もうひとつの春
堀切克洋
片栗の花に屈むと踵浮く 黒岩徳将
俳人のなかには、やたら韻を踏んだ句が好きで、たとえばこの句なら「片kata―花hana――屈kaga――踵kaka(to)」というA-A音の連続がいいよね、というタイプの人がいる。田中裕明の〈みづうみのみなとのなつのみじかけれ〉あたりまでいくと、ほとんど抽象絵画のようだけど、この作者はもっと人間の具象的な、とくに「しょうもない」部分に、関心がある。「片栗の花」じゃなくてもいいじゃん、という人があるかもしれないけれど、この「浮く踵」の自分にしかわからない「ひっそり感」は、案外マッチしているのです。
水に茶に蕎麦の半券濡れて春 黒岩徳将
ファストフードな蕎麦屋。券売機で食券を買って、席につくと、店員が注文を確認しながら半分ちぎっていく。目の前には、水用のコップと、お茶用の茶器があるのだ。まだ注文した蕎麦はきていないのに、半券はもう役割を終えたかのように、ひたひた。現代のもののあはれ。
花菫月謝忘れしこともあり 黒岩徳将
菫の花なんて、園芸好きか、俳句でもやっていなければ、まじまじと見たりはしない。この作者は、俳人なので、菫の花を見て、宝塚ではなく、自分が小さい頃のことを思い出したわけですね。そろばん教室か、ピアノ教室かはわからないけど、月謝袋に入った現金をもたされて、家から近所の先生のところまで行くわけです。作者は、レッスンをサボって、月謝を使い込んで怒られるというような人ではないということがわかりますね。わりとまじめ。
海灼くる無風を蝶のひた歩く 安里琉太
作品タイトルに「追憶」とあり、この1句だけが独立しているが(作品10句はアスタリスクで三つのブロックにわかれており、そのうちの最初のブロックはこの1句のみ)、作者が沖縄出身であることを思えば、沖縄戦(1945年3月26日〜6月23日)の「戦火想望俳句」かとも解釈できる。「ひた歩く」は、瀕死の兵の様態のイメージ。いずれにせよ、「灼くる」「無風」という言葉から、「春駘蕩」とはまたべつの「もうひとつの春」を想像しなければならない。
暮春の母屋あぶらゑのぐの饐えてゐし 安里琉太
ふたつめのブロックから。このブロックの「夜汽車のとほる田螺桶」「天金の書の束ね売り」は、作者(1994年生まれ)の世代には似つかわしくない、どこかノスタルジックな生活臭をただよわせる。この「あぶらゑのぐ」も、本人の記憶というより、アングラ演劇に出てきそうな、昭和(前半)の記憶だろう。現実の「暮春の母屋」が、そうした記憶への入口となっているのかもしれない。
先生や牡丹瘦せて月瘦せて 安里琉太
みっつめのブロックは、行間をあけて前後半にわかれる。これは前半の1句だが、昭和感はない。「先生や」からはじまる句としては、岸本尚毅の〈先生やいま春塵に巻かれつつ〉をすぐに思い出すが、この切れない「や」とはちがって、掲句は意味的な切れがある。その切れをつなぎとめるのが「瘦せ」の反復。衰えいくものを並べていることから、「先生」の状況が思われる。
みしはせを奇想の蒜へふり分ける 安里琉太
みっつめのブロック後半は、「ひらかれ」「みしはせ」「吊るし倦む」と上五で容易に像を作らせない作り方。このうち「みしはせ」は、辞書を引けば出てくる言葉だが、むしろ読み手が想像を楽しむための「かな表記」なのだろう。だいいち、辞書的な意味がわかったところで、「奇想の蒜へふり分ける」という言葉が像を結ばせない。みしはせ、私にもください。
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