2007-06-03

消えた一句 田沼文雄

〔復刻転載〕
消えた一句 京極杞陽の「八百屋お七」 ……田沼文雄

初出 「麦」1972年1月号


私はいつからそうなったのかわからないが、芸術の絶対的価値などというのものは、あまり信用しなくなってきた。客観的にいくら名作だといわれても、自分の感性が納得しなければ、それが名作としてうつらないのはあたりまえのことで、何も私の発明ではないが、それと同時に世の名作とか秀作とかでなくとも、ひとつの作品が、心のどこかに深い影をおとして、そのひとの人生を育てていくとすれば、それも読書のひとつの意味であろうと思う。

こんな教師めいたことは言いたくないのだが、もうひとつこのことに固執すれば、《私の名作》《私の秀作》というものが、だれにだってあっていいはずである。ヘミングウェイの長篇『河を渡って木立の中へ』は、一九五〇年発表当時から、すでに失敗作だとされていた。しかし私は、これを読んだ時、ダイナミックな他の長篇や、簡潔無比といわれる諸短篇より、より傑作であると感動して読んだ。当時、二、三の友人とこのことで議論をした記憶があるが、いまでもこの作品の世評は、必ずしもかんばしくはないようだ。だが私にとっては、『河を渡って木立の中へ』を持たぬヘミングウェイだったら、いかにノーベル賞作家とはいえ、とうのむかしに、視野のかなたへ消えさっていたことであろう。

俳句作家にも同じようなひとがいる。それは「ホトトギス」同人の京極杞陽氏である。このひとの作品、

  性格が八百屋お七でシクラメン

 という句は、古今を通じてのあらゆる俳句のなかで、私のもっとも親しい作品である。この句を知ったのは二十数年前のことで、「麦」は草創期、そして私にとっては、いまやなつかしい回想の時代である。

当時、青春のさなかにあった中村里子さん、いまは俳句からはなれている丸山ただし君、そしてすでに故人となった西村一幹、中里鳩哉らとともに、私も、もと「麦」の同人だった前田城雄さんの膝下にあった。このメンバーは「鳩友会」と名乗って、「麦」初期の一時期、期待された時代もあった。

それはさておき、前田さんの指導は、弟子の私が言うのもおかしいが、実に熱心であった。俳句の右も左もわからない私に現代俳句の現状を説明し、誓子、草田男、波郷、林火、楸邨などの作品をつぎつぎと読ませるのだ。ところが新米の若僧が、こういうものを読んだからといって、すぐその真似ができるわけはない。俳句というものの骨格もわからずに、やたらと頭でっかちな俳句ばかりつくるのである。そんな私に、ある日、一冊の句集がわたされた。それは京極杞陽氏の『くくたち』であった。この句集は、昭和二十一年に上巻が、そして翌二十二年に下巻が発行されているのだから、正確には二冊だったかも知れない。

とにかく、この句集が、いままで私の読んできた句集とはまったく異なっているのに刮目した。前にあげた作家たちの、どちらかといえば文学臭の濃い作品の、その文学臭にだけ、影響を受けていた私は、この作家の軽快な明るさ、そしておおらかな表現とウィットといったようなものに、びっくりした。杞陽氏は、明治四十一年に生まれ、学習院、東大を経て、敗戦時まで宮内省で式部官の任にあったひとだという。昭和十九年の作品に、「教育召集姫路入隊」と前書があり、左の二句がある。

  のどかなる我生涯の一事件
  春風や坦馬守は二等兵

人柄がしのばれようというものである。

私はこの句集に愛着した。そして、そのなかで《性格が八百屋お七でシクラメン》の句に会ったとき、初めて俳句がわかったような気がした。いってみれば、わが俳句開眼の句である。だが考えてみると、どうしてこの句が私にそういうショックを与えたのかよくわからない。「性格が八百屋お七」といわれても、当時、西鶴の『好色五人女』を読んでいたわけでもないし、ましてや、浄瑠璃や歌舞伎に縁があるような生活でもない。それに、「シクラメン」などというものが、いったい何なるかも皆目わからなかったのだ。なんてことはない、全然、具象的なことがわからずに、しかし、わかったのだ!

