花独活論または苦き妹こそ花
関悦史『花咲く機械状独身者たちの活造り』を読む
竹岡一郎
俳句の美しさ、穏やかさに慣れ親しんだ読者を否応なく不安にさせる存在が見たい。ただ綺麗なだけ、ただ穏やかなだけ、ただ技法の粋を尽くしただけの句は充分溢れている。世界を貫通するかつてないやり方が見たい。俳句という無言を強制する詩形において、かつてない貫通式が見たい。伝統俳句結社に二十数年籍を置いていて、痛切にそう思う。
俳句とは穏やかな優しい快いものだという定義に従うなら、徒花と消えるか伝説と立つか未だ不明である句集に対しては一顧だにせぬ態度が、正解だろう。だが、解析し融合し展開せよ、と私の内なる黒炎が命ずるのだ。わが薪とせよ、と。
それにしても1400句である。1000を超える句を有する句集といえば、北大路翼の『天使の涎』2000句が思い浮かぶ。あれも名句集であった。北大路にせよ関にせよ、一見選句をしないように見えるのは(実際には恐らく綿密に選句しているだろうが)、何が駄句で何が名句であるかの基準は人の頭の数だけあると身に沁みているからだろう。(かつて藤田湘子に「駄句を作れ。駄句が出来なければダメだ。」と教えられた。北大路の句集にも関の句集『花咲く機械状独身者たちの活造り』(港の人/2017年)にも、只整っているだけの凡句は入っていない。)彼らが句集を編むとき、決して自らの美意識、自らの勝手な正義を人に押し付けないという自戒をしているようにさえ見える。その自戒の表れが、溢れる作句力と相俟って1000句を超える句群として立つのだと思う。
北大路翼が新宿歌舞伎町の混沌を、己が肉体を以って丸ごと受け止めようとしているなら、関悦史は己をインターネットに棲む霊として、複合し或いは平行する世界の諸相を丸ごと書き表そうと試みているように思う。
まずは「Ⅰ 近景」より。
ハイパーリアリズムの落書き全裸の男の尻
月の野はマイクロバスの捨てどころ
テトラポッドは股絡めあひ茂吉の忌
ぬひぐるみぎつしり詰まる秋の家
藁塚は子を何人か呑みしさま
霧を行けば工場どもの遺跡ぶり
これらの現実でありながら、悪夢のような風景。そこに漂う、バブル期を遥かに見やりつつ、落ちぶれてゆく時代の虚無感。人よりも、置き捨てられた物達の方が生き生きと物思う日々。
壁に描かれた「落書き」は描き手の自我を見せつけるものでもあるから、能う限り巨大に描かれているだろう。生身であれば決して有り得ない拡がりを以って、ハイパーリアリズムの尻により「裸」という季語をまぶしく発散させる。
マイクロバス達は相当古びているだろう。車内をよくよく見れば数多の人型の影が揺らいでいるかもしれぬ。それは数多の記憶であろう。人々の記憶を抱いたマイクロバス達は雨に露に月光に錆びゆきながら、捨てられた姥の如く、誰にも煩わされぬ野に月を仰ぐ。その朽ち開く扉、割れた硝子の歯を曝して穿たれた窓は、野を彷徨う数多の肉体、あらゆる霊を迎え入れるためかもしれぬ。
テトラポッドはどこにあるのか。斎藤茂吉の歌「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」を思うなら、恐らく最上川の河口にあるのだろう。山形県酒田市の景ではなかろうか。夕づく日本海の荒波に打たれ、藻に艶やかにぬめるテトラポッドの群棲を、あたかもテトラポッドに意志があり、孕み得る複数の股を有し、繁殖を願っているが如く詠ったのだ。
人間の入る余地の無い程にぬいぐるみのぎっしり詰まった家の、その所有者は恐らく寂し過ぎて集め過ぎたのだ。家はもう人のものではない、寂しい人の念をおのが魂として吸い込んだぬいぐるみたちの棲みかである。
藁塚が膨れているのは、子を呑んだようだと見たのであるが、実際に子を何人か呑んでいるかもしれぬ。子の肉体ならば、その子らは人の世に行き処無いのだろう。子の霊ならば、宿りたい胎が未だこの世に見つからぬのだろう。
「工場ども」と心あるごとく工場を詠うのは、廃墟だからで、いや、廃墟ではない。もはや遺跡である。廃墟が遺跡に格上げされるのは、人絶えて遥かに久しい場合だ。だから、霧は時間を速め、空間を歪めるものとしてその中を行く作者を巻き込むのだ、人から離れて独自の意志を宿した「工場ども」の胎内へ。
