「悪」のあと
前号「柳×俳 7×7」に登場の仲寒蝉さんと小池正博さんからコメントをいただきました。小池正博「金曜の悪」・仲寒蝉「絢爛の悪」はこちら↓です。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77_17.html
■仲 寒蝉
最初にこの話を頂いた時、「面白い、やってやろうじゃないか!」と思いました。ひとつには俳句と川柳とが共演(競演)するという企画に対して、もうひとつは「悪」という魅力的な題に対して。邑書林から刊行中の『セレクション柳人(以下セレ柳)』は時々開いてインスピレーションを頂いているのですが、早速私と競演してくださる小池正博さんの巻を読み直したりしました。またかつて「国家」というテーマで句をまとめたこともあり、当初は様々な「悪」の形を俳句という詩形で追求してみようとの高い志を以て臨んだのでした。
ところが蓋を開けてみて小池さんの力作を読んだ時、「しまった、あっさり作りすぎたな」と後悔しました。読み比べてみれば分るように小池さんの作品はひとつの有機体としてまとまっています。対するに私のは単なる句の寄せ集め。「悪」という題の素晴しさに惚れ惚れしてつい題詠そのままで句会に出しましたという感じ。セレ柳を読んだ時も小池さんの作品はあるまとまりを持ったシリーズの集合体だと感じました(あっそう言えば他の柳人にもその傾向があったような)。俳句の句集はテーマでまとめるという意識に乏しく、「季節の流れが自然にまとまりを作ってくれるさ」といった楽天的なところがあるように思います。いかん、いつの間にか自分の作品のまとまりのなさを俳句一般に責任転嫁して川柳・俳句比較論にすり替えていましたね。
熊野へと悪を捜しに蟻がゆく
まずはこの一句で「やられた」と。好きなんです熊野が、蟻の熊野詣が、悪人達が生き生きと立ち回る中世が。これは私が詠みたい位の内容ではないか?
金曜の悪はきっちり中華風
中国の悪人はスケールが違いますから。殺し方も半端じゃない。何故金曜なのか、謎を投げかけている句には魅力があります。
影踏みを止めない君を噛みにゆく
島津亮という俳人の句に「怒らぬから青野でしめる友の首」というのがあり、それを思い出しました。この「君」は彼女というより同性、或いは両性具有的な妖しいものを感じます。もっと色々書きたいがこの辺で。
まあ今の私の実力としては精一杯やったとも思います。「ちっとも悪らしくない、そこがまた寒蝉さんだね」と好意的な評価をしてくださる方もいますが私としては是非またこのテーマに挑戦してみたい気がします。競演して下さった小池さん、それからこの機会を与えて下さった信治さんはじめ週刊俳句の皆さん、ここにアクセスして読んで下さった皆さん、本当にありがとう。
■小池正博
「悪」というのは魅力的なテーマですね。このテーマから最初に連想したのはオーソン・ウエルズの映画「第三の男」の「ルネサンスの圧制はダ・ヴィンチやミケランジェロを生んだが、スイス五百年の平和が生んだものは…鳩時計だ」という科白です。できれば生きのいい悪を詠んでみたいと思いましたが、結局自分は小市民にすぎないということが分かり、がっかりしました。
以前、他誌で「犯罪学」というテーマで俳句を詠んだことがあります。そのときは、俳人が川柳を、川柳人が俳句をというふうにお互いのジャンルを取替えっこして詠むという企画でした。今回は「悪」の字を全句に詠み込むかどうか少し迷いましたが、テーマが「悪」であればいいかなと拡大解釈しました。
川柳と俳句の違い(いわゆる柳俳異同論)について考えたこともあるのですが、両者を峻別する立場から柳俳一如という立場までさまざまなスタンスがあるようです。俳句・川柳はかくあるべしと決め付けるのも不自由な気がしますので、いまのところ「柳俳交流」という感じで、緩くとらえるのがいいのではないかと思っています。こういう交流の機会を与えていただいて嬉しかったです。
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2007-06-24
「悪」のあと
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