黒桃先生特殊講義 「水泡と縄」の巻
2005年4月某日。
(黒桃一雄先生教室に入ってくる。学生は新入生、有馬広志と星野まゆみの二人のみ)
黒桃一雄::さあ、この前言ったようにね、今回は俳句を読んでもらおうと思ってるんだけどね。二人とも、今日の体調はどうかな。読むことは、体調によって決まるからね。
有馬広志::オレちょっとねむいんです。昨日の夜、バイト、急に呼び出しかかったから。でも先生、今日はけっこう理屈ぬきで楽しめるんですよね、その俳句。先生自身が面白くて眠るのが惜しくなっちゃったんですよね。だからオレ目も頭もこれからだんだん冴えてくる予定なんですけど、一応(笑)。
黒桃::うんうん、そうだよ、そう願いたいね(笑)。でもちょっとこの前宣伝しすぎたかな。まゆみさんはどうですか、今日、元気?
星野まゆみ::はい、わたしはねむくはないんですけど、でも俳句のこと何も知らないから、わかるかなあって…
黒桃::大丈夫、大丈夫。ていうかこの授業はね、フタをあけてみたら履修者はきみたち二人だけ、ま、さいきんの土曜の三限がこれほど静かだったとはね。で、わたしの方針ではね、こういう時はですね、もうお互いふつうにおしゃべりしてればいいんです、ずっとね。どういうふうになってもいい(笑)。でもきみたちは二人ともなかなか優秀だからなあ、この授業のテーマ〈読む〉とはどういうことか、気がついたらもういろいろ感じとっていた、ということに今日もなると思うよ、きっと。
(と言いながら黒桃先生は黒板にチョーク、ではなくて、ホワイトボードにマジックインキであるが、大きく次のように書く)
男子は死んだ
(一同黙って一瞬見ている)
黒桃::いきなりおかしなもの書いちゃったけれどね(笑)。まあ、今日はこのあたりからはじめようか、と思ってね。これ短い言葉だから、読め、と言われたら何かいろいろ読めてしまいませんか?どう?有馬君。
広志::えっ、そうですね、やっぱ、その「死んだ」っていうのは、まあ刺激的なコトバだから、どうしたのかって、思いますよね、えっなんでまた男子は死んだんだ、って。でも前授業でやった、コミュニケーションの〈として構造〉だったかな、何なにとしてこれこれは発語発信される、っていう、そこのところに了解がないわけで…だからいきなりは読みにくいですよね。
黒桃::そう。でも、授業でやった言葉を使うけど統語論的にも意味論的にもおかしいわけじゃないよ、語用論的にはね、たしかにかなり不確定というべきかな。ほんとうは、これ、本日の授業の導入上なんらかの機能を果たす文言としての、というくらいの点では、いやそれ以上の何かとしてきみたちにも了解されているわけだけれどね。ま、カタイ話は置いといて、とにかく実際何を読んじゃったか、そういう話をしましょうよ。だって新聞みても、漫画みても、電車に乗っても、街を歩いても、シアターのなかでも、いきなりこんなヘンな文句が目に飛び込んでくるなんて、日常茶飯事といえばそうでしょう。具体的にどう?それに迷わせるほど長くない。
(一同無言で少しのあいだ見る)
広志::うーんオレ学校の火事かなんかでですね、その男子は女子のためにギセイになって死んだかな、なんてかるく想像しちゃいました。なんでかなぁ。心理テストみたいになっちゃったかな(笑)。オレ、ヒロ志のヒロイズムって言われたことがあるんですけど(笑)。
黒桃::ハハハ、なるほど。おかしいね。でもね、有馬君、「男子」と言われれば、その裏側にはやっぱり「女子」って言葉が組みになって控えているし、「死んだ」の反対は「生きた」でしょ。だから「男子は死んだ」の裏には「女子は生きた」が歴然としてさりげなく劇的に(笑)伏せられている。ということは、きみの想像も単に論理的な対応であり合理的な発想であるかもしれないよ。「火事」のほうだって思わぬ必然性がどこかにかくれているかもしれない。ま、ここは深追いしませんが。では、星野さんのほうはどうかな、どんなことを、読みましたか?