勿論、この句に逢着するまでに、句集『くくたち』のなかで、いわゆる杞陽調ともいえるリズムに馴れ親しんでいたこともある。

  無花果とコスモスと石とトタン塀
  桜草が好きと答へし人が好き

 といったようなものである。

だから、さらに冷静に考えてみると、特に「シクラメン」の句にだけ、そのとき興奮をおぼえたのではないような気もしてくる。けれど、いつのまにか私の脳裏に定着していたのはこの句だけだ。さきほど俳句開眼といったが、初めてこの句にあった瞬間から、俳句の極意がわかったというのもおおげさすぎる。要するに俳句のリズムの一基本形として、いつも脳裏で咀嚼されつつ、私の俳句へ有形無形の影響を与えたのではないか。いまでも私はこの句が好きである。中七と下五の切れぐあいといい、「シクラメン」という音の捉え方といい、何ともいえないリズミカルな快さを感じる。それに「性格が八百屋お七」というイメージもかすかなエロチシズムを感じさせて快い。だから、なにからなにまでよいのである。

ところが、ここにひとつのエピソードがある。私はこの句集を手許に置きたかったので、前田さんにおねだりして、この上下二冊の句集をいただいた。後日、もう十年近くたってからだろうか、この句の出所をたしかめようとして『くくたち』を開いて読んだ。ところが、この句がないのである。

ページが落丁したのかと思ってノンブルも調べてみたが、ノンブルは健全である。私のみおとしかと思って、何回も読みなおしてみたがないのである。私は不安になった。はたして、この句が杞陽氏の句であるか、または、私のうろおぼえで、こんな句など存在しないのではないかとさえ思えてきた。この不安は私をながいあいだ悩ませた。私は『くくたち』以外に杞陽氏の句に接したことがないのである。

その後ふと思いたって筑摩書房版の『現代俳句集』のなかの「京極杞陽集」を調べてみた。するとそこには「くくたち」上という欄に、この句がたしかに記載されているのだ。さらに角川書房版の『昭和俳句集』も調べてみた。こちらには出所は記載されていないが、句はちゃんと載っている。どうしたことだろうと思って、もう一度『くくたち』を入念に調べてみたが、「シクラメン」の句はまるで見当たらないのである。

西鶴によれば、「女こころの墓なや、あふべきたよりもなければ、ある日、風のはげしき夕暮に、日外(いつそや)、寺へにげ行(く)世間のさはぎを思ひ出して、又さもあらば、吉三郎殿にあひ見る事の種とも成なんと、よしなき出来こころにして、悪事を思ひ立こそ、因果なれ」といった世間しらずで、ややそそっかしい八百屋お七のような性格だから、しばらく私がページを繰らなかったので、もはや無用な者と思って消えうせたのか、さもなければ、一時期の私のたびかさなる熱っぽい視線の熱量のために溶解してしまったのかもしれないと思ったりもした。よほど作者にお手許に逃げ帰ってはおらぬだろうか、と問い合せてみようかと思ったりもしたが、その必要もあるまいと、うちすててあるが、いまだ解明できない私のミステリーである。

それはさておき、私は「お七」偏愛の想いを、最近まであまり口外にしたことはない。なぜかといえば、私の周囲には、あまりにも教養主義的な俳句や、権威主義的な俳句を信奉するひとが多かったからだ。酒をのみながらでも、重苦しい俳句談義をやる。それはそれで立派であろうが、そんななかへ、私の「八百屋お七」を持ちだすのは、お七がかわいそうである。だから、私のお七好きは二十年間も胸中に暖めっぱなしになっていた。肩肘はって生きるのも立派だが、肩の力をぬいて、気ままに生きるのもまたよいではないか。これからはせいぜい私の「お七」を世に出してやろうと思っている。だがこれは、作者の杞陽氏とはなんの関係もないことである。



田沼文雄 (1923-2006) 群馬県に生まれる。1947年、「麦」入会。1989年より2004年まで「麦の会」会長を務める。句集に『田沼文雄句集』『菫色(きんしょく)』『即自』など。

※「消えた一句」は関係各位の許諾を得て転載させていただきました。

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