成分表 4 ザッピング 上田信治
初出:『里』2006年6月号
ひとりでテレビを見ているときは、ザッピングといって、チャンネルを始終替えながら見るのだが、特に、たまたまその時やっている映画を、途中からちょっとだけ観るのが好きだ。最近はケーブルテレビに入ったので、3~4種類の映画を、行ったり来たりしながら観たりする。
〈若い白人の男が、大学進学のための書類に不備があったことを知らされ、はげしく失望する。〉へー。
〈男が一人、女が二人、夜の部屋にいる。男が、女たちの写真を撮り始める。恥ずかしそうにしていた女が、だんだんリラックスしてくる。〉へー。
〈浅野忠信が、煙草を吸っている。〉はははは。
そうやって一部分だけ観る映画は、とても本当らしく見えるから、よい。前後の脈絡がなければ、どんな映画でも、ちゃんと世界の一断面のように見える。映画の中でも外でも、人のすることは、だいたい同じということか。あと、きっと自分には、のぞき見趣味があるのだろう。
ところが、そこで興味をひかれ、ザッピングを止めて見始めると、映画はほとんどの場合、どんどんつまらなくなってしまう。だいたいの人間関係の見当がついたあたりで、「本当らしさ」は消えて、ただの「お話」になってしまうのだ。もちろん「お話」だから悪いというのではなく、自分が、それまで見えていなかった、作り手の都合や世界観の侵入を感じて、かってに興醒めしているだけなのだが。
〈(承前)写真家の男は、本職のモデルである女ではなく、恥ずかしがり屋の、実は獣医である女に、惹かれていた自分に気づく。〉やれやれ。
俳句は、何を書いても切れっ端なので、本当らしさという意味で、かなり有利なのではないか。
我去れば沛然と喜雨至るべし 高野素十
俳句思へば泪わき出づ朝の李花 赤尾兜子
妻よ歔(な)いて熱き味噌汁をこぼすなよ 富澤赤黄男
いきなりである。それしか言ってない。しかし、ここには、とても強い本当らしさがあると思う。言っている内容だけを見れば、人間、俳句の中でも外でも、たいして違うことを言うわけではなく、セカチューとどこが違う、相田みつおとどこが違うと問われれば、答えに窮するくらいのものだが。
当り前のようだけれど、「声」が違う。
これだけの「声」で言われたら、信じても(だまされても)いいと思う。というか、この場合、「だまされる」とは、どういうことか分らない。
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