まゆみ::わたしは、はじめ何も思いつけませんでしたけど、いま聞いてて思ったことなんですけど、あの、それは、その「男子」というのは、学校の「男子」だけじゃないんじゃないかって。「男子は死んだ」というのは、いま日本でそういう人の姿をあまり見られなくなった、そういう人っていうのは、そのう、「殿方」って言ったら、それって全く違いますよね、なんて言えばいいんだろうな、その、ま、男らしい男の人っていうか、そういう人が激減しましたって、そんな意味のこと思いました。
黒桃::うんなるほど。そういうふうにももちろん読めるよね。骨のあるというか気概のある男性の姿は見られなくなった。わが国から次々に歳をとって亡くなっていった。明治生まれはもちろん、大正生まれの男子も社会の表舞台からどんどん退場していってしまった。そしてメンタルな意味でいえばもう若い人のなかにはこれぞ男子、というのはぜんぜん見つからないぞ、とかね。ま、体育系という確保はあるけど別かもね。つまりは「男子は死んだ」。ポスターにコピーとして大きく粛然として打ちだせるかもしれない。でもそれはどんな広告でどんなビジュアルだろうって、精しく想像するの案外むつかしそうにも思うけどね。
さて、いまの二人の解釈ですが、ま、いろいろなヴァリエーションでさらに細かく意味の上で差異をつけていくことができるはずなんだけどね、でもそういうのとは違うね、なんか、全くほかの見方って、ないかな?
広志::ほかの見方ですか。どういう感じのことですか。
黒桃::つまりね、表立った意味によってではなくてね、というか、もう意味のことはだいたい忘れちゃうことにしてね(笑)、そういう感じで読むことにちょっとトライしてみて、ということなんだけどね。
まゆみ::え、意味を考えないで読むなんて、先生、そんなことできるんですか?
広志::あ、わかった!わかりましたよ。あの、やおや、しんぶんし、とか、たけやぶやけた、とか、そういうなつかしい感じさっきからしてたんですよね。これ、ちがうかな。
黒桃::それ、ちがわないよ(笑)。
まゆみ::ああ、回文っていうことですね。だんしがしんだ。だんし、が、しんだ。たしかにね。
黒桃::いま有馬君が懐かしいって言ったよね、わたしなんかも、子どもの頃、こういうのあったよ、〈正直村の村長さんがソーダ飲んで死んだそーだ、葬式まんじゅうでっかいそーだ。〉なんてね。もちろんこれは回文ではありませんがね。でも小学校低学年の男子たちは、しんだ、ってところ元気よく囃すように発声したものだったね。無邪気にね。わたしもそこはかとなく、懐かしいな。とそれはそうとして、下から読んでもおんなじっていう言葉遊びだという設定が入ると、とたんに意味の現実性というかリアリティーが大きく変容しますよね。パッと唄の一部になってしまった、というかね。でも意味性は消えてなくなるわけではないけれどね。このへんの機微はちょっと覚えておいてほしいとこだね。
俳句を読む前にみじかいフレーズの読み方の面白さ、むつかしさについてウオーミングアップしておきたくてね、ま、前置きみたいな話、もう少しいいかな。こんどはじゃ、これではどう?少しスライドするよ。(と先生はまた書く)
談志は死んだ
黒桃::落語家の立川談志さんにはとんでもない失礼な一行です。でもね、こっちのこの前の一行(男子は死んだ)は、立川談志さんの耳にはどうしてもここに今書いたこういうものの意味や響きがね、心のなかで加わるんじゃないかな。ま、そう言ったところでどうだ、というほどのことでもないけれどね(笑)。
わたし、高校生の時ね、クラスの木村っていう女生徒が気になったことがあるんだけど、担任がね、「きみたちは」と言う場面で、いつも「きみらあ」と高らかに言うのね、この声がね、わたしには当時落ち着かなくてね、なんかいやだったのね耳にするのが、構えちゃうからさ、どっか。そういうことってあるでしょう、個人的にひっかかるっていう(笑)。もっともその後ご本人の耳にはどうだったかその女生徒に聞いたらね、えっ何も感じなかった、だって(笑)。
あ、ところできみたちは、立川談志は、知っていますか?
