【野間幸恵の一句】
断面だけが
鈴木茂雄
そよそよと知識のあとの聖書かな 野間幸恵
この一句は、信仰を前提としない、極めて澄んだ距離感のなかで成立している。そこにこそ、現代俳句が到達しうる最も鋭い境地がある。
「そよそよ」という擬音は、ただの風の音ではない。知識が終焉を迎えたあとの、ほとんど無音に近い静寂を、耳の奥にそっと刻みつける仕掛けである。巨木が伐り倒された後の切り株――それは、長年にわたる学問の積み重ね、哲学の体系、科学の総体が、ついに頂点を極めた瞬間に、同時に露わにする空虚そのものだ。年輪は見事に整っているが、樹はもうない。ただ断面だけが風に晒されている。
「知識のあと」とは、知の達成の後ではなく、知の終焉の後のことである。どんな壮大な知的構築物も、完成の極みに達したとき、すでに内側から限界を告白している。切り株は壮麗な過去の残骸であり、同時に理性の有限性を無言で示す墓標にほかならない。そこに「そよそよ」と風が吹き抜ける。風は年輪を撫で、知識の層を一枚ずつめくり、しかし癒しはしない。ただ、すべてが過ぎ去ったことだけを、優しく、冷たく、確実に告げる。
そして句は、静かに「聖書かな」で閉じる。ここには信仰の告白はない。「かな」は疑問でも感嘆でもなく、ただ距離を置いた観照の助詞にすぎない。聖書はここでは神の言葉ではなく、人類が残した最も深い文学作品の一つとして立ち現れる。ホメロス、ダンテ、シェイクスピア、紫式部と肩を並べる、言語の極点として。
切り株から蘖が萌え出るイメージが、かすかに浮かび上がる。枯れた根株から若芽が立ち上がるさまは、知の廃墟の上に、それでもなお新しい言葉が生まれ出でる証しである。聖書は、理性が到達しえなかった地平を、文学という形で先取りして記した古層のテキストにすぎない。しかしその古層の深さゆえに、どんな最新の知の体系もいつか切り株となって風に晒されるとき、ふとその一節が胸の奥に微かな震えを呼び起こす。
野間幸恵はここで、信仰を強いることも、信仰を否定することもしていない。信じない者だからこそ、この句は深く響く。聖書を純粋に文学として読み終えた者にだけ、切り株の年輪の向こうに、言葉の不滅の蘖がそよそよと揺れているのが見える。知の終焉の後に訪れるのは救いではなく、ただもう一つの、しかし決して枯れることのない文学の始まりである。
「そよそよ」という音は、知識が消えていく音であると同時に、言葉が新たに芽吹く音でもある。風は去り、風は来る。切り株は朽ち、その上に新たな言葉が生まれる。一句の余韻は、信仰でも無信仰でもなく、ただ純粋な文学への驚嘆として、読者の胸に永遠に響き続ける。
この句は、信じない者だからこそ到達しうる、文学の最も澄んだ境地を示している。それは、理性の墓標に咲いた、信仰を必要としない、しかし決して枯れない一輪の言葉の花である。
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