ぼうがいっぽんあったとさ
藤田哲史『楡の茂る頃とその前後』の一句
上田信治
書き手としての藤田哲史には、あからさまに優れたストロングポイントが複数あって、だからこそ正体がつかまえにくくもあるのだけれど、ここではまず、彼が俳句でいつも何をしているのかについて読者の注意をうながすため、一句をとりあげたい。
豆皿に塩豆二月二十日雨 藤田哲史
ナンセンスな言葉に、複雑なやじろべえのようなバランスが働いていることが、この句の妙味だ。
「豆皿に塩豆」という一かたまりの言葉には、二つの「豆」が登場する。間違えがちなところだけれど「豆皿」は豆をいれるための皿ではない。
「二月二十日」は「豆皿に塩豆」に釣り合うように置かれている。何の必然性もない日付だけれど、「二」の字が二回出てきて、読み方が違う。
等重量でバランスをとりあう「豆皿:塩豆」「二月:二十日」の2つのブロックと、それぞれに関係をむすぶように「雨」が置かれる。「しおまめにがつ/はつか」の句またがりが呼んだ二音の「雨」は、「豆」と韻を踏み、「二月二十日」に降ることで「ぼうがいっぽんあったとさ」との相似を完成させる(「ぼうがいっぽん」の「六月六日」にも「六」が二つあり、しかも「豆」が!出てくる)。
「二月二十日」の無意味がよい。それは、「ぼうがいっぽん」の唄が何万回唄われても、雨が降るのが「六月六日」その日であることの美に捧げられた、オマージュかもしれない。
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藤田の「花過の海老の素揚にさつとしほ」について、自分はかつて、こんなことをしゃべった。
上田 俳句でこれまでよいとされてきた価値観のセットがある、ということですね。その中での達成を目標にして見せ場を競うことに、意味があるのかどうか──僕は、競わなくてもいいけれど、競ってもいいんじゃないかという立場です。
「花過の」はうまいと思うな。それだけ、って言われてしまうかもしれないけど、このうまさが水際立っている。
今井(聖) これはどういう風にうまいのかな。
桜の花が過ぎた後の季節の風とか温度とか。三月の中旬くらいに海老に塩かけて食ったと。
上田 海老の素揚げにさつとしほ、のフレーズの調子がいい。十二音でよく言えたなァ。動きがあるじゃないですか。今揚げたものに、さっと塩を振って。熱々で、動きがあって、さあ食うぞ、美味しいぞという感じがしてくる。
今井 それが花過?
上田 花過は海老との色彩の関係だと思います。花時ではなく花過としたから色が喧嘩しないんです。桜色のイメージを出しておいて、「過」で消しちゃっているから、海老の鮮やかな色がパっと現れる。
今井 なるほど。
上田 でも本当、それだけですよ。花という言葉を出して引っ込めて、食べ物のいいフレーズを出した。
今井 海老の季語はどうか。桜海老なら春か。だけど花過で両方使っても不自然じゃないというのも技能賞の一つだというわけね。
上田 この海老は全然季語ではないと思う。「花過の」の「の」で繋いで、最後さっと塩まで行ったスピード感みたいなものがモチーフと合っていて、言葉の形と内容がピタっとはまって、読み終って何も残らない。
(2010年「街85号」今井聖・北大路翼との鼎談より)
「それだけ」「何も残らない」は、いつもの言いすぎだけれど、この句の言葉の働きについては、外していないと思う(藤田はどこかで、自身のこの句と「きぬさやをさつと炒めて朝の皿 長谷川櫂」の相似について書いていた。この句の時間の処理もあざやかだ)。
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俳句の言葉を、カルダーのモビールのように繊細なバランスをもって組み立てるのが、藤田の方法だ(それだけではないということは前述の通り)。彼の句の言葉は、いつもひじょうによく吟味されていて、置き間違えということがない。
注意深くバランスのとられた言葉が、より大きな無意味を(つまり意味を)孕むことを可能にする。それは、たとえば虚子などがよく示したところだ。
鋤焼や花魁言葉ありんすをりんす 藤田哲史
白々と思量に比例して雪は 同
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