まゆみ::わたし、小学校のとき参観日で理科でカイコの授業のとき名前のことで個人的に少し楽しくない思い出があるんですけど、それはそれとしまして(笑)、先生、わたし立川談志さんのことたぶん知ってますよ。テレビで見たことがあります。一度だけですけど、すごく印象的だったから覚えてるんです。若手の芸人さんの人たちへ向けて、笑いについてのコメンテーターみたいな立場で話してたんですけど、その雰囲気っていうか、話し方も着てるものとかも、襟巻きだったかバンダナだったかな、していて、個性的な感じで。談志さんはあの人だと思うんですけど…
広志::あ、オレあまりテレビ見ないけどひょっとして知ってるかな、その人の奥さんの父親もおじいさんも有名な落語家で、いつも襟巻きしてて…て人じゃない?あれはいいとか、これはだめだなとか、低い声でよく言ってそうな人。
まゆみ::身内も落語家かどうかはわからないけど、わたし、そのときの話でとてもよく覚えていることがあるんです。聞いて1時間くらいしてまた思って、あ、なんだそうか、って思った話なんですけど(笑)。
黒桃::ふーん、きみたちの世代では談志師匠もそんな感じなんだね。有馬君の思ってる人はアキラさんって人じゃないかな、イチローを命名した野球の監督の仰木アキラさんと同じ彬って字のね。星野さんの方だけど、その印象的な話ってどんな話なの?
まゆみ::ええ、あのう、こういうんです。若い芸人の人の才能というか将来有望かどうかって話なんですけど、可能性があるってことはまだこれから時間があるってことじゃないよ、と言うんです、何回も。わたしぼんやり聞いてて、この「可能性」って今はまだ成功っていうかブレークしてないけど、時間がたってそうなりうる、のその「うる」のことだから、時間が存在しないとそもそも「可能性がある」って話さえ成り立たないんじゃないかなあ、なんて頭のなかでなぜだか談志さんの話し方きいてると反論なんかしてて、で後のこと聞き流してて番組が終ってふと思ったら、談志さんは、才能なくて初めから望みのない人はやっても全く無駄だし、周囲もあやふやにやらせておくのもよくないぞっていうか、そういう親切だけど皮肉なコメントをしたかっただけじゃないかって、遅れてわたし、追いついた気がしたんです。なーんだって。
広志::へーなるほどねえ。おもしろいな。でもオレならすぐきついこという人だなって思って、で、星野さんが最初に考えたことは、いくら遅れても考えつかないかもな。オレいまは星野さんの考えた方も理解できたと思うけどね、聞いてて。
黒桃::星野さん、なかなかいいミニレポートだったよ。覚えておこう。いつかこの授業のなかでそういう哲学的関連が出てくるときがありそうだね。今の話聞いてね、わたしはその談志さんは立川談志ご本人だろうと思ったな。皮肉でね、クールなのか騒々しいのか少しわかりにくくって、というか非凡なのか凡庸なのかわからない非凡さ、(か凡庸さ)があって、ま、その両方かな(笑)、で、そのすべてが隠してるものがあるとすれば、それは人生や芸に対するきまじめさ、ガチガチのまじめさではもちろんないけどね、そういうものではないか、というのがわたしの立川談志像なんですが、今のレポートから伝わってくるテイストはわたしの像に合致したからね、「何回も言った」というところもね(笑)。
わたしも、個人的な談志エピソードを思い出しました。こういうの。ちょっとおもしろいよ。一度新宿の紀伊国屋書店のレジで立川談志さんのすぐうしろに立ったことがあったんですよ。たまたまね。でね、レジの店員さんにあの声としゃべり方がね、こんなこと訊ねているんです。英英辞典をそのまま日本語に訳した本ありませんか、みたいなね。店員さん意味がわからなくて困ったみたいだったけどね。でも、いったいどんな本になると思う、そういう本って。ABC順そのままで日本語なんだから、訳した本はもう辞書として引いて使ったりはできない本です、役には立たないよね。ある種の好奇心はちょっとだけ刺激されるけど、しかしそれはたんに、もとの言語では初めの一文字が同じというだけの脈絡はあっても、内容的には脈絡ない単語がそりゃ並ぶことになるよなあ、という印象で満たされてしまう、その程度の好奇心にすぎないかもしれないよね。しかしこういうことも考えられないだろうか。そういう一見無意味な本の存在は、それでも、言語は違っても、同じ文字で始まっても内容は脈絡のない単語が並ぶものだなってことを実証・例証できているんではないだろうか、と。例証するには二冊はいらないかもしれないけど、一冊は実在してもいいんではないか。いや、三冊はいらないけど二冊はかも、ひょっとするとね。
