ノオトと鉛筆とを持って
瀬戸正洋
瀬戸正洋
白蝶来門閉ぢられし楽園に 髙木古都
楽園はどこにもない。たとえ、あったとしても、その門は閉ざされているのである。白蝶が来るということは空想である。空想は、諦めの覚悟を乱したりもする。
祝福の鐘よミモザの降りしきる 髙木古都
神への賛美や信仰の共有を前提に神の恵みを他者にとりなすことを「祝福」という。となると、私には、その前提がない。その資格はない。降りしきるミモザのなかに立っていることさえ恥ずかしいことである。いたたまれなくなってしまう。
愛しあふ魚の唇(くち)にしやぼん玉 髙木古都
「魚」としたが面白いのだと思った。「しやぼん玉」としたことが面白いのだと思った。愛しあうことなど、当の昔に忘れてしまった。
さみどりのひかりの揺らぎ蝶生まる 髙木古都
揺らぎとは動揺すること。あるいは、ずれ、散乱とある。ネガティブな言葉は引き付ける力がある。故に、若草、若葉の、みどりいろに擽られて蝶は生まれるのである。
舞ふ羽根の描く螺旋や鳥の恋 髙木古都
舞う羽根とは抜けた羽根のことなのかも知れない。その羽根が回転しながら落ちて行く。何もかもが終わったあとの倦怠感。虚しさを感じたりもする。
木蓮の花弁崩れて夜のふけぬ 髙木古都
夜は更けない。木蓮は気をきかせて花弁を崩したのである。木蓮が花弁を崩さなければ、何もはじまらないのである。夜は木蓮のことを考えている。
スイトピーあはき花脈の迷路めき 髙木古都
花脈とは生きていくためには必要なものである。迷路とは複雑に入り組んだ道をたどりながらゴールを目指すゲームである。人生とはゲームなのである。スイトピーとは淡い花脈のことなのである。
うららかや厚みましゆく交響曲 髙木古都
交響曲が聴こえる。うるわしくなごやかな春の日である。厚みとは平らだと認識されているものが持つ属性のひとつである。それに奏者は追随していくのである。
園丁の眼差し遠き春の庭 髙木古都
園丁は春の庭を眺めている。園丁は春の庭のその先を眺めている。その先とは園丁の思い出(経験)のことである。個性は必要なものなのである。
ファゴットや朧を吐いてなほゆたか 髙木古都
「ファゴットとはダブルリード族の木管楽器のひとつである」といわれても何もわからない。You Tube で聴いてみた。
不平不満を聞くことは面白い。「なほゆたか」ということで救われたような気がした。すがたがかすんではっきりしないことを朧という。それを吐いたとしても「なほゆたか」なのである。
白日傘四角き空の堕ちて来る 小田島渚
四角き空から特定のひとたちの収容されている施設を思いうかべた。「四角い空」という合同句集を読んだ記憶があるからである。「堕ちる」からは、負のイメージを感じる。「白い」日傘であるということが救いなのかも知れない。
いつまでも咎めるごとく夏の月 小田島渚
咎めるとは、自分自身対してすべき行為である。好きなだけ咎めればいい。そのうちに飽きてくる。飽きるまでやることが肝心なのである。夏の月は何ともいえない顔でながめている。
蚊柱のどの眼からも逃れられず 小田島渚
地球上に存在するすべての「眼」が見ているのである。ひとの力のおよばない「何か」に見られているのである。蚊柱は逃げられない。そう気楽に考えていた方がいいのだ。
煉獄や踊るものから赦されて 小田島渚
からだを動かすことがはじまりなのである。苦しくてもリズムに合わせなくてはならない。何もかも受け入れて努力すること。それが赦されるための第一歩なのである。
無花果の道あすはもうなき瞳 小田島渚
瞳とは眼差しのことである。眼差しとは眼の表情のことである。眼の表情とは視線を向けるときの眼のようすのことである。道の向うには一本の無花果の木がある。
逝く人を月のひかりのとどめたる 小田島渚
逝く人をとどめているのは逝く人なのである。逝く人をとどめているのは逝ってしまった人なのである。逝く人をとどめているのは月のひかりのことなのである。