それらの景の根拠のように挙げられ重ねられた、過去の、現在の、未来の戦争。
兵の妻らの髪束凍る社かな
近代の社殿冷たし招魂社
何が化けたる九段会館秋暑し
旗の来て人巻き殺す秋の暮
七夕まつり軍用車両並べたる
一句目、「兵の妻の」には前書きがある。「土浦の日先(ひのさき)神社社殿には、千羽鶴とともに獣の尾の如きが幾つも垂れ」この前書きの凄まじさに、私はその景を見てみた。確かに、ささくれて獣の尾と化した髪の毛が幾つも下がっている。夫の勝利と生還の祈念として、かつては碧なす光を放っていた髪束は、今や七十年以上も宙に吊られた無念の塊として「忘れたか」と問いかける。
二句目、靖国神社、かつての東京招魂社には、明治維新に関わる御霊が祀られているが、そこに新政府軍の御霊は存しても、旧幕府軍の御霊は無い。それを近代の冷たさとして観たのだろう。性急な西洋文化の輸入の傍ら、大急ぎで確定された正義と悪の仕分けを観たのかもしれぬ。確かに、供養として片手落ちだ。明治新政府による充分な鎮魂を受けられなかった旧幕府側の怨念が、その後の日本の運命を徐々に歪ませていった観は否めない。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という、甚だ無神経な無慈悲な格言もその当時広まったのではないか。
(その格言がどこへ行きつくかについては、「Ⅳ ヤフー」中にこんな句がある。
「冷戦以後や惨事便乗型資本主義(ショック・ドクトリン)の血の霾る」「電脳投資家集団地球中蝗」これらの句は詩ではないか。単に歴史の事実であるか。この時代の基準においては堂々と美徳と化した貪欲を、ただ提示しているか。世界は二本の柱によって支えられている。即ち、暴力と金で、それは大なり小なり誰の脊髄にも沁みている筈の呪いだ。その呪いから目を背けさせ、心地よい蜃気楼を提示するのが詩であるならば。一方で、事実を、これが我々の世界であり呼吸であり内臓である、と提示する行為自体が詩であるなら。)
三句目、九段会館にかつて泊まったことがある。陸軍の軍装の幽霊が出るということだった。軍服の霊は只同じ事柄を繰り返し問うのだ。戦況は如何、と。
本当に英霊を思うとは、どういうことか。ここで図らずも作者は英霊の無念に寄り添っているように見える。英霊に額づくとは、靖国で軍歌を歌う事でも、英霊を神輿に担ぎ上げ生者の正義に利用する事でもない。供養とは、そんなことではない。供養とは、先ず第一に死者の無念を背負う事だ、氷の塊を背負う如く、背中が重く冷たくなろうとも。(それを私は数多体験した。)英霊が本当は何を大切に思い、本当は何を守るために殉じたのかを、例えば遺族の髪から、例えば数多の遺書から、例えば九段会館の行き場のない暗い狭い廊下から、十年かけてでも黙考する事だ。
四句目、旗は古来からのあらゆる大義名分の象徴だ。一見ぞんざいな「秋の暮」は、三橋敏雄の「あやまちはくりかへします秋の暮」を想起して読む時、正義を強要する具体的な旗としてしか読めなくなる。
五句目、「七夕まつり」は、現在の景であるが、未来に引き継がれる景でもあろう。天上の恋人たちの年に一度の逢瀬に現実の軍用車両が重なることにより、戦争が引き裂いて来た恋人たちを浮かび上がらせる。
「Ⅱ 渚にて」は全編、福島県いわき市に旅した句。
死穢すら無き土台延々秋暑の中
死穢も無き秋の核穢の光に居る
積む瓦礫に秋潮といふ蠢く墓
見えぬ業火と生きんとするか法師蟬
あらゆる秋草噴き出て崩れゆく切株
死穢さえも持ち去った津波が持ち去り得なかったものは、放射能である。地上の墓の届かぬ領域に去りしままの死者達を思う時、絶えず形を変える無限の波は、確かに死者達の無数の墓と見え、再び肉体を得んとして蠢く墓と見えるであろう。恐らく、ここには人霊と地霊の蠢きだけが描写されている。「土台」も「核穢」という造語も、諦めきれぬ如く諦めを強いる如く或いは警報の如く鳴き止まぬ法師蟬の声も、汚染を我が身に具現化したように噴く秋草たちも、事物の背後にある業(潜在的形成力)それ自体の表れのように、奇妙な影のような質感で現わされている。