広志::なぜ二冊なのかって、それわかりませんけど、でもオレいま、Aの項だけでもいいんじゃないかって思ってしまいましたけど(笑)。浅いかな理解力が。
黒桃::いやいや、ごもっとも(笑)。ま、そのとおりかもしれないな。とにかく談志氏はなかなか知的な方だ、という話でした。で、そういう談志さんを念頭に置いてね、次のパネル、じゃなかったボードでもないか、えーと、ま、見てください。またズラシます。(先生立って書き加える)
死んだら談志
黒桃::これね、本のタイトルなんです。ほんとにこういう本があるんですよ。井口吾郎さんという方が著者でね。どんな本だと思う?
広志::作家論ていうか。あ、ちがうかな。伝記とか評伝っていうんですか。その井口さんが、立川談志についていろいろ掘り下げて研究したり一般に紹介した本。なんか深そーな感じが出てる。はずれですか。
黒桃::いやいや。なるほど。それも行けそうだね。でもちょっとそうではないんだ。
広志::とにかく談志は死んだ、に比べると、意味がぜんぜん違いますよね。考えさせますよ。変わるもんだなあ。
黒桃::うん、どういうふうに、意味、考えますか?
広志::えーと、深い感じするんだけど、どういえばいいかなぁ。談志さんは生きているんだけど、精神的な境地では死んでいる。いやあの、悪いような意味ではなくて、この場合、「死んでいる」は武士道的にっていうか、死ぬことと見つけたり!みたいな、こう、極意マスター的境地を意味してまして、だから落語家の立川談志は実は一種の悟りを開いた人だ、みたいになるかな。で、われわれも彼の声に耳を傾けてはどうか、うまく「死んだ」ら談志さんみたいになれるぞ、的な呼びかけを投げかけてる内容で…とか。
黒桃::うんうん。そうだね、わかるよ。でもわたしは有馬君、さっきのね、〈談志は死んだ〉でも、いまきみが言ったような意味が案外読み込めると思うね。どう?
広志::えっ?それはどうでしょうかね。やってみますが。「談志は死んだ、…。談志は死んだ、見事にそういう境地に至った。」なるほど。うーん半分くらいは読めましたねえ。そういう意味として読めてしまった。でもなんか読もうとすればなんとでも読めちゃうような感じもしますね。待ってください、死んだら談志。死んだら談志。うわあ、やっぱり違うなあ。すっきり読めますよ、死んだら談志、だと。「死ぬ」ことで「談志」になれる。さあ、あなたも「談志」というレベルへどうぞ、みたいなとこ。
黒桃::うん、なるほど。じゃどういう違いだろうね。その二つ、根本的には。後半の誘うってとこは別にしてさ。
広志::談志さんは生きているわけですよね、現実に。だから、談志は死んだ、はあまりにダイレクトで、やっぱり失礼ですよ、やばい(笑)ですよ。喧嘩売ってんのか、って話になっちゃう。
黒桃::そうだね、実はわたしもね、この比較、その礼を欠いているかどうか、というその辺が意外にも一番大事な要点のように感じるのね。散文化しちゃうとそういう関連がどうしてもでてくるのね。でもまあ、それは今はちょっとそのままにしといてですね、また同じことばかり言うけどね、もっと別の読み方はないかな。ほかの見方は(笑)。確認したい点があるんです。
まゆみ::先生、わたし気がつきました。ほんとにさっきと同じですよね。下から読んでも、ですよね、また。
広志::ん?あれ、これもそう?しんだ、ら、だ、ん、し、あ、本当だ。
黒桃::御名答。同じなんです。それが言いたかったんだよね(笑)。ということはですね、『死んだら談志』はどういう本だと思う?
