『俳句研究』2007年5月号を読む ……上田信治
●宇多喜代子×小林恭二 対談「忘れ得ぬ俳人たち」 p110-
「恭二歳時記」連載五十回突破記念対談。
「恭二歳時記」は、期待して読んで、裏切られることのない記事で、いつか一冊にまとまることを楽しみにしていたのですが、もう連載50回…やはり切り抜いて、取っておくしかないのかも。
この記念対談、新興俳句とその継承をめぐって、オールスターが登場し、逸話が多数。高屋窓秋の存在と影響が、ほんとうに大きくて、重要だったことが分ります。エピソード以外の部分でも、めくるめく俳論が展開されていて、ひとことで言って「ご飯何杯でも食べられる」対談。ひょっとして、必読なのではないでしょうか。
宇多 そう。ずっと前、橋さんは〈生協の車来てゐる山茶花垣〉を作られた。私にはそれが、ただごとのつまらない俳句に思えてね。
小林 いま聞いても、あまりうまくないように思えますよ。
宇多 そう? 私、いまは自分がその心境。いいなと思うの。それと三橋さんの〈ふるさとや多汗の乳母の名はお福〉、これもつまらないなあと思って、私、耕衣さんにたずねに行ったことがあるんです。そうしたら耕衣が「いいじゃないか」って。そのとき、なんでやねんと思いましたけど、いまになったら、ああ、いいなあと思いますね。
宇多 三橋さんと同レベルの俳句のうまさをいうんなら、やはり赤尾さんじゃないかな。
小林 うまいですね。ことばに対するあんな微妙で繊細な感覚。〈ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥〉の「で」がすごいと思った。あれ、普通の俳人には書けない。
橋間石の句は寡聞にして知らず(沖積舎の全句集には入ってなかったような)。子規の〈六月を奇麗な風の吹くことよ〉も、爽波の〈真白な大きな電気冷蔵庫〉も、宇多さんが書くまで、誰も取り上げたことがなかったそうです。この人は、誰も気づかなかった佳句を発見する名人ですね。
小林 なぜ、新興俳句が終ったのか。弾圧があったからか。もちろんそうなんですけど、では、弾圧が亡くなった戦後に息を吹き返してもいいじゃないか。(略)戦前の新興俳句は涙が出るほど抒情的で、ぎりぎりのところで書いている。あの感じが戦後、復活しないんです。
戦前の新興俳句のあのかんじが、なぜ失われたのだろうと、問いかけ、宇多さんの答を得て、なお、小林さんは、もう一度、同じ問いを発します。うーん、俳句史の謎か。
●六十代後半の作品を読む p144-
年代別シリーズ「新・現代俳句集成」、今年1・2月号掲載の「六十代後半の俳人たち」を、四十代~六十代の六人の筆者(奥名春江・中村和弘・橋本榮治・能村研三・対中いずみ・岸本尚毅)が読む。
「年鑑」でよく見る「年代別・今年の収穫」のようなスタイルの記事。一人の俳人あたり数行から長くて十行くらいで、美辞麗句の羅列に陥らず、意味のあることを書くのは、たいへんチャレンジングな仕事だということが分ります。
本題とは関係ないのですが、筆者の一人、岸本尚毅さんがおもしろいことを、書いていました。
「私は、その句を採ろうか採るまいか迷ったとき、作者を仮に「高浜虚子」と置いてみる。それで納得できれば採る。〈雪来るまえ人きらめいてすれちがう〉の作者名「酒井広司」を高浜虚子に書き換えても私には違和感はない。この句が存分に自在な句だから」
自分もやってみました。〈ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥 「高浜虚子」〉
これは、ないか。
●「凛然たる群像 日のひかり-水原秋桜子」高柳克弘 p198-
俳句における青春性をめぐる、ミニ評伝的連載の最終回。取り上げられた作家は17人。なかでもこの連載を特徴づけるのは、寺山修司、福永耕二、正木浩一、堀井春一郎、川口重美、堀徹など、忘れられがちな一つの系譜をなす、俳人たちです。
連載を読み返して、いま、この系譜を継いで、「青春」が書ける人がいるだろうか、という疑問にたどりついてしまいました(高柳さんは、その正嫡を名乗る資格があると思いますが)。
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹 修司
