2007-06-24

「金曜の悪」×「絢爛の悪」を読む

「金曜の悪」×「絢爛の悪」を読む ……島田牙城×上田信治


※以下の対話は2007年6月22日、BBS(インターネット掲示板)を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。
小池正博「金曜の悪」・仲寒蝉「絢爛の悪」はこちら↓です。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77_17.html



信治::今回は、「セレクション柳人」という画期的シリーズの編集者であり、 俳人でもある、島田牙城さんをお迎えしております。牙城さん、こんばんは。

牙城::信治さん、どうもこんばんは。この前の天気×信治対談は面白く読みましたよ。ベクトルの話なんて、今日持ち出したいくらいで、「読まなきゃよかった」と思ってます。
まぁ、寒蝉さんのことなら、なんでも喋りますけれど、よりによって、論客・小池正博の時にぼくを指名するとは、人が悪い。
だって、そうでしょ。爽波の弟子の中でもぼくがもっとも爽波を継いでいるということを、信治さんはご存じないと見える。ぼく、理論下手の読書嫌いなんですよ。その事に関しては、100%爽波の弟子なんです。

信治::爽波さんの弟子なら、座談は、お家芸でしょうw

牙城::爽波の座談てね、一方的に自分の論を肯定するために喋るばっかりで、人の言うことを聞かない。ただ、相当集中するようで、座談をした後は体を壊していましたね。

信治::ところで、今回の、仲寒蝉さんと、小池正博さんの7×7、どういうふうに、読まれましたか。

牙城::いや、すみません。ご質問に答えなきゃね。たとえば、作者名を伏せて〈金曜の悪はきっちり中華風〉の後に、〈五月雨の中に悪所といふところ〉を読んだって、さして違和感はないとおもうのですが、どうですかね。

信治::たしかにその二句は、入れ替え可能だと思います。でも〈影踏みを止めない君を噛みにゆく〉は、ぜったい寒蝉さんやらないですよね。もともと無季ですけど、仮に「影踏み」が春の季語だとしても、「噛みにゆく」という展開はない。

牙城::はい〈噛みにゆく〉は、俳句ではやらないでしょうが、ぼくは、×ではなく+だなとおもいながら、この7×7という競詠を読みたい気がしているのです。由紀子×朝比古にしてもね。すなわち、同じ水を飲んでいるのに、彼岸と此岸で味が違うとは思いたくない。

信治::同じ土俵で、読んだ方が、生産的ということですか?

牙城::「生産」という単語はともかく、俳句も川柳も同じ俳諧の子だということでしょう。異母兄弟でも、異父兄弟でもなく、おなじ父母の子なのですよ。そういう兄弟愛が、ほしいなとつねづね思っています。

信治::なるほど。いや、じつは、自分なりに小池さんの7句を読んで、おもしろいなあと思ってるんですけど、ちゃんと読めているのかどうか、自信がないところもあって。
〈厨房でいためる匂い歎異抄〉〈金曜の悪はきっちり中華風〉の二句は、セットになっていますよね。金曜の夜に、中華料理店に集う悪庶民みたいな人たちがいる景が浮かぶんだけど(歎異抄だから悪人正機の連想が働いて)、この〈きっちり〉って、牙城さん、どう読まれます?

牙城::自信がないって、信治さんは、(よくある例で悪いけれど)ピカソの絵を、評価する批評家の目で読めなければならないとうろうろするタイプなんですか。貴方の目に飛び込んできた俳句だか川柳だかしらないけれど575の日本語をどう感じるかしかないじゃないですか。
まず初めに、俳句への向かい方、川柳への向かい方、に、差を付けないというスタンスを持たなければ、なかなか話は進まないような気がします。

信治::では、話を進めましょう。ジャンルに差をつけているか、いないかというのは、自分では、よく分からないんですよ。
あらためて、牙城さんは、小池さんの7句どう読まれました? ぼくは「熊野」から、ずーっと7句を通じて、イメージとかメタファーの連鎖があるのかな、と思ったのですが。

牙城::一般的な俳句観川柳観から離れてこの7×7を読んだとき、小池さんて、信治さんが「連鎖」と言われましたがすごく意志的ですよね。戦略的と言ってもいいかな。寒蝉さんは一句一句ばらばら。

