している。

このころ、近代俳句における「句集の時代」がはじまったのだと、言える。

山本健吉は『現代俳句』(昭和二十七年)で、素逝について、その「美しさ」を認めながらも「詠嘆的・短歌的に流れ、俳句的骨組は弱い」。初期句に多い口語的発想は晩年まで続いているが、「どうも調子が弱く、感銘が淡い」。名声を高めた戦場吟にも「調子がなだらかで、言葉の斡旋が巧みだが、単純すぎて」「概して物足りない」と、さんざんにくさしている。

山本健吉は、高野素十にも「句切れが弱い」から、重量感、芳醇さ、重厚さが足りない、との低評価を与えている。

ある時代に否定され、あまり流行らず試されなかった方法が、ある作家にとっては動かしがたい個性であり、それが隔世遺伝のように、時代をへだてた私たちにとって懐かしいものになる、というようなことがある。

『三十三才』における、主情性、口語性などには、秋桜子、窓秋ら同時代の新興俳句と並走した新しさがあり、そこには、小さな自分を起点とした唯美性、精神性が見出される。

自分としては、また一人、親戚を見つけたような気持ちだ。

  馬でゆく秋の七草ふんでゆく 『三十三才』
  いつせいに雑木林が葉をとばす
  燈台へ椿の径がかくす海
  蘆のなかあまたのこゑのすべて鴨
  麦の芽に畑も海もまつたひら

素逝はその後、句集『幾山河』(昭和十五年)『ふるさと』(昭和十七年)『村』(昭和二十一年)『暦日』(昭和二十一年)を刊行。自選による『定本素逝句集』(昭和二十二年)の出版を待たず、昭和二十一年、永眠。

帰国後、彼に残された八年間、彼の情感の表現は昭和十二年以前の自分へ回帰するようでもあったけれど、よりしづかな沈潜したかたちで、その成熟を示した。

  冬の日ががらすを透り身にあふれ 『幾山河』
  雨空のどこかに春は来てゐたり
  しきりなる落花の中に幹はあり 『ふるさと』
  秋の日が背にあたたかくしづかなり
  いちまいの柿の落葉にあまねき日
  圓光を著て鴛鴦の目をつむり 『暦日』
  寒林のなかにある日のよごれはて
  あたたかくたんぽぽの花茎の上
  牡丹の花とうしろの壁との隔(ま)
  しづかなるいちにちなりし障子かな






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