2019-08-11

小瀬鵜飼吟行記 広渡敬雄

小瀬鵜飼吟行記

広渡敬雄


梅雨明け直後の猛暑の七月末、岐阜県関市の小瀬鵜飼を見に行った。

鵜飼では同じ長良川の「ぎふ長良川鵜飼」(岐阜市)が有名であるが、共に「美濃鵜飼」として奈良時代の故事にも記載され、1300年の歴史を有し、宮内庁式部職鵜匠としての伝統を受け継いでいる。

長良川は日本有数の清流で、富山県との境の大日ヶ岳の中腹を水源として白鳥町、郡上八幡町(共に現在は郡上市)を経て関市、岐阜市を貫き伊勢湾に注ぐ大河である。

観光鵜飼の色彩の強い「ぎふ長良川鵜飼」の16キロ上流にある関市の小瀬鵜飼は、素朴で古い風情が残り、隠れた人気がある。

鵜飼は、時の権力者の保護を受けたが、「美濃鵜飼」も織田信長、徳川家康、尾張藩の庇護を受け、鵜匠家は苗字帯刀を許されたが、明治維新で衰退した。その後京都一条家の庇護を経て明治天皇の上覧後、明治23(一八九〇)年から、宮内省主猟寮(現在の宮内庁式部職)となった。

国の重要無形民俗文化財でもある。

足立家母屋

小瀬鵜飼は、岩佐家4代目岩佐昌秋、足立家3代目足立太一、足立家18代足立陽一郎が支える。江戸時代中期から300年の歴史を有する足立陽一郎家母屋は式台付きの中二階の豪邸であり、大黒柱、梁が風格ある建物である。

 鵜匠家の式台にあり回覧板  敬雄(以下同)

この日は中庭の池で寛ぐ12羽の鵜の生態を見たあと、鮎尽くしの料理を堪能する。その後日暮れの1時間ほど前に、屋台舟で300メートル上流の「まわし場」という河畔に行き、鵜匠と共に夕闇を待ってから鵜飼を鑑賞する。

関市は一刀彫円空上人が晩年を過ごした地で、多くの円空仏が残り、関の孫六の名刀の里と共に小瀬鵜飼が有名であり、弥勒寺跡近くの「関市円空館」内には、鵜飼関係の道具、装束等が陳列されている。

鵜匠衣装等

鵜匠の装備として、風折烏帽子、漁服、胸当て、腰蓑、足半(草履)、手縄の他に鵜篝、鵜籠、鮎箱、鵜舟(ミニチュア)等々。

小瀬の鵜舟はその名も床しき「鮎之瀬橋」の少し上流から、橋のたもとの鵜匠邸の河畔までの300~500メートルの間で行われる。

朝、寝床の鳥屋(鵜部屋)の十二羽の鵜が、鵜匠によって一度鵜籠を経て一斉に中庭に出されて、ホースで一羽一羽に水を浴びせられる。そう嫌がる風でもなく、そのまま中庭の池に飛び込んでは浮沈を繰り返したり、軽く飛んで岸の置き岩や松に飛んで止まったりする。それから、大きく羽を広げて内側を乾かした後、鉗子のように先が曲がった嘴で自身の油を使って羽繕いをする。

自ずと序列の高い鵜がそれらの高い場所を占める。

羽を広げた鵜を見ると、片方の羽の中程が四分の一ほど切られている。あまり飛び過ぎないようにとのことではあるが、捕獲され鵜飼の鵜となった切ない運命も少し思う。

この小瀬を始め、全国の鵜飼の鵜は、茨城県の日立市十王町の海鵜の渡来地伊師浜(鵜の岬)で許可を受けた業者が捕獲したものである。鵜は渡り鳥で、春は南方から、秋は北方から渡来し岩場で休んでいるところを捕獲される。

 嘴につきし和毛揺れゐる荒鵜かな
 
黒々とした羽は水を弾き、ますます艶を増しやや緑がかった黒羽が瑞々しい。年を取ると艶も落ちると言う。黒く大きな蹼は、水中での高速の泳ぎも宣なるかなと思わせる程逞しい。

鵜匠母屋中庭の鵜

時々喧嘩をして、相手を威嚇するかに鳴いたり、口を大きくあけたりする。鵜の喉はうっすら赤く奥面が鮮やかであり、時には人懐っこい鵜もいて近づいてくる。

 嘴開けし若鵜の喉の真くれなゐ

ほぼ年齢による序列があるが、体力が落ちると変わる。

運搬移動用の鵜籠は唐丸籠に似た大きな竹籠で、中に仕切り板があり、それぞれ仲の良い二羽(かたらい)ごと入れられ計四羽が運ばれる。先日は、一羽が逃げ出し、翌朝発見されて無事確保されたとのこと。よくあることらしい。