ブロッコリーの右も左も敵地かな 小田島渚
右も左も敵地であることは確かなことなのである。当然、後ろも前も敵地なのである。味方などどこにもいない。ブロッコリーはたったひとりで生きていくのである。
過去の音立てて凍蝶粉々に 小田島渚
粉々になりたいと願っているのは凍蝶だけではない。誰もが、知られることなく粉々になりたいのである。過去の音があれば、それで十分なのである。何もせず粉々になることができる。こんなに有り難いことはないと思う。
震へては鈴を生みたる福寿草 小田島渚
鈴とは鈴の音のことである。震えるから鈴なのである。幸福と長寿と草。福寿とはめでたいことばである。
一点の染みより溶けて雪兎 小田島渚
染みは、根源なのである。油断してはならない。何もかも無くしてしまうのである。雪は儚いものである。雪兎は、さらに儚いものである。
眩しさの麦笛でさへまぼろしか 土井探花
麦笛とは特別なものである。眩しいものなのである。はかなく消えてしまうものなのである。麦笛とは茎を口にあてて吹き鳴らすものである。
茅花の絮 濁点は仮名をさがして 土井探花
仮名には濁点の打てるものと打てないものとがある。そう思うことは間違いなのである。「あ」にも濁点は打てるのである。打っても構わないのである。風に身をゆだねている。茅花の絮は濁点を打てる仮名を捜している。
あくび厳禁あぢさゐの臣民なら 土井探花
ある時代まで臣民とは日本国民のことであった。現在、君主はあじさゐである。当然、臣民もあじさゐである。あじさゐの国はおおらかなのである。
夏蝶の歴史はつねに紀伝体 土井探花
歴史とは難しいものである。歴史とは夏蝶のことである。つねに紀伝体だといわれれば、そんなものかと思うだけのことである。歴史は経験であるといわれれば、そんなものかと思うだけのことである。
みつ豆の還俗したやうな野望 土井探花
野望は自由に持てばいいと思う。還俗とは、かき混ぜてしまったあとのみつ豆のような気がする。
闇とろむ鈴虫の孵化止まらない 土井探花
濃く淀んでいるような「闇」である。何かを成そうとするときには「闇」は必要である。孵化するとき「闇」は必要なのである。
咲きかけて百合は頭痛がひどさうで 土井探花
百合の花はお辞儀をしている。重たいからである。頭痛がひどそうだといわれれば、そんな気もする。花は地面すれすれとなる。山の斜面に咲いている百合の花は疲れ切っているようにも見える。
金魚だしすでに記憶を消されてる 土井探花
記憶とは消されるものである。記憶を消すのは自分である。そう思うことは不遜の極みである。記憶は記憶を決めるのである。ただ、金魚を眺めていればいいのである。
銀紙に包んで虹を捨てたのね 土井探花
銀紙にガムを包んで捨てたのである。銀紙に虹を包んで捨てたのである。銀紙に包んで捨てればいいのである。捨てることは、生きるための知恵である。雨上がりの夕空。虹とは円弧状の光の帯である。
パパイヤの夢が傷んでゐるかをり 土井探花
夢が傷むと腐るのである。夢が消えると腐るのである。腐るとは思い通りにいかず気が滅入ってしまうことである。
白鷺や田のひろびろと遠野郷 広渡敬雄
数羽の白鷺が餌を漁っている。遠野は何もかもが、ひろびろとしている。
秋田蕗河童の淵を覆ひけり 広渡敬雄
蕗は隠すのである。これは作意である。蕗の作意である。河童とは神である。澄んだ水は、さらさらと流れている。
曲屋に残る馬臭や乱れ萩 広渡敬雄
そのあとに何かがある。決してなくなりはしない。あり続けるのである。曲屋がある。自生の萩は盛りを迎えている。
聞きたしや座敷童子(わらし)の草の笛 広渡敬雄
ことばだけが存在して経験したことのないことはいくらでもある。座敷(わらし)には、草の笛を吹いてもらいのである。
海胆丼を勧むる南部弁の海女 広渡敬雄
