2007-05-27

『俳句』2007年6月号を読む 上田信治

『俳句』2007年6月号を読む ……上田信治


池田澄子「あさがや草子 (18) ぼうたんのあとはほーたる」p30-

俳人は牡丹をよく「ぼうたん」と詠む。(略)私もそう発音してみたいときがある。けれど、主義(と言うのも野暮だけど)として我慢してきた。普通の言葉で書く、というのが、私が私に掛けた枷なのである。

俳句独特のジャーゴン(術語)の問題。

ジャーゴンを使うのは、集団の内側意識のある人と相場は決まっています。「普通の言葉で書く」ということは、内側の人、つまり「俳人として」書くのではなく書く、ということでしょうか。しかし、だからといって、それは、「普通人」として「普通の感覚」で書くということではおそらくない(池田澄子は、そういうふうに見られがちな作家ですが、「普通人の感覚」なんてないわけで)。

むしろ、「わざわざ」俳句であること、「どういうわけか」俳句であることの、抵抗感を手放さずに書く、「普通の言葉」はそのための「枷」であるように、思われます。

ところで、今月の「あさがや草子」、「ぼうたん」が出てくるまでの数十行で、チューリップ→納豆→三橋敏雄の折紙→納豆のたれ→ぼうたん、と話題が転々とするところが、すごくおもしろいです。

大特集「人生をさらに充実させるために! 中高年の俳句的生活」p61-

六十代は俳句の世界では「若手」ですから(笑)、俳壇でもそういう方たちの新しい力を期待する向きがあります。中高年になってから俳句を始める方たちへのよきアドバイスになれば、またあわせて、私たち中高年の俳人たちが、実際に俳句とどう関わって生活しているかということを見直してみようということで企画されたのが今日の座談会です(「座談会 俳人という人生の過ごし方」司会・茨木和生さんの発言)


ようするに、いっせいに定年退職をむかえる団塊の世代が、俳句の世界に来ないかなあ、来ませんか? という主旨の特集です。

ここには、まだ雑誌の読者ではない人のための特集を、その雑誌でやってしまう(だれが喜ぶのだろう)という難しさがあるわけですが、座談会に出席した俳人の方たちの人生のお話しは、それなりに興味深かったです。伊藤伊那男さんて、バブルの崩壊をまともにくらって、いまは神田で飲み屋やってるんだー、とか、今井肖子さんて45歳のとき、お正月にお母さん(今井千鶴子)に言われて俳句始めて7年目なんだー、とか、そういう興味ですが。

小川軽舟「現代俳句時評 くびきから放たれた俳人たち (6) 長谷川櫂」

総合誌の「時評」のページというのは、しばしば書き手が「評論集」を出すときに、核にする原稿を書く場だったりします。今年の時評は、筆者が自分と同世代(昭和30年代生れ)の俳人をとりあげるという、意欲的な試みで、その世代の作家といえば、作品の存在感からいって、あきらかに俳句の「現在」の中心で、これは、おもしろそうだぞ、と思っていました。連載第一回で「今の私に用意された結論はない」と、書いていた筆者ですが、連載の半ばまできて、どうでしょう、たどりつく辺が、あるのかないのか。

連載は、それぞれの作家の一部の(←ここ強調)作品に、ちょっと不満を言いつつ(中原道夫に「機知というものは進歩しにくい」、正木ゆう子に「過去の作品を越えているとはにわかには言い難い」、三村純也に「言葉に凝っただけのこと」)、その上で、期待の方向をしめすというスタイルです。今月の長谷川櫂に対しては、特に不満ということではなさそうですが「長谷川の俳人としての生き方には戦略性がある」「長谷川の俳句を批判しようと思えば、古典に傾きすぎて現実から遊離しているとか、人生の真実が反映されていないとか、季語の本意に即した類型的な表現が多いとか、いろいろ指摘することは出来ると思う。しかし、長谷川の俳句のそうした傾向は、俳句の正当性の回復を目指す戦略の下で、どうやら確信犯的に演出されているように思われる」「俳句を支える価値観をそのまま現代社会に広く浸透させることを目指すのである」「私たちに、ドン・キホーテ的とすら見えるその壮図を論評する資格はないだろう」と、揶揄するかまえ(けっこう、言っちゃってるという気もしますが)。

古典指向とは「不易」の回復である。ならば次の課題は現代における俳句の「流行」とは何かということだろう。長谷川が現代俳句にどのような新しみをもたらすのか。長谷川にはもう思い描いているものがあるのだろうと期待する。

だそうです。
櫂未知子についての回(とうぜん、あっていいと思う)が、楽しみでなりません。あと案外、岸本尚毅が「本丸」だったりしてね。

「合評鼎談 (6) 齢とともに変る詠み方」p183

櫂 (前略)このように句が先にあって、むしろ実際の景が後からついて来るような気が最近はすごくしまして、面白いなあと思ったんです。そういうことって、ありませんか。
筑紫 それは多分、お年をとったんじゃないですか(笑)。
櫂 そ、そうか。これだけ自分の中に句のストックが出来て嬉しいわと思っていたのに、今の身も蓋もない一言で非常に納得いたしました(笑)。

じつは、毎月、いろんな意味で、雑誌記事中の白眉をなすこの連載対談。
ぜひ、実物を読んでいただきたいので、話題にのぼったトピックだけ、頭から拾うと、

・名句の条件としての、句の「形や姿」。
・俳句は「把握と表現」。
・既視感がある句が名句になりやすい。
・今回(4月号)の岡本眸作品は、けっこう暗い。
・同・今瀬剛一作品、泥臭さが抜けて、突き抜けたかんじ。
・同・大屋達治作品は、多行に分かち書きしても、いけるんじゃないか。
 ……
 ……
この調子で、ずっと、平成俳壇のページまで、面白い。

筑紫 煤逃げの夫ががらくた買うてきし  有岡冨美子
 ありえますね。
大輪 こういうところで時間をつぶしてきたんですね。
櫂 いまいましそうですね。
(略)
筑紫 点滴の管絡み合ふ寝正月  早川智恵子
 ちょっと凄まじい。
櫂 これ「寝正月」の本意を引っ繰り返してませんか。すごいですよ。だって、起きられないんだから。
大輪 そうなんです。逆に言うと「寝正月」という言葉をこういうときに使っていいのかなと思いますが。

筑紫磐井、櫂未知子、大輪靖宏(『俳句の基本とその応用』『花鳥諷詠の論』)の、楽しげなやりとりを見ていると、知性というのは、どうしようもなく「身も蓋もない」ものなんだ、と思います。