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る 耕二
冬木の枝しだいに細し終に無し 浩一
冬海へ石蹴り落し死なず帰る 春一郎
夏氷錐効かぬまで心青し 重美
彳めば人みなとほし赤のまゝ 徹
気がついたのは、これらの作者に共通するのが、切迫した、ややもするとユーモアの欠如を感じさせるほどの生真面目さだということです。昨今「青春」の居心地が悪そうなのは、近年の俳句が「おかしみ」を中心にまわっているということを、逆に証明しているのかもしれません。
ところで同じ筆者が『鷹』誌に連載している「現代俳人列伝」は、もっと忘れられた俳人を取り上げる、古代生物の図鑑のような連載。
●5月号の「好き句」
ざわざわと白鳥の首ふくらみぬ 野本 京
ふうふうふうシチューに眩し赤かぶら 依田明倫
砕氷船製造年月日のプレートを 〃
指すこし伸びたるおもひ目借時 片山由美子
飛び出して毬藻羊羹ほととぎす 栗山政子
春の日の目にざらざらの石の壁 井越芳子
寒晴や鼈甲飴は立てて売る 草深昌子
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2007-04-29
『俳句研究』2007年5月号を読む
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5 comments:
宇多喜代子×小林恭二対談「忘れ得ぬ俳人たち」をはじめ、これは実物を読みたくなる紹介記事ですね。ありがとうございます&創刊おめでとうございます。
四童さん、ども。
これは、あくまで自分個人の意見ですが、「俳誌を読む」のシリーズは、ある意味「総合誌を読もう」運動、「総合誌を機能させよう」運動のつもりで、やっています(「総合誌を監視しよう」運動っていうのも、ありかもしれません)。
「運動」ですから、実効性は、さておいて。
「実物を読みたくなる紹介記事」と言っていただければ、本望です。
これからも、よろしくお願いします。
初めまして。藤幹子です。
>気がついたのは、これらの作者に共通するのが、切迫した、ややもするとユーモアの欠如を感じさせるほどの生真面目さだということです。昨今「青春」の居心地が悪そうなのは、近年の俳句が「おかしみ」を中心にまわっているということを、逆に証明しているのかもしれません。
この部分に非常に納得。
俳句を嗜むようになってまだ日の浅い私ですが、なんとなく、おかしみを良しとし、直球の叙情的俳句を視野からはずす傾向にありました。
ご紹介の句たちは、しかし、きまじめな中に瑞々しさがあって、多少むずがゆさを感じながらも新鮮に読むことができました。(これは選んでいる句にも依るとは思いますが・・)
四童さんも書かれていますが、この連載をきちんと読み返したくなる記事ですね。ありがとうございました。
藤幹子さん、はじめまして。
高柳さんの連載、単行本になるといいな、と思ってます。ここ2、3年、総合誌を読んでいて、これくらいモチーフがはっきりしている連載というのも、なかなか、なかったので。
ところで、高柳さん自身は、とぼけたユーモアと抒情性が両立した句を書く人でもあって、そのへんが、やはり最近の人だなと。
海底に潜水艦や鯉幟 克弘
ストローの向き変はりたる春の風
キューピーの翼小さしみなみかぜ
コメント、ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いします。
あと、ひとつ、書き忘れました。
上でも触れた、岸本尚毅さんの「六十代後半の作品を読む」の選句が、他の筆者と全然違っていて、注目です。
〈雨粒が振り子空の断面のぼるなめくじ 野ざらし延男〉〈日向ぼこ全身に骨充実す 今野福子〉。兜子の〈消しゴム〉の句が、もしあれば、とうぜんOKだったと思われます。
もちろん〈紅梅や日当る月が空の隅 中嶋鬼谷〉のような、正統派の作品も多く選ばれていますが、俳壇的な序列には、頓着しない選句です(黒田杏子も大石悦子も抜かれていない)。
評文のタイトルが「自由であること」。
岸本さんは、虚子のように「自由」であろうとしているのかもしれません。
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