2007-04-29

『俳句』2007年5月号を読む

『俳句』2007年5月号を読む ……さいばら天気


●追悼大特集・飯田龍太の生涯と仕事 p59-

俳人12人による長短12の追悼文。もし仮に、「全部読む暇がない、どれを読めばいい?」と訊かれたら、迷わず、金子兜太、宇多喜代子、廣瀬直人の3つをお勧めします。これはすなわち特集ページのアタマから3つ。読者に親切な記事順となっています。追悼文を並べる場合、年齢、俳人としての格、故人との関係など、外形的な序列で記事順が決まるのでしょうが、それが内容面でもピタっとハマった、という感じです。

まず特集冒頭の金子兜太「座談会のことなど」。1988年の1年間にわたる龍太、森澄雄との座談会から話を起こし、その3年後に出た龍太の句集『遅速』読後感の「わだかまり」を語ります。

かいつまんでいえば、兜太は龍太を「(…)それこそ体で自然そのものと取組んでいる」数少ない俳人のひとりとみなし、「この男の体を叩いてみたい」という目論見をもって座談会に臨んだものの、アテがはずれます。

(龍太からは)「自然」についての率直な話はほとんどなく、大方は人間くさいことだったことも私にとっては不満な後味だった。

追悼文にしては屈託が多いように感じる向きもあるかもしれませんが、それだからこそ興味深い。人との別れには、実のところ悔恨が付きものです。大正生まれの大俳人への追悼文で、このような悔いやわだかまりを打ち明けられるのは、同世代の同レベルの大俳人だけでしょう。入念さはないけれど、兜太の気持ちのざらつきのようなもの、微妙な肌理が伝わる一文。

次いで宇多喜代子「わが母郷」は龍太句の普遍性に言及して巧み。廣瀬直人「龍太の風景・境川」は生前の龍太の日常を伝えて滋味豊か。

特集は他に飯田龍太の二〇〇句(編集部選)、略年譜などを収める。


●特集 類句・類想をこうして避ける p129-

飯田龍太の追悼特集のすぐあとにこのページをめくると、なんだかとても間抜けな空気に包まれました。読んでいる自分が、そしてこの特集が。

こう書くと、揶揄的に聞こえるかもしれませんが、けっしてそうではありません。この世が宿命として持ってしまう間抜けさです。特集を構成する記事のせいでも、編集のせいでもでもありません。「実用」や「ノウハウ」というものは、どうしたって下世話です。それが今回、追悼記事のすぐあとに位置してしまった。重厚な内容のドキュメンタリー番組のすぐあとに、「この洗濯石鹸は水切れがとっても良くって!」みたいなコマーシャルが流れる感じ、といえば、わかってもらえるでしょうか。

といって、類句・類想の問題を軽んじるのではありません。洗濯石鹸も日常生活になくてはならないものです。

さて、特集冒頭は「総論」というのが『俳句』誌の決まり。今瀬剛一「一つの試みを通して」をまず読みました。「類句類想が余り問題にならなかった一昔前の作品」(久女、波郷、秋桜子、虚子)が列挙され、これらに共通する要素として2点、「現場・制作状況がはっきりしていること」「作品から作者の表情といおうか、哲学といおうか、作者独特のものが読み取れること」が指摘されます。

作家性と現場性? これがどうやって類句類想問題の解決に結びつくの?と、ちょっと訝しく思いますよね。問題は、そこじゃないだろう?と。

はたして、嫌な予感は的中し、類句類想の問題とは、ほぼ無関係な論が展開されています。論理の発端を芭蕉の「等類気遣ひなき趣向」に求めた点に無理があったようです。芭蕉の時代の「等類」といま私たちが直面する「類句類想」とは、あきらかに事情が違うと思うのですが、この論考はそこに目を向けることはしません。

そして、何を思われたのか、記事の途中からは御自分たちの句会の様子が語られ、あげくには、その吟行句会で詠まれた句が並べられ、「私などその作者を知っているものにとっては、これらの作品は本当に個性的、その人間が現れているように思えてならない」と締めくくられます。

えっ? 「その人間が現れているように思えてならない」句だから、類句類想を免れた、と? しかも、「その作者を知っているものにとっては」と?

椅子からずり落ちました。

しかし考えてみるに、著者がそうした「試み」を通してしか、今のところ、類句類想問題に対処できないという、この事態は、この問題の困難さを語るものでもあるようです。句会など、ふだんから頻繁に話題にのぼるテーマですが、腑に落ちる解答をまだ聞いたことがありません。俳句におけるアポリアのひとつと思います。

それにしても、むしろ、作者らしさ、その場の臨場感のようなものこそが類句類想を生み出す源泉のひとつのようにも思えてしまいますが、どうなんでしょう? 人間(作者としての人間)って、あんがい類型的ですよ。それにまた、「現場性」を保証する吟行とは、俳句的脈絡という共通のフィルターを通してモノを見ることにつながってしまいそうな気もします。

一方、示唆深い記事もあります。中西夕紀「比喩の言葉とメッセージ」。字面として同じ比喩を用いた類似(この記事では「護謨鞠のやうな」という直喩が例示されています)と比喩のシステムの類似(柘榴→百の言葉、葡萄→一語一語)が対照され、前者の場合、メッセージが異なれば、類句にはならず、OK、後者の場合、外見上異なってはいても、発想が同じ、とみなしてNG。それが著者の把握です。こう換言するとややこしそうですが、わかりやすい記事です。

議論の余地はありそうだし、人によって別の見方が出てきそうですが、類似を、外形的類似と発想プロセスの類似に分けた点、有益のように思いました。ただ、そこで言われる字面の類似を「類句」と呼び、発想の類似を「類想」と呼ぶのだと、私などは思っていました。

〔常套的表現を避ける〕という範疇の記事も2つありますが、常套的表現は、類想類句に至る以前の問題のような気もします。常套的表現を脱した「ちょっと気の効いた」表現。そのあたりが類想類句の発生密度が最も高い領域だと思うのですが、どうでしょう?