勧められても困ることもある。海女は好意で勧めたのである。悪意を感じたのなら放っておけばいい。南部弁の海女である。断ったら申し訳ないと思ったのかも知れない。
津波来し岩の変色夏岬 広渡敬雄
岩の色の違いを見たのである。あの日のことが思い出される。その記憶はひとりひとり異なるのである。その悲しみはひとりひとり異なるのである。遠い記憶のはるかかなたに夏岬は存在する。
夏鷗飛ぶばかり防潮堤高し 広渡敬雄
他にやることはいくらでもある。だが、これを造らなければ、次の一歩が踏み出せないと考えてしまうのである。夏鷗は自由である。必要なことだけしかしない。見習うべきなのかも知れない。
かく細き松でありしか大南風 広渡敬雄
よくぞ耐えたなどとは思わない。あの日の自分と重ね合わせてみたのである。あくまでも個人的なことである。
のたうちて野垂れ死近き蚯蚓かな 広渡敬雄
自画像である。誰もが考えようとはしない。野垂れ死にするのはだいぶ先である。そう思うのは間違いである。のたうちまわっているのは自分自身である。それを忘れてはならない。
植ゑて十年(ととせ)幾億万の緑立つ 広渡敬雄
ただ、それだけのことである。たが、ただ、そのことだけにしか希望を見出すことができない。潮風と松の芽吹き。ひとなど必要とされていないのである。
初秋のフードコートに君を探し 野名紅里
見つけることができない。見つけることができなかったらどうしょうなどと考える。漠然とだが、不幸の入口が開きはじめた。フードコートは雑然としている。幸せそうなひとたちで雑然としている。
寝たふりのよく聴く耳よマスカット 野名紅里
寝ていないから聴くことができるのである。ふりをしているから聴くことができるのである。寝たふりとは一番無防備な「ふり」である。マスカットの甘い果汁が歪んだ精神を濡らしている。
感じること地球は月を離さずに 野名紅里
天空に月がある。地球が月を離さないからだ。Aは、目の前にいつもいる。それは、BがAを離さないからだ。
オリーブがピザに沈めば星飛ぶ夜 野名紅里
ピザには沈んでいる。危険なものが沈んでいる。オリーブのときもある。ピーマン、たまねぎ、ジャガイモのときもある。もちろん、悪意が沈んでいるときもある。わからないということは幸いである。窓の外では星が流れている。
抱かないかたち案山子の両の腕 野名紅里
腕は広げなくてはならない。雀(害獣)を追い払わなくてはならないからである。案山子は余計なことはしない。
血圧計ほつと緩んでねこじやらし 野名紅里
機種(血圧計)によって計測値は異なる。範囲内でないことも多々ある。高ければ、何度でも計測する。看護師でさえもそうする。観念したときに血圧計もほっと緩むのである。看護師も患者も血圧計に遊ばれている。
水澄みて詩集に脱字見つけたる 野名紅里
脱字を見つけたときにはがっかりする。詩集が色褪せていく。それほどのことではないと思いはじめる。「脱字」だと理解すれば正確に伝わるだろう。そう思いなおしてみる。どうしょうもないことに悩んでもしかたがない。大気が澄んでいくから水も澄む。ひとのこころも澄んでいく。
二人きりのときの呼び方渡り鳥 野名紅里
二人きりのときの呼び名がある。他人には聞かれたくない。聞かれると恥ずかしい気がする。本心を、自己を、他人に語ることは恥ずかしいことなのである。渡り鳥でなければならない理由があるような気がする。
家に影ひとつ秋風鈴ひとつ 野名紅里
しまい忘れた風鈴が鳴っている。その風鈴の影も鳴っている。風鈴はひとつである。風鈴の影もひとつである。ひとつであることは幸いである。余計なことを考えなくていいからである。
その朝が桃の可食部ほど確か 野名紅里
他人(加工、調理者)の判断が不快なのである。自分の判断も不快なのである。確かなことは、その朝と桃の可食部があるということだけなのである。可食部に対して言いたいことがある。
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