朝は鵜には食事は与えられない。空腹にして出漁し鵜飼で鮎を捕まえさせる。手縄は二尋(ひろ)半(約4メートル)あり、鵜の頸と羽下の胴に襷掛けで付け、手縄裁きで12本をもつれさせないように操る。

彼らにとっては、空腹ながらやや寛いだ時間で、少しずつ夕刻の鵜飼へ気持ちを高ぶらせているのかも知れない。

鵜の目は碧く印象的だが、眼光は鋭く文字通り「鵜の目鷹の目」である。

 碧き眼や十王の岬(さき)恋ふ老鵜

鵜は光るものを警戒し、メガネが光ると近づいて顔を突くことがあるので注意のことと話があったが、鵜匠の装束の風折烏帽子、漁服、篝火の飛び火予防の胸当ては皆黒い。闇に溶け込みやすく鵜にとっては自然の色だからである。

小瀬鵜飼は「ぎふ長良川鵜飼」等と違い舟中での食事は弁当くらいであるため、鮎尽くし料理は、宿泊も出来る鵜匠邸で乗船前に済ませる。

出を待つ屋形船(鮎之瀬橋)

夕刻の長良川を見下ろしながらの食事。何人かいた鮎釣も姿を消し、まだまだ暑いが太陽は大分落ちてくる。まず、前菜、赤煮、漁田(八丁味噌の田楽焼)、塩焼、天麩羅、仕上げは鮎雑炊である。特に石(いし)垢(あか)(河川の水底の石につく珪藻)を好んで食べる鮎(香魚)の香りが鼻孔を擽り、最後の鮎雑炊はなかなかの味で二杯も平らげた。

 鮎雑炊岐阜の訛のよき女将

満腹の体を起こし、河原の乗船場に向かう。川辺に「実績浸水深碑」(2014年10月20日 台風23号)とあり、川面から優に五メートルはあろうか。ほぼ足立邸の一階の高さで、女将が、「うちは大丈夫だったが、対岸を含めこの辺りも皆浸かった」という。長年の体験から、1階部分は車庫にして2階が実質1階の造りである。

今回は、鵜匠の乗る鵜舟に先立ち500メートル上流に移動する。このところの長雨で水深が高く、登りはエンジン付きである。棹が使いにくく、安全を期して休業も多かったとのことである。

まだ暮際には時間があるが、大きく蛇行する長良川に西日が映り美しい。赤い鵜之瀬橋を潜り、既に先着の鵜舟のいる河原のスタート場所(まわし場)に着く。

夕焼けの長良川

しばらくすると12羽の入った三つの鵜籠を乗せた鵜舟が同じ河原の少し上に着く。鵜匠はまだ平服である。

川の対岸は鬱蒼とした森の茂り。まだ空は薄明るいが暮れ始める。河原で松の焚火が起こされ、松の匂いが漂い赤々とした火が眩しく、鵜飼へ期待が高まる。

まわし場の鵜匠

鵜匠が手際よく、風折烏帽子、漁服、胸当そして腰蓑をつける(鵜支度)。その立ち姿は古式ゆかしい風情を保ち凛々しい男振りである。

 鵜支度に一番星の上りけり 

闇が迫りとっぷり暮れて、河原の焚火の松明が船の篝に移されると、鵜籠の鵜が騒がしくなる。鵜もいよいよ始まると悟るのであろう。

当日は猛暑だったので、鵜匠は鵜に初めに水を飲ませ川に浸した後手際よく手縄をつけ、一旦鵜籠に戻してから、スタート直前にぽいと放るように川に落とす。

流れるように手裁きの良いこと。さすがに重要無形民俗文化財である永年の熟練の技である。

舟から降ろされた12羽が鵜舟の周りで浮沈を繰り返すが、不思議に鵜縄が絡まない。絡まないようにその都度鵜匠が手縄を裁き操っているのだろう。

神の技のようにも見える。

篝火の燃える音、爆ぜる音、篝の火の粉が滝のように水に落ち、鵜篝が鮮やかに水に映えて揺らぐ。

とっぷりと暮れると空には星が広がり、対岸の森は空より一段と暗く、山霊が宿っているようである。

篝火は鮮やかに川面で揺らぎ、幻想的ですらある。それは、原始の時代の火のようであり、われわれも原始の高ぶりを感じるからであろうか。

鵜篝

船頭が棹をさす音と水音、「ほうほう」という鵜匠の声が静寂の中に響く。

篝火は夜には岩陰などで休んでいる鮎を誘き出し、船頭が櫂で船縁をドンドン叩いて鮎を驚かせ下流の浅瀬に誘導し、さらに篝火で照らして逃げ惑う鮎を鵜に捕まえさせる。まさに鮎の寝込みを襲うのである。鵜匠と漕ぎ手、そして鵜の絶妙な連繋である。