「帰還困難区域へ 十三句」の中から、
「窓開閉はご遠慮を」秋の被曝行
「プラチナ買います」てふ店舗被曝の雨に冷ゆ
霧に滅ぶ町のあらゆる文字悲し
山中食ひ合ふ秋の草木と黒袋
この惨たらしさ。初めの二句において、形式は破壊され、新たに立ち上がる文体は無骨である。リズムはささくれている。この怒りのやりどころのない不快な現実にあくまでも寄り添おうとした結果のささくれた無骨さである。逆に、この書き方は被災地に誠実であると言えよう。
(そして、関悦史の句において多く形式が破壊され、文体の裂け尖るのは、作者の義憤が形として顕れているのだ。時に拙くぶっきらぼうに見え、時に自暴自棄に見えようとも、それらは手触りを持つ義憤なのだ。)
後の二句において、滅びは、飛び行く鳥の視点で表されているようだ。黒袋の中には汚染土が詰まっているのであり、草木と食い合うのだが、いずれは草木が勝つだろう。人棲まぬ山中ならば。
「Ⅲ 換気弁」では、「俺の震災がこんなに妹なわけがない」二十句が圧巻である。長谷川櫂の「震災句集」のパロディの形を取ってはいるが、実はパロディを遥かに超えている。二十句全部挙げたいところだが、特に佳句を挙げる。
ヒト滅ぼす妹変はり行く秋ぞ
人間に戻る妹なし帰り花
妹壊(く)えて煙たなびく五月来る
東京を霧のごとくに襲ふ妹
原発と妹融けあひて去年今年
妹聳え赤く爛れて行く春ぞ
吾妹らの帰る魂なき身の幾万
億年の時間の牡蠣に妹眠る
柳田国男の「妹の力」を思い出すなら、これらの句は読み解けるだろう。人間と神々を繋ぐシャーマンである妹が、太陽(アマテラス)の力の源である核融合に反応し、しかもその核融合はヒトにより起こされたものであるがゆえに、妹らもまた自然を離れて暴走を始めるのだ。
妹は本来、地祇の名代である。同時に、天つ神の依り代でもある。いや、そもそも国つ神、天つ神の区分はなく、スサノヲを始祖として、出雲系と日向系の二つの流れが在るだけだとする説もある。
戦後、新大陸から来た新しい偽神とでもいうべき原子力は、しかし戦前、日本でも理化学研究所において密かに研究されていた。福島県石川郡石川町にはペグマタイトの地層があり、ウラン鉱を含んでいたために、地元の中学生たちはウラン採取に駆り出されたが、原爆製造には程遠い量しか取れなかったという。ウラン採取を指示した理化学研究所のある東京ではなく、僅かなウランしか取れなかった福島で、よりによって原発が暴走したのは、なんという不条理か。
(常に不条理である。常に無言の歯嚙みである。人身御供としての妹に哭せよ。)
「妹の力」とは、アマテラス、つまりヒルメの力、太陽の源でもあり、戦中そして戦後を暴走する「原子力」という見慣れぬ偽神の形態をも取る。一方で、妹の「地祇の力」なる点を掘り下げてゆけば、弥生以前の神、縄文の、蝦夷の、東征されていった神々の念に行き当たる。
だから、ここで「妹」という語は、神々の争い、国土の業(カルマン)、封印された霊たち、それら全てをまるで多面体のように映し出す人型、依り代であり、名代であり、生贄であり、封印でもある巫女を意味する。
原発事故をいわば神話的に捉えたものであり、もしかすると長谷川櫂はこんな風に詠もうとして果たせなかったのではないかとさえ思えてくる。私は「震災句集」をあまり高く評価していなかったが、この神話的破壊、妹の反撃と復讐とでもいうべき句群が「震災句集」をベースとして生成されたことを思うと、これは期せずして「震災句集」の誉にもなろうと思うのだ。
最後の「億年」の句は謎である。牡蠣とは何なのか。或いは汚染物質を吸収して青白い真珠と化せしめる、海神の装置なのか。しかし、もはや制御不能なまでに巫の力を猛らせた妹は、この牡蠣において漸く落としどころを見出すように思える。破壊することに遂に倦む妹を真珠として眠らしめる、作者の祈祷かもしれぬ。牡蠣の殻の内なる、青白く虹がかった冷たさ硬さの上に妹は眠るのだが、その牡蠣は文脈から読むと、時間の結晶体のようなのだ。
「Ⅳ ヤフー」も更に惨たらしい。題は、スウィフトの「ガリバー旅行記」に出てくる、人間によく似た「ヤフー」、暴力が至上原理の動物。また、それに案を得た沼正三の「家畜人ヤプー」(Japanese Yahoo)にも掛かっている。