まゆみ::回文集ですか、そのまんまですけど。市立図書館でわたし村上春樹の、えーと、『またたび浴びたタマ』って本、目にとまったのでぱらぱら読んだことがあります。けっこう面白かった。
黒桃::〈またたびあびたたま〉は傑作回文ですね。私の家の本棚にはコピーライター土屋耕一氏の『軽い機敏な子猫、何匹いるか』もあります。こちらもちょっとすごいでしょ。でね、『死んだら談志』ですが、これも回文集には違いないんですがね。タイトルもね、たしかに告げてます、中味がぎっしりほかにも回文だよって。しかしね、本の中味、もうワンステップひねりがある。どういうことだと思いますか…いや村上氏の本もただ回文集というだけではなくてたしか〈いろはかるた〉仕立てだったけどね…。…答え、言ってしまうけどね、それ、回文句集なんですよ。井口吾郎氏著、回文句集『死んだら談志』。
広志::クシュウって、俳句の集(しゅう)ってことですか。
黒桃::そうだよ。俳句ばかり集めたもの。やっと俳句の話まで来た、すべりこんだ(笑)。
まゆみ::題は先生、俳句になってるんですか。死んだら談志、だけじゃ短すぎると思いますけど。
黒桃::なってるよ、それも。(立ってホワイトボードにまた書く)
水仙花死んだら談志完成す
(一同少し無言でボードを見ている)
黒桃::どうですか。本のなかではこの姿で登場しています。さて、ここでいきなり俳句の本質とは何かなんて話を始めますが、俳句として一番大事なことはね、一句に切れがあるかどうか、どんな切れになっているか、ということなんです。この句だとね、はじめの「水仙花」のところで、ここまでのパート、初五、とか上五なんて呼ぶけど、「水仙花」、で、つまり初五で、切れている。俳句を読むときの了解事項としてね、一句に一回だけね、切れがいります。それで一応俳句になる。いろんな考えや立場が俳人たちにもあるんだけれどね、切れの必要性はだれも否定できない。それが見込めないと作品の体をなさないわけです。ここまでいいですか?
広志::先生、〈古池や蛙とびこむ水の音〉って句、の、「や」、とか、ま、「けり」、「かな」、とかの「切れ字」のところで切れるって、高校で習いましたけど、でも、ふつうの言葉でも切れるんですよね。切れるって、心のなかで一応そこで区切って読むってことでいいのかな。でも意味の区切りでいくと、先生、今の回文俳句だと、五七五のつぎの七音の途中の「談志」の前でも切れそうですよ。水仙の花が死んだら、ま、枯れたらという意味として、そうなったら、談志という芸の道の人も完成する。水仙花死んだら、ここで切れて、談志完成す、こういう読み方思いついたんですが、変ですか、いや意味がっていうより切れが。これだともう俳句の鑑賞ではなくなるんでしょうか。でもちゃんと切れ一回きりだし。
まゆみ::今わたし有馬君の言ったことについていけたかな。「カレタラ」っていうのは…えーと、ホントに花が枯れること?そういうこととして読んで、でもそれは比喩というか、なんでしょう?水仙・イコール・ナルシシズム、これローマ神話だったかな、とにかくそれが死んで、つまり枯れてしまって、芸も完成する、ということかな。
広志::そうそう、そうだよ、うまく言ってくれたよ。だめなんですか先生、そういうふうでは。
