2007-06-03

『俳句α』2007年6/7月号を読む さいばら天気

『俳句あるふぁ』2007年6/7月号を読む ……さいばら天気

『俳句朝日』がこの6月号で廃刊らしい。小誌「週刊俳句」で取り上げさせていただくことなく終わった。ま、それはいい。

『俳句あるふぁ』のことを書くのに、不適切に不吉な話題から入ってしまったが、創刊は『俳句あるふぁ』のほうが先(1992年と1995年)、売上部数は『俳句朝日』のほうが多かった(らしい)。朝日新聞が俳句雑誌を廃刊したことで、毎日新聞も見切りをつけやすくなった、と、これは一般的な捉え方。『俳句あるふぁ』の廃刊も近いか、などと言っているのでは、まったくない。

B5判・約130ページと薄め。さらには後半20ページほどが読者投句の記事にあてられ、読み物はそれほど多くない。

巻頭32ページがカラー。少ページ数のわりに定価1000円と、他の俳句総合誌に比べて割高感の漂いそうなところを、カラーページの多さでなんとか宥めようという作り。これは雑誌によくあること。

さて、記事である。カラーページの「ふるさと歳時記三六五日」は、6月1日から7月31日まで、「今日は何の日」式に行事を紹介、そこに1句ずつ句が添えられる。「神田川祭の中を流れけり」(久保田万太郎)は6月4日のところにあり、「島崎藤村の『生ひ立ちの記』に登場する、浅草の榊神社の祭を詠んだ句」と解説にある。へえ、神田祭じゃないんだ。

それはともかく、こうしたちょっと地味でルーティンぽいページが、実は便利だったりする。例えば、ここだけひっちゃぶいて、愛用の歳時記あるいは季寄せに挟んでおくというのも、俳句愛好者として正しい行動だと思う。

もうひとつ注目した記事がある。「私が愛する俳句」は、いろいろな俳人の持ち回り連載で、今号は中原道夫。俳句全体から50句を選ぶなど、じつに困難な作業とも思うが、「まんまるに出でても長き春日かな」(山崎宗鑑)に始まる50句は、悠々と選ばれた感じがあり、何度も読んでしまった。こういうものは、「まあ、そういう選択もあるわな」に終わることも充分に考えられるのだが、今回、中原道夫の50句は「俳句はやはりおもしろい」とあらためて思わせる50句。この部分は立ち読みの価値アリ。いや、ちがった。もとい、買って読め。

といった感じの『俳句あるふぁ』6/7月号なのだが、この雑誌、ちょっとおもしろい特徴、それもかなり大きな特徴がある。署名のない記事が、とても多いのだ。

他の俳句総合誌は、誰々(ほとんどは俳人)に原稿を依頼し、その人が書く。とうぜん署名が入る。『俳句あるふぁ』はそうではない。もちろん編集部が書く部分は、どの雑誌にもある。小さな埋め記事などはそうだ。ところが、『俳句あるふぁ』では、特集記事からコラムにいたるまで、実にたくさんの(埋め記事ではない)記事が署名ナシで並ぶ。

これはどういうことか? ここからは私の想像に過ぎないが、原稿執筆を外部の俳人に依頼せず、内製、つまり編集部内で書いてしまっているのだ。だから悪いというのではまったくない。ちょっと変わった作り方をしている、ということだ。原稿料としての出費を抑えているのか、時間に追われ外注している暇がないのか。ともかく、記事の内製がすごく多い。しかも、多くの記事が「のです」の文末にクセのある文体、と、まあ、すこし意地悪く読めば、たった一人の書き手がたくさんの記事を書いている、との推理も成り立つ。

ここからもは私の想像に過ぎないが(何度も言う、単なる想像だ)、石寒太さんが何十ページぶんもの原稿を、捻り鉢巻きで執筆しまくっていらっしゃるのではないか。というか、その姿が、目に浮かぶのだ。

おもてむき「石寒太」の名が『俳句あるふぁ』誌上に登場するのは、投句添削のたった1ページだ。だから、以上に書いたことは、私の空想にしか過ぎない。

だが、そう考えると、この『俳句あるふぁ』、ちょっと違った味わいがある。

別の見方をすれば、というのは客観的に見て、かなりキツい作り方になっている、とも言えるのだが。

新聞社が啓蒙的に刊行する俳句総合誌、すなわち、初心者向けの「親しみやすい内容」、俳句愛好者の「裾野」へと訴求しようとういう意図をもった俳句総合誌の居場所は、いま、どこにあるのだろう? そんなことも思ってしまった。



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