【句集を読む】
無垢、事物との関係において
安里琉太『式日』の二句
西原天気
安里琉太『式日』は、声のボリューム・声のトーンが気持ちよく、というのはもちろん一読者たる私にとってという話で趣味嗜好に合うというにすぎないにしても、調整・調律が効いていると、ひとまずいえるからには、それをこの句集の美徳のひとつとしていいのだと思います。
一巻を通して流れる音の心地よさのなかから一句あるいは何句か取り上げるのは難しく、また適切な掲句になりにくいのですが、例えば、
花瓶よりおほきな蟻のでてきたる 安里琉太
こういう句は、とくだんの彩が施されているわけではなく、ただたんに景であるという成り立ちからして論じるに困難である一方、鑑賞のプロトコル・鑑賞のパターンから逸れていく句があえて提示されているという点は、読者の感慨なり驚きが比較的容易に言語化されることをあえて距離するという点で、トピック的な句であるのかもしれません。いわゆる褒めにくい句を褒めるために、魅力の核心のまわりをぐるぐると巡回するような書き方になってしまいますが、つまり、あっさりと景だけが置かれている。
花瓶と蟻。
その景、その存在、その現象を前にして、作者が出来ることは、あまりない。「おほきな」の箇所はたしかに作者の叙述であり選択ではあります。「ちひさな」でもなく「ふつうの」でもないという点で(他の候補なら、また別の興趣になりそうですが、作者が見たのは「おほきな」だったのでしょう)。「入っていったのではなく出てきた、という点も、作者の叙述・選択ではありますが、これも同様。それを作者が見た。
依然として回りくどい書き方です。
つまり、俳句的処理・俳句的措辞という以前の原初的な向き合い方が、ここでは、されている。
さらに換言すれば、事物に対して無垢が保たれている。
言い方を換えれば、読者(雑念としての読者)はおらず、事物と作者だけがいる。そうした無垢。
(俳句的処理やら措辞、なんらかの技巧がおのずと期待してしまう読者の反応の手前で、作者が無垢に踏みとどまる)
こうした、カジュアルにいえば、あっさりとシブい句だけでは、句集全体の印象が間違って伝わりそうなので、もう一句。
くわいじうはひぐれをたふれせんぷうき 同
ひらがな表記は幼年期の出来事を伝えるにふさわしいかに見えて、「くわいじう」との旧仮名遣いは、音読みに旧仮名をあてたときに生じる一種の異例感・事件感というモチーフのあどけなさとは対照的な古色・老成も生み出します。表記からからして、前掲句(花瓶と蟻)の何気なさとは遠く、〈何気ある〉句。助詞「を」がちょっと凝った使用である点も、前掲句とは違う。
成分は、懐旧・感傷。扇風機というから、映画館ではなく、自宅。日暮がブラウン管の中なのか窓の外なのか。前者とするのが素直な読みででしょうけれど、両者、という感じもあります(子ども向けのドラマは夜遅くない)。
まあ、そんなところで。
以上の二句をもって『式日』を語るということではありません。
ほか、気ままに何句か。
小鳥来るほほゑみに似て疎なる川
蟷螂に風吹く朝が旅に似て
川音や次第に見えて蜘蛛の糸
荷を置くに膝のほかなくおでん食ふ
安里琉太句集『式日』2020年3月/左右社
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