信治::そうそう。小池さんの7句、〈熊野〉に〈蟻〉(の熊野詣で)で、次に、〈内乱〉で、南北朝から、二・二六へ行って〈処刑場〉。そこから、現代人としての作者にとっての「悪」のモチーフが展開されて。〈悪そうな雲の尻尾をひっぱって〉「悪」とは、手の届く力の夢、みたいな?〈厨房で〉で、庶民群像。でもって、〈金曜の悪はきっちり中華風〉が、やっぱり、面白いんだなあ。この一句は、屹立してるかんじがします。そうか、最後の句〈噛みにゆく〉のは〈蟻〉なのかな。

牙城::あっ、二・二六には気付かなかった。モチーフ詠をしっかりとやっているから、深読みを誘うんだろうね。そして七句の特徴として、作者と主人公とが切れていそうで結局切れていないということが上げられる気がします。いや、小池さんには切る気がないのかもしれませんがね。「蟻」には小池さんが投影されているし、「嫌な」と思っているのも小池さん以外ではありえない。
以前、川柳も俳句も短歌も、作者と主人公がべったりだった歴史がありますよね。川柳がいつからこうなってきたのかは知りませんが、やはり時実新子さんの影響は大きいんじゃないかなぁ。川柳に作品と作者を繋ぐ「意志」が刻み込まれるようになった。

信治::「作者と主人公とが結局切れていない」ということですが、そこが離れることって、だいじなんですか?

牙城::ぼくなんか、俳句の中で他者を遊ばせるけどね。〈悪びれもせず鰻重を二人前〉にしても、食ったのは寒蝉さんじゃないもの。

信治::最近の牙城さんの句が、分かりにくい理由が分かりました。『袖珍抄』のころは、すごく私性が強くて、分かりやすすぎるほどだったのにw
えーと、「社会戯評」みたいなものを拒否するエネルギーとして、川柳に「私性」を持ち込んだ作家がいたことって、よくわかるんですけど。その次のステップがあるということですか?

牙城::川柳は、誤解されてるじゃないですか。いや、誤解じゃなくって、それが表に出ているのだけれど、どうしても、サラリーマン川柳だとか、新聞投稿による時事川柳だとかに、イメージが行きがちですよね。そうじゃない575を模索する人たちがいるということでしょう。模索の途中なので、ステップというか行きつく先はまだまだ見えていないのでしょうが、個々には手応えを掴んでいる作家はかなりおられる。

信治::ぼくは現代川柳といえば、それこそ、小池さんや、樋口さんの、詩性の強い作風を連想します。俳句で、サラリーマン川柳に対応するのは「お~いお茶」とかで。
いや、ま、世間の誤解はいいんですけど、牙城さんは「作者=主人公」というのは、暗黙の了解にはされないんですね。

牙城::世間の誤解ならいいけれど、俳人も誤解しているからね。
で、作者と主人公の話だけれど、ぼくは俳句の鑑賞を書く時にいつも「作者」ではなく「主人公」と、これは相当意志的に使っています。だってぼく、個人的には(この対談、妻も読むもんで)「悪所」へは行きませんが、俳句の中で「悪所」に行こうが、「熊野」へ行こうが、それは勝手じゃないですか。

信治::対照的ですよね。小池さんの句、等身大の存在は、消し去られていますけど「私性」を強くかんじます。意味伝達の不完全さというか、意味の消し方に、その人しかやらない書き方がされている。署名があるというかんじです。
逆に、寒蝉さんの句は、いかにも本人の肉声ふうなんだけど、じつは無名性をもってるというか、詠み人知らずの風情がありますね。

牙城::おっと一気に本質論?  確かに、〈雲の尻尾をひっぱって〉いるのは、まぎれもなく小池さんですね。しかし、〈金魚とふたりきり〉なのは共感できた読者なんだよね。その「共感」の一瞬に寒蝉さんは消え去ってもいいわけです。
そのへんに、前回の天気×信治対談で出てきた「ベクトル」という問題が絡んでくる。

信治::>その「共感」の一瞬に寒蝉さんは消え去ってもいいわけです。あー、おもしろいです。川柳の獲得した「私」は、読者を「あなた」にする。その緊張感が、こういう文体を作るんだな、きっと。
俳句は、そのへん「わしら」に解消しちゃうのかなあ。今回の寒蝉さん、なんか、のんきでしたよねえ。ぜんぜん「悪く」ない。

牙城::だって、小池さんは、ええっとー、1954年生まれ、えー、本当に? 今略歴見て確認しました。70年安保に間に合わなかった人なんだね。いや、団塊だと思っていたもので……(気持ちを取り戻して言うけれど)でも一二年間に合わなかっただけで、善悪という正否を二分する基準を持っておられる世代なんですよ。
寒蝉さんは三無主義世代ですから、善悪を二分しない。

