2007-07-08

100句選を終えて 上田信治

100句選を終えて ……上田信治



デタラメを、自分の生きる場所にする人は、なにも人外魔境に住むわけではなく、デタラメと「ふつう」の汽水域にいます。きわきわの場所に立って、デタラメの側から「ふつう」を誘惑するのです。

二健さんは、デタラメの水を、回文という柄杓を使って汲みます。まったく、失礼なほどの合理主義と言えるでしょう。「むずり蟻」や「夜茸魔」を呼んだのは、回文という装置であって、本人ではない。二健さんは、むこうで、売り上げを数えているだけです。

回文俳句を選ぶということは、通常の美人コンテストと違い、自分も、その汽水域におもむき、きわきわの美を呼吸するということでした。はたしてその付託にこたえられたのかどうか、心許ないのですが、数日を費やして、だいぶ自分もストレンジフィッシュな気分を味わいました。砂底から、左右の眼をべつべつに動かしつつ、読者のみなさまの、ご機嫌をうかがう次第。

今回の100句は、2003年-2007年の、『豈』37-44号ならびに『里』1-51号掲載の作品よりの抄出です。作者本人の筆になる長文のプロフィルによれば、回文開眼は1994年とのことなので、この選は、氷山の一角というか、大蛇のうしろ半分のようなものですが、二健回文俳句の魅力の一端は、お伝えできたと思います。ともかく「飛び乗り与太郎」が出てくる俳句は、この世に、ここにしかないのですから。

あ、そうだ、二健さんは朗読を良くする人でもあるので、そのボイスを想像しながら読んでいただいても、おもむきが深いと思います。キリストかビンラディンを思わせる美丈夫が、パセティックに、うめくとも叫ぶともなく言うわけです。

  枯れ果てて晴か

方法によって選ばれ歪められた片言が、カタコトゆえに、どうしようもなく本人の声となり、また、縁もゆかりもない読者のアタマに住み着くというふしぎが、ここにもあります。

どうか、お楽しみください。

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