数千万人人体実験中正月
風邪か被曝か滅亡おのが内部から
米国債売れば死賜ふ敗戦忌
兵器恋うてプルトニウム生(あ)れ寒気に散り
官邸囲み少女の汗の髪膚ほか
殺し来し冷えとは自衛官自殺
人つねに平和を憎み春の泥
ここに有る、敗戦から原発事故そしてその後に至るまでの一つの大きな流れを読み解くとき、あの原発事故はもしかすると七十年前の米国による原爆投下から運命的に用意されていたものなのかという、めまいのような口惜しさが襲う。
社会的批判をなぜ俳句で詠う必要があるのか、短歌でも現代詩でも小説でも、他に幾らでも手段があるではないか、という批判は、金子兜太が戦後、戦ってきた当初からあった。だが、私に言わせれば、俳句は短さゆえに物語を語り難く、主体・客体の別さえも時に朧気とならざるを得ない形式だからこそ、それらの事を詠う価値があるのだ。なぜなら、人々は常に無言を強いられ、大きな物語の前で主体を失う。そして俳句もまた、その短さゆえに常に無言へと向かわされる。
もしも俳句が、無言を強いられる状況において決行される特別攻撃と成り得るなら、そこにこそ世の不条理を超克する密かな慰撫を見出し得るかもしれぬ。だから、俳句で以ってどうしても世界の惨たらしさを詠いたい、その志無くして俳句が覚悟として立つことなど有り得ないと、無茶なことを言ってしまいたい。
「Ⅴ 目まいのする散歩」は、打って変わって明るく読める句群だ。
くらげに「おーい」と手を振る浪速の女学生
新鮮なる銅鐸の身やきゃあきゃあ灼け
踏むがよいと銀杏(ぎんなん)満ちぬ踏めば鳴く
放送禁止用語を鶯が叫ぶ
これらの句にさりげなく混じって、
ルメイが叙勲されし世界に生まれけり
東京大空襲を指揮したルメイが日本政府に叙勲される。それは非常にタチの悪い冗談であり、覚めない悪夢のようなナンセンスであり、空襲で肉親や恋人を亡くした人々からすれば、怒るよりも先ず呆然とするだろう。それが悪い冗談でなければ、この世界自体が冗談なのだ。鶯がどんな放送禁止用語を叫んだのか、だんだんと気になってくる。
「Ⅷ BL」は、「ふらんす堂通信」に連載されたボーイズ・ラブを詠った句群。
野郎が何で俺に抱きつく更衣
戯れに友とキスして卒業す
「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」風光る
春の雲女の子たちはうるさいねぇ
競パンで雪へ飛び込むバカきれい
こんな呑気な句たちに次のような句が混じる。
天降り来し少年(リトル・ボーイ)を受胎せり
少年(リトル・ボーイ)の魔羅立つ地平 散り建つ原発
一句目だけだと奇妙な受胎告知の景に見えるかもしれぬ。二句目と合わせて読む時、これは日本が敗戦時に国土の新たな業を受胎する皮肉として読むことが出来よう。
広島に落とされたウラン型原爆には「リトル・ボーイ」なる名がついている。男根を茸と見立てるなら、この魔羅は当然キノコ雲であり、二万人の惨死の上に巨大な雁首を誇っている。射精するように撒き散らしたのは爆風と高熱と放射能のみではない。敗戦後、アメリカの主導によって全国に建った原発でもある。従って、「地平」の後の空白の一字は、敗戦による茫然自失とした空白感を表している。そしてあの大震災によって、再び新たなるリトル・ボーイは魔羅を勃起させたのか。緩やかな射精を今も続けているのか。
リトル・ボーイも、福島で電源喪失した米国GE社の設計による原発も、共に新大陸から新たにもたらされた禍つ神と言えよう。歴史を螺旋の形態と考えて、その螺旋を真上から鳥瞰する時、惨禍を受ける側の苦痛において、そして業(カルマン)の反復する性質において、二つの災厄は重なって見える。
渡邊白泉の句に「地平より原爆に照らされたき日」がある。白泉の句の後日談として掲句を読む時、白泉の半ば自嘲を帯びつつ原爆の死者達に殉じようとする思いは、現在このように継承されていることが見て取れる。
では、関悦史自身の内面は如何なるものだろうか。
来ぬものを待つ被曝して百合と化し 「Ⅵ 山海経」
