2007-07-29

夏ふよう 中上健次の問い 五十嵐秀彦

夏ふよう 中上健次の問い ……五十嵐秀彦


先日のニュースで、中上健次の直筆俳句色紙が茨木和生から新宮市の市立図書館内中上健次資料収集室に寄贈されたことを知った人は多いだろう。

その色紙に書かれた句は

 あきゆきが聴く幻の声夏ふよう   健次

である。

この句については以前から知られている作品であり、特別な発見ではない。だから考えてみればなにも重要性のないニュースのようではあったが、しかし健次と俳句との関係をあらためて考えさせてくれる話ではあった。

健次はかつて熊野大学で、俳人を呼び句会をしていた。硬派の私小説作家である中上健次がなぜ俳句なのかという疑問を一般には持たれていたのではないだろうか。しかし彼はかなり早い時期から俳句に興味を持っていた。

私は、中上健次という作家について、これまで少しずつあちこちに書いてきた。彼の発言がどうも気になってしかたがなかったからだ。そうはいっても没後16年経った今、彼がすでに過去の人になっているのは、書店などでの著書の扱いの様子を見てもわかる。

しかし過去の人だからといっても、彼には何かまだ片付いていないものを今なお感じている。たとえば、寺山修司にしてもそうだし、中上健次にしても、彼らの発した問いかけに私たちが今もって回答をしないからなのではないだろうか。

俳人の多くはこの二人を敬遠するか無視するかしてきた。いや、寺山の話はまた次の機会とし、今回は健次についてだ。健次と俳句との関係といえば、初期の文芸エッセイの「小説の新しさとは何か」(『鳥のように獣のように』)と「鳥獣に類ス」(『夢の力』)の2篇が長く私の心にひっかかってきた。

どちらも1970年代に書かれたもので、森澄夫、角川春樹との交友が始まる数年前にすでに書かれていたものである。長くなるが「小説の新しさとは何か」から重要な箇所を引用したい。

《直観だが、今、鮮明に、短篇小説が他の小説と違う貌を持って現出しはじめたと思う。能、謡曲が、室町期に、土俗芸能から一つの芸能、文学として自立したように、である。俳句が俳句として自立したように、である。何故だか、わからない。現代の作家の一人一人の、短篇をテキストに述べてもよい。能、俳句、短篇、という血脈が、ぼくには見えるのである。短篇とは、西欧の、コントでもレシでも、ノベルでもない。》
《短篇とは、私小説である。私小説は、コードの破けたコードと思える。私小説は、コードを考え続けているぼくには、新しい小説のスタイルに見える。そして、私小説=短篇は、死、死穢を一等低い音として、鳴らしているのに気づくのである。いや死穢の音が、中篇や長編よりも強く鳴る。そして短篇とは、花鳥風月の側のものでもある。現代の作家や批評家に、ことごとく無視され、愚弄されたものによって、新しく現われた貌の正体はある、と思える。何人の作家が、花鳥風月の、そのなまぐささを知っているだろうか?》

《短篇が、死穢を踏まえてあると言うなら、俳句もそうである。季語、それがつまり花鳥風月であるなら、それも、死穢の形を代えたあらわれではないか? 季語=死語によって、死の音が鳴る。そして俳句を読むたびに、五七五の音が定形なのでなく、季語=死語が、型を決定していると思えるのである。それは短篇もそうだ。死穢の姿によって型がきまる。》

中上らしい直感的な文章で、理解しにくい部分もあるが、言いたいことは十分伝わってくるだろう。私小説=短編は俳句に似ており、能、俳句、短編の血脈というものがある。ともに花鳥風月に属するものなのだ、ということ。そして花鳥風月とはなまぐさく、また死の音でもあるということ。

そして、もうひとつのエッセイ「鳥獣に類ス」がある。この題名は芭蕉の『笈の小文』の中の《像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス》によっている。この中で中上は芭蕉の自然観を「自然=文化」ととらえ、それに対して自分自身は《壊れた造化としての自然、壊れ破砕された私である》ゆえに《芭蕉の言うとおりこの身すべてが、夷狄であり、鳥獣におちる》と考えた。《私が眼にしたのは花の吉野ではなく、セイタカアワダチソウが群生した秋の吉野である》とも言う。

彼は、芭蕉の「夷狄・鳥獣」という言葉にするどく反応しているのだ。まず自分は鳥獣だという前提があり、そこから芭蕉の自然観をとらえ、その裏側に自分の自然観を構築してみせたのだろう。中上は奇妙なほどに、あたかも芭蕉が同時代の文学者ででもあるかのように厳しく反論をぶつけている。私はこの「鳥獣に類ス」を読むことで芭蕉の心底を覗き込む思いがした。

専門俳人の書く俳論が往々にして人畜無害であるこのごろゆえに、中上が遺した言葉にあらためて耳を傾けてみる価値がある。

このどちらの作品にも、花鳥風月とは何かという強い問いがある。そしてこの問いが、その後の中上文学の底にあり続けたのだろう。晩年の俳人・俳句との出会いや、熊野大学なども、この問いから始まったのではないか、とも思う。

実は、私はこのふたつのエッセイから俳句を見直すことになった。私にとって、それほど根本的な問いであった。また、俳人がこれまで発することのなかった問いでもあった。日本人の心の中にひそむ思念としての定型。死としての花鳥風月。そして、無名のワタクシというもの。

室町期の俳諧登場をはるかに遡る「うた」の源流を考えてみたくなったのである。それを考えなければ、なぜ俳句なのか、なぜ花鳥風月なのか、という問いに答えられない。中上の問いに答えられない。

私は、中上健次の俳句色紙が出てきたからといって、彼を俳人として検証しようとか評価しようとか思っているわけではない。この「あきゆき」の句にしても、他の句にしても、中上が作ったということから受ける感慨以上のものは感じられない。

私は今回のニュースで、再び中上の若き日のエッセイ2篇を思い出し、自分が答えたいと思っている問いをあらためて自分の眼前に置いてみたくなったのである。

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