2026-03-15

わたしは俳句が上手にできない 宮﨑莉々香

わたしは俳句が上手にできない

宮﨑莉々香

(「オルガン42号 2025 summer」より転載)


わたしは俳句が上手にはできない、下手な方だと自分で思う。

中学二年生の秋に、文章を組み立てる能力が上がるかもしれないし俳句をやってみたら、と国語の先生に言われて俳句をはじめた。わたしが俳句と思いたいものは他のみんなとは違っているらしい、ということは高校生の頃からだった。阿部青鞋が三橋鷹女が好きだった。高柳重信の「読みつつ書く行為」が俳句を読みつつ書く支えだった。かつての俳句研究が愛読書だった。わたしが俳句と思いたいものは俳句甲子園という勝ち負けの世界には合わなかった。十年経って、二十九歳になった今も変わらないのかも。賞との相性は絶望的に良くない。俳句だと思いたいものと、みんなが俳句だと思うものは今でも違っているみたいに思う。

二十三歳の頃に俳句を読むのも書くのも出来なくなった。十四歳の頃から俳句が好きでその時わたしが俳句だと思いたいものを俳句として書いていたけれど、わたしが俳句と思いたい俳句の眼鏡で世界を見ているのではないか、という疑問が出てきた。世界を本当の意味で見ることが出来ていないのではないか、という疑問。俳句と思いたい眼鏡は俳句という共同体の眼鏡でもあったように思う。その花を見たらあの俳句が思い浮かぶ、その頭の働き方が煩わしくて仕方なかった。

少なくとも俳句が好きでガチで俳句を書いていた。句会も好きだったし、俳句に熱心だった。だけど、季語という世界を通すことで見えなくなっている美しさや文学ということから取りこぼされた、わたしが取りこぼしてきてしまった世界の何かが、世界の見方が、わたしが俳句では書けないとその時判断したなにかが、そこにはある気がした。俳句が好きだったからこそ見ないことに出来ていた世界の見方に気づいた時、俳句が読めなくなった。書けなくなった。この読みの共同体で発表することを辞めたくなった。絶望した。

あの時から、わたしが俳句だと思いたいものは、俳句ではなくなってしまった。オルガンも円錐も退会し、東京に持ってきていたダンボール数箱分の俳句の本は全て大塚凱に渡した。大塚くんは莉々香が帰ってくるまで預かっておくよと言っていたが、そんな日は来るのかなと思った。

読めないし書けないし、作品は発表しないことに決めていたけれど、わたしの中に残った俳句の残り滓がわたしに俳句を書かせた。時々送られてくる円錐やオルガンを開いてみたりもした。なんだか少しその残り滓に書かされた俳句を発表したい気持ちになって、ウラハイに発表した。

そんな時、オルガンで吟行するから良かったらおいでよ、とオルガンのみんなに吟行に誘われて行くことにした。立川の飲み屋で鴇田さんにオルガンに戻っておいでよ、と言われて発表する場に戻る気持ちがはじめて芽生えた。

澤好摩さん、わたしは澤さんと呼んでいた、莉々香さんと呼ばれていた。澤さんと大学四年生の春に一緒に九州に二人で旅行に行った。飛行機が嫌いだと言う澤さんに連れられて新幹線で。行きの新幹線の中で、食べてみるかい、うまいんだよ、とか言われながら柿の葉寿司を分け合って食べた。新幹線の中で二人で句会をした。澤さんは写真を撮って現像したものをわたしに送ってくれた。鰭酒の美味しさを教えてくれた。

オルガンに復帰しますと手紙を送った時も、俳句を離れることはないと思っていました、と葉書を送ってくれた。それから三ヶ月くらいした七夕の日、澤さんが亡くなったという知らせが届いた。

今でも俳句になのか、俳句の集団になのか、絶望しながら俳句を続けている。けれどあの頃と違うのは、絶望しながら俳句を書いている、読んでいる、続けているという点かもしれない。

大塚くんからは俳句の本が大量に返送されてきて、空き部屋の押し入れはぎゅうぎゅうになった。澤さんは亡くなってしまったけれど、わたしの中には声が残っている気がする。

日常に疲れた時に自然を見て心が洗われる瞬間を俳句にするのではなく、ありのままの生活を、ありのままに見た世界を書き残したい。だけど、意味としての俳句や日記としてでなく、書き言葉としてだ。声・パロールの世界を出来事の俳句としての言葉(喃語俳句)で書き残していきたいと思う。それらをわたしは俳句と思いたい。八割の俳句とされるものには嫌な気持ちを覚えながら、二割のこれも俳句なのかと思える切実さのために書き続けていたい。そうとしか言いようがない出来事を、そうとしか言いようがない言葉で書き続け、読み続けていたいのだ。だからこそ、わたしの俳句は下手なのだ。

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