円周率を泣き叫びゆく秋の暮 「Ⅹ コスモス」
死ぬときは黒電話鳴る秋の浜 同
「来ぬもの」とは友、家族、或いは救援、いや、ベケットの「ゴドーを待ちながら」を思うなら、訛りながら神と仮に名付けられるもの、を待つのだ。なぜなら、純潔であり聖性である百合と化すのだから。被曝したその身はゆっくりと傷んでゆくかもしれぬ。百合と化すのは、関悦史ではない。関悦史が見ているかもしれぬ少女あるいはユイスマンスの「腐乱の華」の主人公のような聖女でもない。百合と化すのは人類一般、関悦史がそこに属していると認識する種なのだ。だから、本来は百合の慎ましさ、純潔、聖性など持ちようがない人類を百合と見るのは、関悦史の極めて個人的な祈りである。
「円周率」の句は痛ましい。これだけは誰の眼にも立証されていると思われる永遠の連なりを泣き叫びつつ、関はどこまでも行くのだ。円周率は尽きる事がないから、彼の彷徨もまた尽きる事がない。舞台は「秋の暮」である。俳句における季語は「春の暮」と「秋の暮」に尽きるともいわれる。では、その俳句の突き当りの季語で、彼が選ぶのはどうしても「春の暮」ではありえない。なぜなら、世界中の「神々の黄昏」を彼は受け止めようとするからだ。
「死ぬときは」の句は、小川軽舟の「死ぬときは箸置くやうに草の花」と対比されよう。軽舟句が人生の静かな慎ましい大団円を思わせるのに対し、掲句は唐突な奇妙な誘いを思わせる。黒電話があるのは、秋の浜ではないかもしれぬ。浜の近くの、昭和で時が止まったような一軒家かもしれぬ。もしそうならば、まだ死の近くに地域社会は存在する、それがシャッター街と老人ばかりの場であっても。だが、もしも秋の浜にポツンと黒電話が置かれていたら。その線の端は無造作に砂上に伸びているにも拘らず、いきなりゆるやかに鳴り始めたら。その方がふさわしいような気もする。受話器の向こうには突如永遠が広がっているかもしれぬ。待ち続けた「来ぬもの」が遂に、受話器の向こうで語り始めるだろうか。
ならば、これらの句は、作者個人の人生の透視。孤独である事? いや、かつて作者のツィートを見た時、私が感銘を受けた呟き。「一人ではなく、零人になる事」
液状の時間や岩の殖えつぐゆゑ 「Ⅵ 山海経」
意識なく無意識もなく殖えつぐ石 同
生命(ゾーエー)の外にて石の殖えつぐなり 同
「タンギー 十一句」の前書きがあり、イヴ・タンギーの絵に触発されたことがわかる。黄昏、または暁の、永劫に薄暗い地平線の中で積み上がり、広がる石達の諸相。子供の頃の私にとって、最も恐ろしい絵は、タンギーの絵であった。
石もしくは岩は、動植物の生命の絶えた世界において一身に「存在しようとする執着」を引き受け増え続ける。その盲目的な、暗黒の繁殖において、時間は永遠のように区切りを放棄し、液状となる。
これがおぼろげな予見にとどまらず、すでに始まっている現実であることは、「Ⅳ ヤフー」中の「元朝や瓦礫となりて瓦礫に棲む」と合わせ読む時、確信される。ここで元日でも元旦でもなく、「元朝」なる季語が用いられることには大いなる皮肉が隠されている。
なぜなら、「朝」には「朝廷」という語が隠されているのであり、中央政権のめでたさの傍らで置き捨てられている地域、ひいては疲弊よりなかなか立ち上がれぬ地方が描写されるからだ。
「となりて」の語により、人が生ける瓦礫と化している景を思うなら、「タンギー」の句群における石もしくは岩は、全く他人事ではない。石の増殖は、反撃の一種か。或いは、あまりにも頑なに重すぎる狼煙か。
「Ⅹ コスモス」中に「生涯未婚ながら 二句」なる前書きで、「亡妻」という不思議な不吉な造語を抱く二句がある。この奇妙な、一種禍々しい二句を紐解くためには、まず「Ⅲ 換気弁」中の『オリエント工業「人造乙女博覧会Ⅲ」三〇句』なる、ラブドール(自慰に用いられる等身大の人形)の句群から読まねばならないだろう。
日もすがら裸で回転する仕事
同型裸少女愛され次第に個別の貌
神の留守ドールら家具に嵌め込まれ
鳥渡るドール胸乳に爪の跡
皺無き二十指茫と霧らふやラブドール
ドールが抱く大ディルドー白う冷えやさし
死ねば遺品見つからば露ラブドール
