〔復刻転載〕
山国の蝶 虚子と小諸時代 ……田沼文雄
初出 「麦」1981年10月号
最近、ある俳句雑誌から、「戦後俳句のなかから、秀句五句を選べ」というアンケートがきた。山ほどある戦後俳句のなかから、五句とはずいぶん無理な注文だなと思いつつ、漠然と過去の記憶をふりかえったとき、最初に脳裏に浮かびでたのが、
山国の蝶を荒しと思はずや
の一句であった。虚子がこの句を得たのは、昭和二十年五月十四日である。だから厳密にいえば戦後俳句とはいえないかもしれないが、発表されたときはすでに戦後である。この句を最初、世に紹介したのは、翌昭和二十一年の「ホトトギス」五月号であるが、当時、波郷は総合雑誌「現代俳句」を創刊し、その編集に当っていた。そして企画のひとつとして、「現代俳句合評」を誌上に載せた。これは波郷が、選出した句を評者に送って得た評をアレンジして、合評の形で誌上に発表したものだという。
ここで波郷は「山国」の句をとりあげたのである。戦後間もない時期であり、まだ俳句雑誌の創刊も数少ない当時に、斬新な企画とひろく正確な展望をしめしたこの雑誌は、波郷の人気とあいまって、いまの時代にはちょっと考えられぬほどの、注目と関心を集めたのである。「戦後のホトトギスは用紙割当制限で部数は三万を越えるといわれていたが、頁数は貧寒たるものだったが、その末尾の方に裏表紙にかけて『句日記』が載っていた。その年の句でなく、前年だか数年前だかの句日記を順次に発表していた。夥しい句で日常触目、句会即事といった句がぎっしりつまっていて通読するだけでも煩を覚える程だったが、その中から『山国の蝶』の句を見出して私は欣喜したのを思い出す」(「四月八日虚子忌」)と波郷は後年書いている。この「欣喜した」には、波郷の喜びの大きさが如実にしめされていて気持がよい。
波郷は作家として、勿論一流であったが、編集者としての力量も、天性のものがあった。だから、波郷の手によって発掘された俳句も多かったわけで、「山国」の句もそのひとつであった。だがこの直截朗々の趣に、あまり興味をしめさぬひともいる。たとえば山本健吉などそのひとりだろう。健吉氏の虚子に関する論稿のなかで、この句を代表句として挙げているのを、私は見た記憶がない。
氏の現代俳句への深い理解をしめした、代表的な俳句鑑賞『現代俳句』高浜虚子の項にも小諸での同時代の作品からは、
稲刈りて残る案山子や棒の尖
虹たちて忽ち君の在る如し
虹消えて忽ち君の無き如し
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ
茎右往左往菓子器のさくらんぼ
爛々と昼の星見え菌生え
の六句を挙げるのみで、「山国」の句には触れられていない。波郷という純粋な作家の感性と、健吉氏の学究的な感性の違いからいえば、これは当然なことかもしれない。健吉氏の抱懐する俳句の在り方は、滑稽と挨拶こそ固有の目的であるとする原則論の側に立つものであるから、奔放な詩情の流露や、実験的なイメージの造型など認めるわけはない。
それはそれとして、いまふりかえってみると、私がいつ、どのような理由からこの「山国」の句に愛着を覚えるようになっていたかは、ほとんど記憶にない。私の記憶力はきわめて怪しいもので、それが記憶として定着するまでには、かなりのフィクショナルな波に洗われるのがつねであって、記憶のたよりなさは、即人生のたよりなさなのである。だからいま、自分の昭和二十年代の記憶をまさぐってみて、この句との蓬着の事実や感銘の鮮やかさを、ことごとしくのべたててみても、それは自分で自分の肝を冷やすだけのことである。
この句は虚子が、第二次大戦の戦火をさけて鎌倉から小諸へ疎開していた、いわゆる小諸時代の作品のひとつである。そして「昭和二十五年五月十四日。年尾、比古来る」の前書が付してある。年尾はいうまでもなく、長子高浜年尾であるが、比古とは田畑比古のことである。『現代俳句辞典』(角川書店刊)からその略歴をひろえば「明治31年4月6日、京都生れ。本名彦一。料理業。妻三千女(昭和33年歿)は虚子の小説『風流懺法』の三千歳のモデル、三千女と共に虚子に句を学び、『緋蕪』『裏日本』『大毎俳句』の選者を経て昭和31年2月『東山』創刊主宰」と書かれていて、虚子の古い門弟のひとりである。
