【句集を読む】
知らないひとの真の姿とは
谷雄介『ニュース』『ニュース・真』
島田砂光
大前提として書かなければならないが、わたしは谷雄介氏について何も知らなかった。Xにて「句集ニュースの謹呈企画」が始まるまで、何も。なので、わたしにとっては谷氏よりも芭蕉のほうが近しい人間であった。
その無知を恥じるとともに、無知という立場を利用して、謹呈いただいた第一句集『ニュース』そして同時に生まれた第二句集『ニュース・真』について一筆書かなければならないと思い立った。
著者は『ニュース』を世を忍ぶ仮の姿、『ニュース・真』を本当の谷雄介(以下真の姿とする)だと書いているが、仮の姿と真の姿はオセロのように表裏がはっきりしているものではないと感じた。
最初に『ニュース』を読んだとき、すでにユニークな句集だと思ったからだ。
流氷の寄せてくるなり屏風裏
という一句目から、ほんとうに忍ぼうと思っている…?と疑問を抱いた。
鳥帰るネクタイはみな地を指して
雛市のこれは触れてはならぬ雛
門限の頃の桜のうつくしく
鋭い観察とともにどうしても滲み出るおもしろさにひりひりする。
一本の柱を崇め夏休み
真の姿がちょっと出てる。
全体を眺めるとたしかに仮の姿なのかもと思うけれど、これは仮で/真でという選別も著者が行なっているはずなので、客観的な選別ではなく、細やかなぶれがある。著者について知っているひとならばより気づくのではないかと思うが、何の関わりもなかったわたしでも感じるものがある。そのぶれの分析を行うことがこの句集のひとつのたのしみ方だと思うし、ここで分析したものが『ニュース・真』を読むための手がかりとなる。なかなかに憎い手法である。
しかし、このような誘導は誰にでもできる芸当ではない。
なぜこんなにもおもしろいひとをわたしは知らなかったのだ、と嘆きたくなるほどに。
金屏風倒れ北方の春のごとし
屏風に始まり、屏風に終わる『ニュース』。さて、お次のコーナーは、
え?
はい…
……………………
巨大少女?
というわけで第二句集『ニュース・真』の襲来である。
連作による作品をまとめた真の姿は、表紙からまぶしさを解き放つ。
ぜひともどの句で爆笑したかを誰かと話し合いたいし、同じ句だったなら友だちになりたい。
「私小説」的なこちらの句集には、『ニュース』のようなぶれはあまり感じられない。連作という縛りがあるからか、逸脱しにくいのだろう。むしろこちらに入れられなかった作品が、『ニュース』へ流れていると考えたほうがいいかもしれない。
元はひとつになるはずだったふたつの句集は、作者のイメージなるものの問題について切り込んでいると感じる。人柄と作風、あるいは立場と感情、どちらかを選ばなければならない瞬間があり、俳句界において何らかの役割を担うほどその選択を迫られるのではないかと思う。「群青」の編集長でもある著者が、悩んだ末に導き出したひとつの解答なのだ。
この解答は、きっと多くのひとを照らしていると思う。事情があって諦めた作品や作者の感情とも呼べるものに、離れた時間から、まぶしい光を当てているのではないだろうか。
『ニュース』も『ニュース・真』もわたしにとっては仮でも真でもない谷雄介氏の姿として映ったが、真の姿を掴めるまでにはまだ至っていない。これからも続けて考える必要がある。
特にすきな章は「芭蕉」「おでん」「コロッケ」「俳壇」「忘年会」「平安ギャル」そして「ニュース」。中でも「忘年会」のおもしろさがツボだった。
爆笑しながら句集を読めるって、めちゃくちゃ幸せなことじゃないか、と思った。くすりと笑うことはたまにあるが、声が出るくらい笑うのは気持ちが良い。この爆笑は、セットで読むことでより強化されるものだろう。
句集を読むことは、未知の体験だ。違う時代を生きていたひともいれば、同じ時代を生きていても知らないひともいる。一冊に編まれた句を、文を読んで、作者や時代についてわかったような気になる。それは尊いことであるけれど、危ういことでもあるだろう。そこでは語られていないものが、たくさんあるのだから。
谷雄介氏の人生から生まれたニュースが、たくさんのひとに届いてほしいと願う。
そしてわたしは、ひりひりしたくなったら『ニュース』を読み、笑い飛ばしたくなったら『ニュース・真』を読むのだろう。
そのとき、知らないひとの声が聞こえる。
「あなたには、伝えたいニュースがありますか?」
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