展覧会において来る日も来る日も回転台に乗せられ、大量生産にも拘らず所有者の日々の念を受けて個性を生じ、時に「家畜人ヤプー」の状況の如く、神の顔を避けて、生ける家具であり、その生の始まりにおいては死んでいるがために、鳥に摑まれる虚空のように乳には爪の跡。指紋も皺も無いゆえに魂は絶えず霧と化し、抱くのは肉ではなくシリコンの未だ純潔なる男根、所有者の死により未亡人ではなく遺品と化し、恐らく所有者にとっては真珠に勝る宝であった美しいドールは、その体内に男の生存と繁殖の念を注がれ続けた結果、(そして疑似生殖のたびに、受胎の機会と肉化を焦がれる数多の霊達に囲まれ纏いつかれて)、動かぬ唇の内で密かに呟くだろう。「白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを」伊勢物語の中で、門外不出の人形のように生きてきた姫への歌は、生きる理由も死ぬ理由も見つからぬ男の渇きであり、しかしラブドールに気高い個性を与えるのは生涯ただひとりの男が向ける渇きであるがゆえに。
リラダンの小説から百三十年を経てようやく生産ラインに乗った「未来のイヴ」は、しかしその生誕より死せるものであり、「亡妻」であるがゆえに、やがて未知の生命の諸相を帯びる。それを、暴走する依り代の力、つまり一種の「妹の力」と呼んでも良い。
肢が車輪の亡妻が来る春日影 「Ⅹ コスモス」
機関車成す亡妻に乗り冬銀河 同
ここで「未来のイヴ」は、外宇宙から飛来した古き神の如き様相を露わにする。回転するのはかつてイブを載せていた回転台でも春日影にたゆたう世界でもない。イブの一部であり、何本あるのか次第にわからなくなる肢である。すでにイヴは男の愚鈍な重みにのしかかられるのではなく、軽々と男を乗せ銀河鉄道を疾駆し、生と死の区別が無くなる領域へと男を連れてゆく。亡妻(イヴ)は、そもそも生命(ゾーエー)の外に存するからだ。
(「Ⅶ 侵蝕世界」中に「二輪生物の標本生きて主婦となりぬ」とある。これは「亡妻」のプロトタイプだろう。一方で、同じく「Ⅶ 侵蝕世界」の掉尾には「木星の付近を過ぎる機械我(われ)」なる句が置かれている。この「我」の視点が亡妻を受け入れる、機械のように冷静な観測者の視点であろう。この眼差しから、句集全体の景が展開するのかもしれぬ。)
一方で、「Ⅺ 花嫁」(ラブドールでもイヴでも亡妻でもない、或いは潜在的に絶えず置き捨てられている人形、瀕死の兵士にとっての最後のイヴ、未亡人というよりは最初から命亡き妻の如く振舞うことを強いられる者、この章においては戦争即ち人間の本能によって)、その章に描かれる看護婦であり兵士である「妹」たちの、あまりに惨たらしい様相、我々が呼吸する大地と地続きの、地獄の香。
死骸の大地に生者を見つけたる 幸せ
兵燃えたり看護婦シーツごとかぶさり凍土に消す
撃ち抜かれし腕切る器具無し食ひちぎる治療
姉妹入隊死を見合はじと別の隊へ
戦場の洗濯は重し少女みな脱腸
「スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』による十三句」から引いた。これは露悪趣味に思えるだろうか。それとも自身の体験していない戦争を面白おかしく書いているだけに見えるだろうか。
もしもそう思うなら、それはすっかり忘れているのだ、我々が先の大戦における膨大な死者達の怨念の上に立って(この体内を流れる血において立ち、歩き座り眠る大地において暮らし)日々喜び、笑い、老い、或る日唐突に死者の領域に入るという現実を。ここに描かれているのは、我々の生成された過去であり、現在であり未来である。
松谷みよ子の「現代民話考 6巻」(ちくま文庫、2003年)の記述を思い出す。「第六章 原爆 三 その悲惨」中の一節。
モンペ姿の老婆が、しきりに帯のようなものを懐におさめているので「おばあさん、帯などどうでもよいから早く逃げなさい」と忠告すると、老婆は怒ったように「こりゃ、わしのはらわた(内臓)でがんす」と答えた。よくみると老婆の腹部は裂けて、内臓がみな流れ出していた。先に挙げた「ルメイ」の句と「放送禁止用語」の句に挟まれて、次の句が置かれている理由を考える。