句集『六百句』には、この前書が「五月十四日。年尾、比古来る。小諸山蘆」とあって、この句が疎開先の小諸の假住居で作られたことがわかる。この句を字句どおりに解釈すれば、折から飛翔する蝶を見つけ、「君たち、山国の蝶ってのは、どこか荒々しいと思わんかね」と呼びかけているそのままを句にしたと見てよいだろう。ふたりの訪れのよろこびが、思わず気持を若がえらせた、そんな気分の昴ぶりさえ感じられる句である。
だが、そういう事実の有無をしらなくとも、この句の明るい広々とした情景、よどみない若々しいリズム感は、それだけでも一級の作品として位置づけられるし、愛誦に耐えうる同化性を持っている。
さらにこの句の良さは、単純明快なそうした事実の裏で、「山国の蝶」といいながら、「山国」そのものを荒しと言っている、べつの虚子の声も聞えてくるところにある。天空を翔ける一羽の蝶の生の荒々しさを前面に感じながら、その背後の緑樹緑蕪の山国の容貌に、親しみをこめた無言の挨拶を送っている虚子の姿も見えるわけで、たくまぬダブル・イメージとして、新しい現代の感覚さえ匂ってくるのである。
山国の蝶を荒しと思はずや
私は久しぶりにこの句をくちずさみ、明治の青春と戦後の青春、そして日本人の青春にまつわる一抹の悲傷感を、ひそかに味わっていたのである。
虚子が小諸に住んだのは、敗戦時を中にした昭和十九年九月から、昭和二十二年十月までの三カ年とひと月余である。当時、虚子は七十一歳になっていた。七十歳余の老齢、しかも都会生活になれきっていた虚子にとって、この山国生活がいかに大変であったかは、だれにも想像できることである。まして時代は激変のさなかである。
疎開先は娘の高木晴子の縁で、小諸町野岸の旧家小山栄一氏の持ち家を借りた。八畳と六畳の二間でそこに夫婦と女中の三人暮しであったという。小諸は浅間の山裾、高燥の夏はともかく、秋から冬へかけての烈しい気候風土は、ずいぶんと辛いものがあったはずである。
疎開したのが九月四日だから、それから間もない九月十日、高野素十に宛てた葉書で、「野道を歩いてゐて里人に逢ったらこちらから『お早う』とか『今日は』とか言はうと思ってゐるのですが、つい言ひそゝくれて後悔して散歩してゐます。浅間は姿を現すことを惜んでゐますが、現はして見るとたいしたことはありません。尤こゝから見る浅間は男ぶりのよい方ではありません。うちの雪隠が臭いと言っておばさんがぶつぶついってゐますが、それはうち許りではありません。一体に此辺が臭いのですから仕方ありません。私達は小山氏から丁寧に扱はれてをりまして勿体なく思ってゐます」と報じているが、疎開者の土地へ溶けこもうとする努力や、風土との異和感、そして庇護者への遠慮など、八方への気くばりを早々にして体験していることがわかる。
そして冬に入って散歩や外出が意のごとくならぬときは、縁側散歩といって、三間半の廊下を何百遍となく往復して、体力の保持につとめ、夜は切炬燵で寒さを凌ぎながら、女中に本を読んで聞かすというような日毎であったらしい。綿入れの和服を兵庫帯で結び、防寒頭巾で顔中をおおい、わずかに目だけだしている着ぶくれた写真も残されているが、ここには鎮然たる巨匠のおもかげはなく、まさに山国の老爺そのものの姿だけに、哀れさえ感じるのである。
「元旦だと思って七時に起床。おつねは餅の代りに強飯を炊いていた。元旦に餅のない正月をしたことは、生れて六十五年、今年が最初なりと断定しても恐らく間違いでなかろう。長良(次男・病中=筆者注)は強飯をお粥にして食った」と昭和二十年の元旦の日誌に誌したのは、同じ長野県の伊那谷に疎開していた森田草平である。
また里見弴の愛人、遠藤喜久も小諸に近い上田市在に疎開していたが、同じ二十年の八月三日の弴への手紙に「今日はジャガイモの配給でした。そちらも配給になりましたか。この間うちからのべつ食べ続けてゐるので、みんな少々うんざりのていでございますが、まことにもったいないことで……」と書いている。いずれの疎開者も悩みは同じであった。虚子の食生活など、どのようなものであったろうか。いわゆる非農家とよばれた疎開者たちが、余分な食糧を手に入れるのがどれほど困難であったかは、いま五十歳代から上のひとなら、だれでも苦い記憶として思いだすことのできる事実である。『小諸雑記』の一章に、餅をつくから食べに来ないかといわれ、小諸から四、五駅先までいって、そこからさらに小一里先まで餅を食べに行った話が書かれている。