 縁叩く櫂や鵜篝高ぶらす

屋形船は、「狩り下り」の鵜舟と至近距離を保ちつつ、ほぼ同じ速度で下流に降りていく。

時々、水面に頭を出した鵜の嘴に鮎が咥えられており、歓声と拍手が上がる。喉を立てて咥えた鮎を器用に頭から呑み込む鵜。鵜匠は喉の手縄の締め具合を出舟の際に決めるが、小さい魚はそのまま呑み込み、大きいのは喉に蓄えられ、舟上で鵜匠が吐き出させる。

 いにしへの篝も浴びて鵜の浮沈

それが何回か繰り返され、静寂の森に拍手と歓声が吸い込まれる。山霊もご満足であろうか。

あっという間に舟は鮎之瀬橋を潜り、左岸の乗船場に着く。ほんの20分の濃密な時間。

この何倍もの「まわし場」の待ち時間も、夕暮れから闇への時の推移と共に鵜飼の序奏のようであった。

揺れる舟から岸辺に降りると、鵜が捕獲した何匹かの大きな鮎が箱に置かれており、船頭がライトを照らして覗くように促す。大きな鮎の腹に鵜の咥えた確かな歯形がしっかりと残っている。

鵜の歯形が残る鮎

鵜の歯形が残るものは、絶品の極上鮎の象徴ともされて珍重される。

接岸した鵜舟から鵜が一羽ずつ引き上げられ、手際よく手縄が外され、船頭が羽を持って4羽ずつ頭を添えて次々に鵜籠に押し込む(鵜匠言葉:さされてゆく)。

 眼を閉ぢて疲れ鵜縄を解かれをり

当然のことだろうが、瞬時に「かたらい」の鵜同士を籠に入れるのも、一羽一羽を見分け、その性格まで熟知しているからこそ。それゆえに鵜匠、船頭と鵜が一体となった鵜飼が成り立つのである。

一つの籠は抱えながら、他の二籠は金魚売の天秤のように櫂にさして中庭に運ばれる。

中庭の端に運ばれた鵜籠からはしきりに唸るような大きな声が聞こえる。早く飯!と催促する声だとのこと。鵜は全くの空腹なのである。   

鵜匠がバケツ一杯の新鮮なレンコタイ(キダイ)やホッケを運んでくると、雰囲気や馬穴の音から悟るのだろう。一段と声が高まる。

鵜匠は鵜籠から出された鵜の嘴を広げて、レンコタイ等を頭から次々に喉に詰め込む。一羽当たり優に10匹を超える。旺盛な食欲である。

おまけの魚をほいと投げると、空中で見事にキャッチするのにはさすがと感心するばかりである。あんなに呑み込んでは喉に閊えるのではとは、取り越し苦労であろう。

海鵜は喉袋が大きく、一度に大量の魚を飲み込める。文字通り「鵜呑み」である。魚を与えられた鵜は満足そうにおとなしくなり、池に入ったり、池の端でのんびり羽繕いをしたりしている。

残りの鵜にも次々と餌の魚が与えられ、満足そうな鵜が池の周りに寛いでいる。

 食べ了へし鵜よりかすかな鵜臭かな

鵜匠の話では、大好物は飛魚。鯵はせいご(鯵の棘のある鱗)が呑み込むのに邪魔になり、嫌うようである。川魚は、鮠(はや)も鯰も食べるが、鰻は頸の中で巻き付き難儀するらしい。

全ての鵜に餌が与えられてからしばらくすると、各々の「かたらい」と鳥屋の同じ籠におさめられお休みの時間となる。

長い鵜飼の一日にたっぷり浸かり、鳥屋から少し離れた一間で心地良い眠りについた。

翌日、朝6時過ぎに鮎之瀬橋の囮鮎売場に行くと、釣人が遊漁券(一日2500円)と三匹の囮鮎を買って河原に降りて行った。

朝の長良川

遥か下流の早瀬の白波が立つあたりに、二三人の鮎釣りがそれぞれの距離を保ちながら、腰の上まで浸かって釣りをしているが遠望できた。

 朝涼や蛇行ゆたかに長良川

当地の上流では年に八回、御猟会が行われ、歯形の残る鮎が皇室に送られる。

涼しい川風が首筋に吹き抜けるが、あと二時間もすれば、30度を超え猛暑となるであろう。

橋を渡ると円空上人入定塚があった。碑には即身成仏の素懐を遂げるため、念仏を唱えつつ土に埋もれ入定を果たしたとある。

 円空も小瀬の鵜飼を見たりしか   

                 (写真:広渡敬雄)

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