信治::寒蝉さんは、世代のせいかは分かりませんが、いかにも題詠っぽいw 
「悪」という言葉を、季題と寝かせてみたり、横に置いてみたりして、景色を作って遊んでるかんじです。
あ、そうだ、俳句で、作者の一人称を強く意識して、読んだり書いたりするようになったのって、人間探求派の流れですか? 短詩が、遊戯性を捨象して、文学性にキャッチアップしようとするとき、私性が強調されるというイメージがありまして。それって、俳句の場合、題詠的なものの否定だったのかな、と、ふと思ったのですが。

牙城::一人称には一茶以来の伝統もあると思いますよ。
ただ、写生→自然主義という、明治から大正のブンガクの大道は、関係あるでしょうね。「題詠的なものの否定」というのは正にその通りで、子規の時代は、俳句は題詠、フィクションですからね。

信治::あ、一茶。なるほど。なんか、小池さんの句を読む手がかりを、もらった気がします。すこし、句に触れていただいて、そろそろお開きかな、と思うのですが、牙城さん、それぞれの7句から、選ばれるとしたら、どの句ですか。
ぼくは、小池さんの〈金曜の悪はきっちり中華風〉寒蝉さんの〈悪びれもせず鰻重を二人前〉をいただきます。べつに一句ずつじゃなくてもいいんですけど。

牙城::え、もうお開きなの? 川柳の三要素って、知ってる? 俳句の三要素は、季語・定型・切字だよね。

信治::じゃ、もっとやりましょう。ちょっとビール持ってきますw
三要素、知らないです。なんだろ、

牙城::そこに大きな川柳vs俳句の要因がある。

信治::うーん。定型・批評・了解性? ちがうな。

牙城::あっはっは。うがち・かろみ・こっけいです。俳句の三要素と比べてみると、作者の作る姿勢が見えてきませんか。俳人は型を決めてもらっているのです。それに比べて……
ただし、今の川柳作家は、この三要素から距離を置こうという位置にいる人が多いようですが、だからこそ強く意識はされている。

信治::ははあ。つまり、川柳は型ではなく、内容、ということですか。俳句の場合、内容と型は、よくて50:50くらいかもしれないですね。

牙城::そう、俳句は要素として型を決められている。それに比べて、川柳は詠む内容を決められているのです。今、この、川柳に求められてきた「内容」から脱却しようではないか、川柳をもっと自由に、という動きがあるのだと思っています。
それが最近の「詩性川柳」の大きな流れなのだと思いますし、小池さんの七句の、大局から見た流れなのだと思います。小池さんの句、うがちは読む人によって感じ方が違うかもしれませんが、かろみもこっけいも薄いですもんね。

信治::いや、小池さんの句も、一茶と思って読むと〈内乱の蹄がうたう嫌な唄〉〈処刑場みんなにこにこしているね〉この二句には、苦笑いのようなものを、感じます。「人間、みんな悪くって、しかたねーなー」みたいなw
重い内容ですけど、どっか「言い流す」軽さみたいなものが、生じてくるんじゃないでしょうか。だって、だいじなことを五七五で言うのって、それだけで、ちょっと「こっけい」なことですよね。

牙城::はい、〈処刑場みんなにこにこしているね〉が、ぼくは今回の小池さんの句でいちばん好きです。すうっと、読者側が持っている「滑稽」にふれてくれる。

信治::>すうっと、読者側が持っている「滑稽」にふれてくれる。門外漢として言うのですけれど、現代川柳にとっての共感性って、おもしろいテーマかもしれませんね。俳句は、共感性は、前提としてあるから(そのわりに、みんな分かんない、分かんない、言い過ぎだけど)。
いま、ちょうど、寒蝉さんからメールをいただいて、
>やっぱり俳句って(私がか?)糞真面目なんだなあと思いました。もっと遊ばなければ。
だそうです(寒蝉さんには、あとで、掲載許可いただきます)。でも、寒蝉さんご本人は、まじめだけど、句は、別にまじめじゃないですよね。川柳のほうが、基本、まじめに見えるのは、逆説的ですね。