《生》は《死》の中なる白さ小鳥来る 「Ⅴ 目まいのする散歩」
小鳥はそれでも希望だろうか。寒さと飢えにあっけなく死に、嘴白く横たわるかもしれぬ小鳥であろうとも。「白さ」とは光だろうか。未だここに到着しない「死」だろうか。無数の死の只中にあって、極めて個人的な独自の死を峻別する眼差しだろうか。それともいつなんどき、死の冷たさに囲まれて白々と変化するやもしれぬ息だろうか。
スクール水着踏み戦争が上がり込む 「Ⅳ ヤフー」
このスクール水着は、無防備な少女の象徴ではないか。戦後の、もはや竹槍を握る必要のないはずの少女たちであり、しかし事によっては未来のイヴとして或いは戦争未亡人ならぬ「亡妻」として恐るべき変化を遂げるかもしれぬ「妹」たちであろう。
(同じ章に「またやるんですか」の前書きで、「白息の祖母竹槍を手に整列」とある。祖母たちはかつて「妹」であった。)
だから、この句集に密かに描かれているのは、恐らく未来なのだ。今我々が呼吸する世界の未来なのか、或いは平行する世界の垣間見える未来なのか。
否応なく、直截に、無意識の領域にまで侵入してくる触感。関悦史の句は、第一句集からそうであった。その当時、彼の「六十億本の回転する曲がつた棒」は、一部で話題になっていたが、伝統俳人の間では際物と見なされていた。私は珍しいモノには触れてみたいタチだ。とりあえず買ってみた。(私が買った時点で既に二刷だったのが、一寸羨ましかった。)伝統俳人である私にとっては甚だしく匂い強烈で、不快でさえあったが、何が不快なのか幾度もページをめくり探りたくなる誘惑も強かった。
彼と初めて言葉を交わした2012年の宗左近大賞選考会で(その時、関も私も、それぞれの第一句集をノミネートされた結果、はるばる新潟まで赴かざるを得なかった)、黒田杏子以外の選考委員全てに、特に金子兜太に、関の句集がボロクソに評されるのを目の当たりにした。黒田杏子と金子兜太の応酬で、選考会は荒波が立っていた。その様を見ていて思った。「もう一度きちんと読んでみよう」
なぜなら、彼の句集に脅威がひそんでいなければ、大家たちに、中でも金子兜太に、あれだけの貶され方はしない。そのとき会場にいた私自身、鞄に忍ばせていた彼の句集を、奇妙な伝染性の兵器のように感じていた。
それから「六十億本の回転する曲がつた棒」を精読し、詩客に六十枚の論を書いた(詩客 日めくり詩歌 2012年11月2日号)。私は自身の反応を整理するために、それだけの分量を書かざるを得なかった。
だから経験上、言えるのだ。関の句集の鏡像を肯定し解析を試みる、或いはこの句集を鏡として己が呼吸する世界を見せつけられ、地獄に安住する己を突き付けられるがゆえに、激しく嫌悪し執拗な否定を試みる、その相反する二つの反応は、実は同じ動機に因る。愛の反語は憎悪ではなく、無関心だからだ。
本当は(伝統俳人であるがゆえに)私こそが、関悦史とその作品を憎悪し罵倒し、一字一句に至るまであらゆる理屈を総動員して否定の爆撃、侮蔑の砲撃を浴びせ、焦土の関悦史の真珠の脳髄を、暗冥の最下層に恭しく囲いたい。だが、焦土と化した筈の生命(ゾーエー)の外で、塵となった筈の関悦史たちが、供犠の印である一つ眼を瞬きもせず、いつのまにか増殖している。
殖ゆるだけ殖えゆける石減ることなし 「Ⅵ 山海経」
意識なき知性タンギー界の石 同
タンギーの言葉。
繰り返すが、オブジェの根は深みへと垂直方向に下りてゆく。露地栽培の小石だらけの心土が栄養分においては上部の地層よりも限りなく貧弱であるにもかかわらず、この深みにこそ根は向かうのである。たとえ私が、関悦史の作品と人物に小便を浴びせ続けたところで、わが妬心を次の如く優しく揶揄され慰撫されるだけだ。
《「語るタンギー」(編訳・長尾天、水声社、2016年)より、「オブジェの生命(一九三三年)」》
枯野われ美少年らの尿を浴び 「Ⅷ BL」
虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」において、虚子は遠山ではない。遠山は恐らく俳句であり、虚子は枯野である。小川軽舟曰く、「季語とは作者自身である。」だが、そう云い得るのは季語と自我との区別が自ら付く段階であって、季語が時として自我との区別がつかなくなる場合、そこは執拗に区別したくなる。
