【俳苑叢刊を読む】
第16回 細谷源二『塵中』
直截を貫く
西川火尖
第16回 細谷源二『塵中』
直截を貫く
西川火尖
細谷源二は明治39年生まれ、12歳から工員生活を送る傍ら、内藤辰雄のプロレタリア文芸誌「労働芸術家」の編集同人を務め、口語短歌にも活躍の場を広げるなど文学への興味は強かった。そして昭和8年、源二27歳のときに「句と評論(のちの廣場)」の松原地蔵尊選に一句入選したことをきっかけに、本格的に句作を開始する。昭和13年、中台春嶺と共に工場労働者として生活を詠む「工場俳句」を提唱し、プロレタリア俳句の可能性を模索していった。その後、昭和15年、精密螺子工場の経営を始めるが、翌16年、新興俳句弾圧事件に連座し2年余り勾留された。
今回取り上げる「塵中」は昭和15年刊行、昭和13年から逮捕前年の15年の句を収録した第二句集である。
夕日が射すと機械油(オイル)の光る俺達かな
帽子を振つてもあしたこうばでまた會ふ人ら
さしこむ朝日にどの職工も染まらうとする
「塵中」はこの三句を冒頭に始まる。どの句にも直截的な口語表現と、大盛りの字余りでもって、労働者のシーンをのびのびと描映している。終業、退社、出社のサイクルを「夕日が射す」「さしこむ朝日」など労働者を光で演出することで、工場労働の日々を力強く印象付けている。
起重機の老工碧き空を背負ふ
つとめ長ければ誰か靑空に汽車を描け
白き初夏工女に菓子をすすめ食ふ
工場旅行少年工の帽靑き
鐵かつぐ黄いろき首を肩へ嵌め
鐵工葬をはり眞赤な鐵うてり
源二は「句と評論」に加わる以前、新鮮な表現と素材の広さに感銘を受け、馬酔木によっていた時期がある。当時の馬酔木は秋桜子のホトトギス離脱をきっかけに、新しい俳句を目指す若者たちが大挙しておしかけていた時期で、彼らが起こした新興俳句運動は白や青、赤などのカラーコードを積極的に用いて、都市生活者のモダンな心理的描写を可能にしたところに一つの特長があった。これらの句もその影響を色濃く受けており、モノクロの写真に着色したような鮮やかな色で工場生活を捉えてみせたところに、源二の詩的感覚の新しさがある。
しかし、源二は初期新興俳句のモダニズムを取り入れつつも傾倒しきることはできなかった。源二の自伝、「泥んこ一代」に当時のエピソードがある。
馬酔木の句会に「夕焼に油まみれの手を洗う」という句を出したところ、秋桜子は「夕焼の」と直せば採ったと答えた。源二は同行の俳人に次のように漏らした。
僕はうぬぼれているわけじゃあないけれど、あの夕焼の句はそんなに悪いと思ってないんだ。先生の言う「夕焼の」としたら、あの句は生活が主ではなくて、夕焼という自然現象が主になった句になってしまう。僕のような生活をしているものの感慨を強く伝えるには、「夕焼に」としなければ駄目だ。〔*1〕
同行の俳人の同意は得られなかったが、源二は俳句を始めてからかなり早い段階で、新興俳句運動初期の鮮やかな色彩の句に惹かれつつ、自身の置かれた環境や志向とは違うことを自覚していたことが伺える。句集には以下のような句もある。
勘定日さびしい西日が背に煮えて
赤き夕日へ無事に勤めし心を捧ぐ
悲しい過去をもつた常雄は鐵かつぐ
鐵かつぐ寒さでかけさうな鼻を曲げ
夕日背に機械油の手を洗ふ
四句目までは当時も今も例えば句会などでは決して評価される類の句ではないだろうが、源二にとって譲ることのできない生活者としての証のような句だったのではないだろうか。そして最後の「夕日背に機械油の手を洗ふ」は前述の句会に出した「夕焼に油まみれの手を洗う」の推敲句と思われるが、源二の強いこだわりと表現の精錬が見られ非常に面白いと思う。
勘定日さびしい西日が背に煮えて
赤き夕日へ無事に勤めし心を捧ぐ
悲しい過去をもつた常雄は鐵かつぐ
鐵かつぐ寒さでかけさうな鼻を曲げ
夕日背に機械油の手を洗ふ
四句目までは当時も今も例えば句会などでは決して評価される類の句ではないだろうが、源二にとって譲ることのできない生活者としての証のような句だったのではないだろうか。そして最後の「夕日背に機械油の手を洗ふ」は前述の句会に出した「夕焼に油まみれの手を洗う」の推敲句と思われるが、源二の強いこだわりと表現の精錬が見られ非常に面白いと思う。
やや分析的な言い方をすれば、細谷源二は口語短歌的な情緒(詩質)と、新興俳句的な手法(方法論)、工場労働者としてのアイデンティティを融合させた点に彼の工場俳句の成果があるように思う。そのような句を少し抜き出してみると
ぼけた冬日を窓にかざつて働きます
工場帽そっぽにかぶり海の話
こぼした水がのびのび流れ職工冬
つとめ長し鐵より他に蹴るものなく
五月たのしおのおの赤き鐵をうち
公傷の指天にたて風の中
鐵工葬をはりクランクろんとめぐる
職工の洗面器ならぶ鐵製なり
そらあをく古き機械と肩ならべ
これらは、厳しい労働の現実に根を張り、そこに現れる悲喜を直截的に掴み取って句になったものである。工場労働の内側から労働者の感情を描出する試みは自然、字余りの多用、無季俳句へとなっていくのであるが、その感情の機微をいきいきと映し出すことができているのは、前述の詩質、方法論によるところが大きい。
新興俳句運動が俳句にモダニズム的価値観を付与した初期から、生活俳句や社会的感覚を標榜した後期へ移行していくなかで、細谷源二の存在が大きくなっていったのは、まさしく時代が彼の志向に合致してきたという点もあるが、それ以上に彼の「工場俳句」が、初期新興俳句が獲得してきた成果を損なわずに社会的感覚と融合を遂げられた点にあるのだと思う。
職工出征ばんざいの帽そらをたたく
人征きて馬征きて村に雪降れり
百姓ぞくぞく出征す太き眉を張り
百姓のさむき猪首のならび征く
職工面會所招集令を母がもちくる
これら戦時下を詠んだ句でも源二は他の句と同じスタンスで直截的に臨むことを貫いた。「ばんざい」なら「ばんざい」を、人も馬もでて征く村があればそれをそのまま詠んだ。少なくとも彼は無口ではいられなかった。
「塵中」の読後、改めて見回してみた現在の俳句は、「俳句に政治を持ち込まない」ことで純粋さと楽園性を得た代わりに、川を流れる盥のように黙って時代に流されていく存在に思えてならない。
〔*1〕細谷源二「泥んこ一代」春秋社, 1967年, p.117
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