さて、特集はこんなところです。谷口智行「〈泣きにくる〉という類想性」の冒頭にこうあります。「今回の執筆にあたり幾つかの論考や特集に目を通したが、まずもって本稿そのものが類型となってしまうのではないかという懸念を持った」。

なるほど、です。類句類想についての議論の多くは類型的、とは皮肉なことです。でも、だからといって、このテーマに関する論議が不毛かといえば、そうではないと思います。作句において、類句類想を避ける努力は必要でしょうが、あまりに怖れていては、1句も捻ることができなくなります。論議もまたそれと同様で、怖れず繰り返すしかないのでしょう。ほんと難しい問題です。これって。

●長谷川櫂「一億人の季語入門(五)夏の季語」 p42-

地名は季語の役割を果たすことがあるとのこと。芭蕉の「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉」等の句を挙げて解説。

人名も、だよな、と、ひとり強引に、話を広げながら読みました(大辻司郎象の藝當みて笑ふ・三鬼)。

●高野ムツオ「団塊の談林」(『攝津幸彦選集』書評) p316-

攝津の句には、今生きている自分を、五十年ぐらい後に振り返って見ているといったまなざしを感じることがある。
すぐさま攝津幸彦句集のページをめくりたくなるようなセンテンスです。

●俳句作品も読みました。今月号の好き句。

  これがその春節祭の引出物  後藤比奈夫
  凧の尾のごときへ腕伸ばしをり  佐々木六戈


5 コメント:

ほろほろ蛙 さんのコメント...

今瀬剛一氏の総論はやはり同じような違和感を感じました。作品ではなく作者で名句が生まれると言っているみたいです。(同じ作品でも、この作者が作ったのなら秀逸で、あの作者が作ったのならば没と言うこと)

類想類句の問題って結局は(いわゆる)プロの俳人が膨大な選句の手間を省きたいってことではないでしょうか。
大衆化した俳句は、たとえ類想類句だろうが自分で絞り出した句が愛おしくそれで感激しているところに意義があるようですから。

後半の自分の結社の句会自慢は、そう言うどうしようもない大衆化俳句をやるものは俳句の世界から去れと言っているのと同じような気がしました。

天気 さんのコメント...

ほろほろ蛙さん、こんばんは。

類句類想の問題は、おっしゃるように、2つの俳人範疇間で異なる問題と捉えることもできると思います。
プロ俳人、まで言わなくとも、俳句専門誌に作品が載るような作家が1つの範疇、そうではない俳句愛好者がもう1つの範疇。この2つでは、類句類想に関するモラルハザード(自己規律喪失)の厳格さも違ってくるかもしれません。

でも、俳句作者の全体を、そのように階層として分けて考えることは、俳句に豊かさをもたらすことにつながらないのではないか、というのが、いまのところの個人的な思いです。

ともかく困難な問題で、抽象レベルに行く以前に、例えば、どれが類句類想で、どれがそうじゃないのかは、人によって、そうとうバラツキがあるように思います(句会などの経験レベルで)。

また一方、「1字違えば違う句」と捉える流派さえあるようです。

以前、どこかのBBSにこう書いたことがあります。「類句類想を恐れていては、(萎縮して)句を捻ることができなくなる。かといって、『類句類想でもOK』と言ってしまうと、読者は置き去り」
つまりは、自分の句の読者をどう捉えるかという問題でもあるようです(自分を含めた読者)。

ともあれ、「類句類想撲滅運動」みたいな方向でなく、いろいろな側面から考えてみると、意外に有意義な展開があるかもしれません。

長くなってしまいました。

これからもよろしくお願いいたします。

ほろほろ蛙 さんのコメント...

天気さんこんにちは。
類想類句の問題は、無くならないでしょうけれど絶えず考えていかなければならないことでしょうね。

好きな人や物などまねしていくところからどんどん自分の個性が発揮されていくと思います(一部天才は始めから個性的でしょうが・・・)。でも俳句の世界では、始めからこの真似ることがいけないこととされているように思います。

誰の意見なのか知りませんが「俳句は類想の文学である」というのが的を射た意見のように感じます。類想類句を無くすのではなく、類想類句が出た時にどう対処していくかが大切なのではという気がしております。

どうもありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。

橋本 直 さんのコメント...

こんにちは

飯田龍太の生涯と仕事というなら、文献目録確かなかったと記憶しますが、つけてもらいたかったです。昔の「俳句」は、重要な俳人についてはきちっと出していた気がするのですが、気のせいかな・・・。

天気 さんのコメント...

橋本さん、こんばんは。

ないですね。

『俳句研究』は6月号が追悼特集とのことです。こちらはどうなんでしょう。発売を待ちます。