これなど、少ない虚子の食べ物に関する挿話のひとつだが、小諸にいても旅行、句会などで他出することの多かった虚子には、一個所にじっととどまっての生活を余儀なくされた他の疎開者とは違って、日常での飢餓感など、さほど感じることもなかったのだろうか。しかし昭和二十二年四月の山口青邨宛ての便りには「一月半寝ました。やうやく二三日前より起きて縁側の椅子に掛け、又臥せるといふやうになりました。(中略)まだ半月か一カ月は静養する覚悟でなければならぬだろうと思ひます」と書いたりする大病もするのである。
そして「三年余り小諸の山居に仮寓致して居りましたが、子供達が冬の間だけでも鎌倉へ帰ったらどうかとしきりにすすめますので、この冬だけでも帰ることにしようと思ひます。小諸の山蘆はそのまゝにして置きまして、俳句を作る方に留守番をして貰ひます。十月二十四五に帰らうかと思ってゐます」と「ホトトギス」の「虚子消息」に書いて、昭和二十二年十月二十五日、鎌倉へ引きあげるのである。
「私は小諸を去ると決心した時に、杖をついていつも通ってゐた散歩の道を一巡して帰って縁に腰を下した。其時目の前に咲いてゐる紫苑を見た。此の紫苑は昭和十九年の九月に始めてこの家に来た時分に門に入ると、見事に咲いてゐた紫苑であった。盛りの長い其紫苑の花は、常に私の目の前にあった。泊雲の死の伝はった時も、此紫苑が目の前にあった。終戦の詔勅が伝はった時も、此紫苑が目の前にあった。其他くさゞの出来事の時も、常に此紫苑が目の前にあった。軒に聳えてゐる浅間山とともに、此紫苑は常に私の目の前にあった。今此地を去らうとする場合にあって、縁にかけて見る此紫苑には、名残の惜しまれるものがあった」(「紫苑」)という感懐を残して虚子は小諸を去った。七十三歳と十カ月の時である。
この小諸での三年間の生活は、日常的な苦痛は別として、作家としての虚子には、大いにプラスになったのではないかと思う。目新しい風物、峻烈な四季の気候など、老作家の気力をふるいたたせたとしても、それは不思議ではない。名作『虹』を生んだ森田愛子たちとのみずみずしい心の交流、それに俳小屋での末娘章子の夫泰を中心とした稽古会など周囲からの若い情熱も虚子のはげみとなったことであろう。
虚子の長い作家歴を区分して、たとえば明治期、大正期、昭和前期、昭和後期と分けたとすれば、この小諸での三年間だけは、いずれにも属さぬ独立した三年間であり、短くはあるが、他のどの時期と比しても、遜色のない三年間である。いや、むしろこの三年間こそ、作家虚子の名の礎ともなる三年間だろうと思う。
「父の句集に『小諸百句』というのがある。この百句は父の小諸時代の作句の代表句であるが、私はこの百句に父の澄んだ力を見出すことが出来る。戦前の父の句の傾向の中に無いとも云える作句が数多く発見出来る。句境として父は浅間山麓の四季の中に足を踏みしめ、大自然の中に全く解け込んで居った。作句の中に父の息吹を感じとるのは私ひとりではないと思っている。考えようでは戦争疎開ということが、父にその機会を与えてくれたと見てよいとも考えるのである。私は後世の俳人が父のこの小諸時代を高く評価することがあると信じて居る」(『父虚子とともに』)と後年年尾は書いているが、私もまったく同感である。
しかし『小諸百句』は正確にいえば、小諸時代を代表しているとはいえない。収録されたのは刊行された昭和二十一年十二月以前の約二カ年の作品からえらんだもので、あとの一年余りの作品は、『六百五十句』(昭和三十年刊)によらねばならないが、ここに年代順に佳句をいくつか拾ってみる。
秋の風強し敷居に蝶とまり (昭和19・9)
浅間かけて虹の立ちたる君知るや (19・10)
汝が盛り久しかりしも紫苑枯れ (19・10)
山国の冬は来にけり牛乳(ちち)を飲む(19・11)
雪深きことはたゞごと山に住み (20・1)
蓼科に春の雲今動きをり (20・3)
浅間嶺の一つ雷訃を報ず (20・8)
大根を鷲づかみにし五六本 (20・11)
地にとまる蝶の翅にも置く霜か (20・12)
