【歩けば異界】⑩
東扇島(ひがしおおぎしま)
柴田千晶
東扇島(ひがしおおぎしま)
柴田千晶
初出:『俳壇』2017年1月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。
夜の海にひらいた扇が漂っている。扇は女性の象徴という説がある。だとしたら扇の字を持つこの島は、女の島なのだろうか。
川崎市川崎区東扇島は、川崎港に浮かぶ人工の島。住宅地はない。西側には火力発電所やオイルターミナルが、東側には物流倉庫や食品関係の冷蔵倉庫が立ち並んでいる。昼間は殺風景な倉庫街だが、夜になると島は、工場夜景の鑑賞スポットとなる。
島のほぼ真ん中に位置する川崎マリエン(川崎市港湾振興会館)十階の展望室からは、360度の夜景が見渡せる。
首都高湾岸線を流れる車のライトの帯、横浜ベイブリッジ、みなとみらい21地区の光、東京湾を巡るナイトクルーズの灯、羽田空港へ降りる飛行機のランディングライト。そして京浜運河を挟んだ対岸の千鳥町、浮島町の工場夜景。東燃ゼネラル石油の煙突から噴き上がる炎、フレアスタックは圧巻だ。
島は幻想的な夜景に取り囲まれている。
コンテナ埠頭に面した物流倉庫で、私は4年ほど働いたことがある。
東京近郊の様々な会社で、単発のデーター入力の仕事を続け、東京を漂流しているような日々に疲れて、どこか一つの場所で、まったく違う仕事をしてみたくなった。求人情報で見つけた倉庫での軽作業という仕事と、東扇島という地名に私は惹かれた。
冬帽の手配師蟹江敬三似 千晶
倉庫での仕事は、主に雑貨類の異物検査、袋詰め、箱詰めなどの単純作業だった。底冷えのする作業場で働いているのは女ばかり。中国や韓国、フィリピンから来た女性たちもいた。
黄色いキャップにベージュのエプロン姿の女たちが、9列の作業テーブルに2人ずつ並び、1万2000個のリップクリームの一つ一つに、プライスシールを貼ってゆく。底冷えのするフロアーには、出荷を待つ段ボール箱を積み重ねた青いパレットが幾つも並び、まるで小さな氷島が漂流しているように見えた。
寒いね、冷えるね、とつぶやく女たちも私も、当て処のない漂流物のようだった。
女たちの作業テーブルにギシギシと氷島が押し寄せてくる。そんなシーンを妄想しながら、私はイチゴ味のリップクリームに、394円のプライスシールを貼り続けた。
後方の作業テーブルからチーフの怒声がした。
また住田さんが叱られている。住田さんの眼はいつも虚ろだ。事情を抱えた女たちが辿り着いた倉庫に、バラード調のK—POPが低く流れている。
袋綴ぢのヌード踏まるる霙の夜 千晶
定時で上がり、建物の外に出ると霙が降っていた。
送迎バスが止まる駐車場に「週刊実話」の袋閉じページが散乱し、名も知らぬアイドルの肢体が霙に打たれていた。
送迎バスの前を住田さんの自転車が横切ってゆく。住田さんはひとり川崎側へ帰る。住田さんの名前はアイリーン。14年前にフィリピンから働きに来た。
風花の倉庫うつむくフィリピーナ 千晶
横浜側へ向かうマイクロバスは、首都高速湾岸線に入り、工場夜景の中をゆく。工場の光がこぼれる雪の海に浮かぶ東扇島。いくつもの扇が島を取り囲んでいる。いくつもの扇?
いいえ、あれは女たちの顔だ。人工の島へ流れ着いた、無数の女たちの顔が、夜の海に漂っている。
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