【歩けば異界】⑪
神泉(しんせん)
柴田千晶
神泉(しんせん)
柴田千晶
初出:『俳壇』2017年2月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。
神の泉という美しい名前を持つこの町は、渋谷区の中西部に位置する。かつては神泉谷と呼ばれ、泉が湧いたという。神泉駅に降り立つと、どこか昏い処で湧いている水の気配がする。
水がゆれて1997年3月、神泉駅からほど近い木造2階建アパートの空室で、39歳の女性の遺体が発見された。
浮かびあがる古い人体図
女の體内が
月にひらかれ
肉の
血の
骨の
昏さを夜に晒している
(「空室」〔*〕より)
女性は東京電力に勤めるエリートOL。仕事帰りに渋谷へ立ち寄り、売春行為をしていた。
女性は109の化粧室で、ロングヘアーのウィッグをつけ、瞼に青いシャドーを塗り、円山町の一隅にある道玄坂地蔵の前で客を引いていた。一日に4人の客をとるというノルマを自らに課して。
当時、私はこの事件に強く惹き付けられ、彼女が毎晩そこに立っていたという道玄坂地蔵を見るために、神泉駅から円山町の界隈を歩いてみた。
神泉駅近くのローソン……事件現場の喜寿荘……その裏の階段を上ると円山町に出る。
その昔、荒木山と呼ばれた円山町は、現在も小高い丘になっている。傾斜のある入り組んだ路地を登り、ホテルペリカン…フェンシング練習場…地蔵尊、地蔵尊と唱えながら、真昼のホテル街へ迷い込んでゆく。
書割めいた路地をゆくと、道端で仏花を売る老女、若いカップル、葱を提げた母親と子ども、郵便配達員のバイクなどとすれ違う。料亭とラブホテルが並ぶ円山町の何処かに道玄坂地蔵はあるはずだ。
円山町はまるで異界だ。
彼女が立っていた道玄坂地蔵にどうしても辿り着けない。またホテルペリカンに戻ってきてしまう。
しだいに方向感覚を失ってゆき、小高い四つ辻で途方に暮れていると、背後からふいに水の気配がした。ふり返るとそこに、黒く濡れたお地蔵さまが立っていた。唇に紅を引いた艶やかな姿で。
ここに立つと女はみな東電OL殺人事件から23年の時が流れた。
同じ鍵のついた空室になる
値ぶみするような
男の視線に
まともにぶつかり
私は表札のない空室になる
(「空室」より)
彼女はいったい誰に殺されたのか、事件の真相は未だにわからない。
円山町を下ってゆくと、長い髪の女が路上で放尿している。静かに深部を絞り出している。彼女の足首を濡らす水は、書割のような路地を流れ、谷底の町、神泉まで続いている。
喜寿荘101号室に、彼女はまだ居る。
殺されたままの姿で。
彼女の深部から、昏い泉が渾々と湧いている。
黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ 中村苑子
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記憶の中の道玄坂地蔵は、肌が黒く滑らかで濡れているように見えたのだが、2009年6月、再訪した円山町で私が見た道玄坂地蔵は、写真のようにグレーで、人間らしい顔つきをしていた。私が見た漆黒のお地蔵さまは何だったのか。
芝居の書割めいた円山町の路地も、ごくありふれた路地に変わっていて、なぜだろう、とても寂しい。
〔*〕柴田千晶詩集『空室』2000年10月/ミッドナイトプレス
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