有るものを摘み来よ乙女若菜の日 (21・1)
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ (21・3)
稲妻にぴしりぴしりとうたれしと (21・5)
小諸とは月の裾野に家二千 (21・9)
冬籠人を送るも一事たり (21・12)
春雨のかくまで暗くなるものか (22・4)
茎右往左往菓子器のさくらんぼ (22・7)
惨として日をとゞめたる大夏木 (22・8)
濁りしと思へど高し秋の空 (22・8)
爛々と昼の星見え菌生え (22・10)
これらの句を通読して、虚子の張りつめた気息と清新な情緒の展開に、年齢を感じさせない若さを感じるのである。
虚子は若くして老成した作家だった。たとえば一代の傑作とされる、
遠山に日の当りたる枯野かな
の句は、明治三十三年、二十六歳のときの作である。この茫漠たる大景によせる心境は、生死を達観した老熟者の安らぎさえ感じさせる。そして花鳥諷詠をとなえ、客観写生とは花なり鳥なりを向うにおいてそれを写しとることで、自分の心は表にだしてはならぬ、という指導方針をつらぬき通したひとである。だから、生涯の作品を通観すれば、そこに浮きでてくるのは、「桐一葉日当りながら落ちにけり」(明治三十九年)であり、「流れ行く大根の葉の早さかな」(昭和三年)であり、「去年今年貫く棒の如きもの」(昭和二十五年)なのである。
そうした一種の諦観めいた雰囲気は、日本人の心理構造によく合うのである。ようするに、すべてほどほどにという、曖昧さへの共感が虚子の作風をそだて、虚子を中心とした俳句大衆化運動となっていたのである。
だが小諸での環境の変化が、そのベールをはぎとったと言ってもよい。そした従来あまり持続してみられなかった抒情主体の名作を、つづけてこの期に生みだしたのである。
小諸は臼田亜浪の出身地ということで、むしろ反ホトトギス的な土地柄だそうである。だから虚子の疎開も、地元へ与えた影響は、微々たるものであったという。疎開当時は物珍しさもあって関心をしめしたが、虚子の対象も、あくまで全国的なホトトギスの人たちであったから、各地へおもむくことも多く、しぜんに地元との交流も薄くなっていったようで、鎌倉へ引きあげたあとでは、ほとんど忘れられた存在だったという。このことも、一面、虚子に幸いしていたといえばいえぬことはない。煩瑣な人間関係をつくってしまうと、それが従来の虚子のサービス精神を表にだすことになって、あの名作群を生む機会を失っていたであろう。疎開者虚子としての疎外感が、創作意欲への集中となったと、いえぬことはないだろうか。
「小諸といふところに来た時の直覚は何となくすべてのものが荒々しいといふ感じであった。家の建築でも、土地の耕作でも、人の挙措でも、また言葉つきでも何処となく荒々しいといふ感じであった。九月始めに移って来たのであったが、だんゞに寒さをそゝってくる秋の風が屋をゆるがして吹いて来た。
秋風の荒々しくも吹きそめぬ
翌年の春であった。折節来合はせた年尾と比古とを伴って近郊を散歩した。近郊と言っても大概勾配のある坂道であって、それを登ってゆけばそれだけ浅間の頂上に近くなることになるのであるが、その道の両側にある畑には豌豆の花が咲いて居ったり、青麦の畑があったりする。その上を蝶々が飛んで居る。
山国の蝶をあらしと思はずや
と私は二人を顧みた」(「荒々し」)
昭和二十一年十月号の「玉藻」にのせられた短文である。ここには「山国」の句の生まれた経緯とともに、小諸での虚子の生活観が、そこはかとなく滲みでていて胸を打たれる。
だから「山国」の句は、虚子の小諸での全作品のモチーフの核とも、原景ともなっている作品であり、それだけに共感をよせるひとも多い句のひとつである。私ももっとも好きな虚子の一句である。
田沼文雄 (1923-2006) 群馬県に生まれる。1947年、「麦」入会。1989年より2004年まで「麦の会」会長を務める。句集に『田沼文雄句集』『菫色(きんしょく)』『即自』など。
※「山国の蝶…虚子と小諸」は関係各位の許諾を得て転載させていただきました。
■■■
個別記事に「コメント欄」を設けておりません(試験運用)。
ご感想・ご意見はすべてトップページの「感想・告知ボード」にどうぞ。