もしも関悦史が三橋鷹女なら、「ひまはりかわれかひまはりかわれか灼く」の如く悲愴に詠うだろう。しかし、関の句においては、関自身は実は「枯野」でも「われ」でもない。枯野とわれの区別を一々つけるのが面倒にさえ感じている「眼差」、例えば木星付近を過ぎてゆく観測機械の視線である。
その視線が純粋な、誤解のない対話を求めて、未だ地球上では情動に支配される言語に歩み寄ろうとすれば、如何なる結果となろうか。その試みを「Ⅸ 数学」から模索してみよう。
点Pは動くわ桜咲きだすわ
秋 汝を次の最大素数で待つ
立方体の吾冷やかに無救済
記憶を0で割れば銀漢生まれけり
iの中氷炎上してをりぬ
太宰治の「人間失格」の主人公・葉藏の台詞、「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。」このあと、彼が何を口にすればよいのかをずっと考えていた。葉藏の黄昏が一気に正午へと反転する言語を。
長い沈黙の後、葉藏が突然「点Pは動くわ」と呟いたら。それが「意識なき知性」へと移行する表明だとしたら。
前掲の「Ⅸ 数学」の句群は、言葉を用いながら、まるで生命(ゾーエー)の外のように思考の外にあるものを示しているかに思われる。ただかすかな手触りだけがある。
先に関悦史の内面について触れた。だが、その内面にも更に肉体と精神がある。表面意識を肉体とするなら、無意識の領域が精神である。いわば、精神の内部の精神。「一念三千」とは、人の一念が三千世界を作る謂だが、その一念は無意識の領域にまで「深みへと垂直方向に下りてゆく」根のようなものか。
人工知能という触媒を借りて、垂直方向に侵蝕してゆく句群がある。「Ⅶ 侵蝕世界」については、「人工知能と私の合体を目指した」(句集あとがき)と関は言う。ここに侵蝕されているのは関悦史なのか。それとも言語=思考=世界なのか。多分お互いに侵蝕し合っているのであり、その侵蝕が、意外と愛の行為だったりもする。
第三段階へ移行し体表面に言語
直径数光年の肉塊 直下に立つ少年
汽水域死者十名の桃化せる
誕生時には約一億度の女性なり
確かに第三段階なのだろう。二句目以降、言語は途方もない巨人を、艶やかな死を、太陽を、無意識の領域からのように描写する。これらの奇妙な硬さと質感を持つ詩性、まるでブロンズ像からヤドリギのように生えた、どのようにも意味づけられ、或いはどんな意味も持たぬモビールの回転。このあたりが関悦史の外形の形状ではないか。土方巽が俳句を書けばこんな風に作るのではないかとも思ったが、土方のような肉でもない。あちこちに機械を嵌め込まれ、体の深部では機械の先端が肉と化しているような。関自身はその第一句集からいつも第三段階ではなかったか。次の句群は、塚本晋也の映画「鉄男」を思ったりもする。
生物・文章・スパイウェアを生物圏と呼ぶ
ソフトウェアに受精を行う種(しゅ)が南下
物体みな異常性欲 横須賀スタジアムが瓦解
スマートフォンに外性器生(あ)れ純粋知性
融合し増殖する、有機生物と無機生物と言語と人間。それはおどろおどろしくとも知性を保ちつつ生き残る可能性だ。そしてどんな意味も持たない筈の自動筆記性の言葉が、かつてどこにも無かった筈の社会を、たどたどしく描写し出すと、それは未来の情景として立ち上がってくる。次の句群は予言なのか。関悦史の奥底の「妹」が、期せずして口を開くのか。
国民は自分の甲羅を分泌す
藻類である女性士官 東北地方の南部に位置
長寿社会 頭部にカード入る成体
衛星最古の石器がし始む自動報復
ヒトの形態亡きヨーロッパ釣竿立つ
読者のあらゆる反応は、この句集の予言力を裏書きする結果となるかもしれぬ、もし義人こそは図らずも黙示録を編むのなら。この句集は年代記であり、読者の反応を空の石炭穴のように吸収して堅固になる記念碑であり、繰り返し解析したくなる、材質不明の黒い立方体なのだ。
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