牙城::川柳のほうが、ずいぶん真面目です。川柳は前衛を経験していないんだよね。それが大きく影響している。たとえば、目の前の高柳重信が編んだ『昭和俳句選集』をぱっと開くと、
  現在を葡萄が青く垂れさがる
なんていう句に簡単に出会えるわけです。現代川柳は今、この真面目な芸術性みたいなところに、おられるのかなと感じています。そこから、現代のうがち・現代のかろみ・現代のこっけいへの道筋作りを、これまた真面目に考えておられる。

信治::前衛を経験していないと、真面目、という把握おもしろいです。いや、なんかね「現俳協若手」と、ひっくるめて言ったら失礼ですけど、たとえば田島健一さんや、小野裕三さんの句が、まじめくさってないこと、私性を感じないことって、おもしろいことだと思うんですよ。
あ、ちょっと、柳×俳から、それました。寒蝉さんの7句いかがでした?

牙城::寒蝉さんの七句、これは余り新味が出なかったなと思っています。言ってしまうと、彼の悪い部分が出たということです。この程度の句なら、彼はいつでも作るでしょう。一句褒めたい句もありますが……

信治::悪い部分と言いますと。さしつかえなければ。

牙城::彼のキャッチコピーを作るとき、僕はいつも「ヒューマン」な部分を謳いますが、そこを脱却しなくては、一皮剥けた俳人にはなれんでしょう。

信治::ははあ。いい人すぎますよね、寒蝉さんは。いや、寒蝉さんは、まず現代人としての私があって、俳句があるという作者で、今回も、いわゆる俳句的感受性に収まらないところを、見せていただいたように思います。〈絢爛の悪をちりばめ青蜥蜴〉とか、どうですか。けっこう好きなんですけど。

牙城::だって、予定調和じゃない。

信治::たしかに「蜥蜴」ときたらね。うーん。じゃ、牙城さん、一句とるなら、どれですか。

牙城::寒蝉さんでは、〈悪育つことの〉でしょう。切れの問題です。

信治::〈悪育つことのたやすき梅雨茸〉。「育つ」と「梅雨茸」を、近すぎに感じてしまうのって、俳句っぽすぎる読みでしょうか。

牙城:: 「育つ」と「梅雨茸」は離して読むけどなぁ。間に切れもあるんだし。
ぼくは「たやすき」の「き」の後に来る静かな一秒が好きなんですよ。

信治::ああ、それは、たしかに美しいかもしれません。ちょっとジーンときました。
あ、でも、それ完全に、俳句固有の読みですからね。白紙じゃ、読めません。その読みは、洗練されつくしてます。

牙城::そうなんだろうか。日本語が自然に要請している読みだと僕は思います。川柳を読むときにもこの「間」は大切にしたいと思っています。
ということで、今日は有難う。川柳人から文句がくれば、ぼくに回して下さい。

信治::いえ、そんな。ありがとうございました。



1 コメント:

民也 さんのコメント...

とにかくですね、文学というのは、大きく分けて、フィクション文学とノンフィクション文学に分かれますよね。
俳句は、川柳は、フィクション文学なのか、ノンフィクション文学なのか。まずはその大元の認識から、はっきりさせませんか?

僕は、俳句はノンフィクション文学で、川柳はフィクション文学だと思っているので、俳句と川柳はまったく別ジャンルの文学だと言い切れますが、他の方はその辺りをどう捉えているのか、はっきりお聞きしたいものです。

言っておきますが、俳句はこう、川柳はこう、と決め付けることもない、と言った意見は、僕に言わせれば両者の違いを本当は把握していない人の言い訳、逃げ口上としか聞こえません。わからないなら、わからないと正直に言わないと、本当のことはいつまでもわからないままに終わってしまいますよ。

ちなみに、僕が俳句がノンフィクション文学だとする根拠のひとつは、俳句は文学上のルールとして、「季語」という現実に存在する「モノ」を、生かしながら句の中に詠み込むことを定めているからです。
「季語」が入っていても、その「季語」が生かされていない句は、ノンフィクションとしての価値が死んでいるから、俳句とは言い難い。このような句は、(フィクション文学の)川柳と言ったほうがよいでしょう。

作品ごとに、その内容は事実が主述なのか(俳句)、それとも作者の心情が主述なのか(川柳、短歌、詩)、ということを読みとれば、その作品が俳句と川柳のどちらに属する文学なのかは、はっきりと分けられることです。

なお、俳句はフィクション文学だ、という俳人がいたとしたら、その方はきっと「季語」が死んでいる句しか作れないだろう、と予測がつきますね。そういう方は、正直に「川柳作家」を名乗るべきだと思います。