黒桃::ああ、なるほどね、その切り方はわたしは思ってもみなかったな。だめだときめつけてはだめだ、かな、たぶん。読みかたが五七五の区切り通りでなく、意味と語句がぎこちなくまたがるようになってもね、句跨りというんだけど、それは議論はあるけど事実上、まあ、たまにはOKなんだ。ただあえて調子を壊すようにはしない。逆手にとって壊すのを活かすのなら別だけどね。問題は切れ方がかかわってくる場合だね、わたしはこの句のような場合、初五で切るという了解性は、この回文が俳句でもあろうとするなら、けっして軽んじることはできない約束の内側のことだと思うけどね。しかしここは回文であることの愉しさが圧倒的な何かだからね、そう読みたければ有馬・星野流でもさしつかえないと思うけど、俳句かどうかはやっぱり少しね…。それに、初五に対して中七・下五を配合するのと意味的連想の最後に落ち着く先にはそう大きな開きはないかもしれないね。どうだろう。ないんじゃないかな。
広志::先生、もっと基本的な質問なんですけど、切れは一句言い終わったところに来ることもあるんですよね。なんとかなんとかで、「かな」が最後に来たりしますよね。切れはとにかく一回だけなら、それは丸ごと全部で最後に切れるわけだけど、するといったい何と何が意味にしても語句にしても切れてるのかなあ、そういうときは。切れって何なんですか。
黒桃::うん。あのね、こういうことなんだ。まず、もちろん最後で切れる句はある。そして大事なことはね、そういうときの切れがどういうものか考えてみると、途中で切れが入って必然的に二つの要素が引き比べられる、というかふつう「配合」とか「取り合わせ」とか言うんだけれど、そういう場合も含めた、すべての俳句の俳句らしさ、いっそ本質と言ってもいいだろうけど、についてね、見つめるということになるんだよ。少しわかりづらいかもしれないけどレクチャーするよ、いいですか。
まゆみ::すみません、わかりづらいなら、先生、また例をだしてから進めてもらえませんか。
黒桃::うん、いいよ。掲句はいつもいるよねえ、どうしようかな…(と言いながら立って考え、次のように書く)
水仙は死んだら談志反省す
黒桃::これはわたしが今とっさに作ったもので、井口さんのこの本(と言って取り出す)、これなんですけどね『死んだら談志』、面白そうな本でしょう、どうこの装丁、あとで見てください、えー、この本のなかにあるものではありません。回文にして上五で切れないようにと思って少し作り変えたわけですが、えー、これでは、だめだったかな、意味もすっとは通らないかな、でもいけるかな(笑)しかし、最後で切れるって言い張るほどの読みは出て来ないようだな。たんなる面白くない回文かな。よし、ちょっと待って。この句集のなかから取り合わせではない句を見つければいいんだよな。そうしよう。一元的なもの、一元的なもの、…。星野さん、ちょっと待ってね。(と、そのごわごわの和紙で装丁された奇妙な美しい冊子の各頁を先生は行きつ戻りつする)
黒桃::お、なんだ、こういうのがあったか。ちょうどいい。(と言って次の一句書き足す)
水仙はとほほふほほと反省す
(すいせんはとほほふほほとはんせいす)
黒桃::ひらがな表記はわたしが勝手につけたものです。さあ、この作品で始めよう。この作品のなかで、「反省す」るのは「水仙」ですよね。で、「とほほ」ですが、これは意味的に言ってきわめて無理のないつながりを下五とのあいだに生みだします、で、「ふほほ」はそういう「とほほ」と疑いようもなくいわば手に手をとって弾んでいてね、その手と手は〈切れ〉ようもありません。ということはね、この回文が同時に俳句として差し出されているのなら切れはね、言い終わってそこに見込まれることになるわけです。いい?
広志::でも先生、切れをそこに見込んで読むっていうのそれよくわからないんですよね。どういうふうに読むことですか。
黒桃::うん、まさにそこが問題でね、ゆっくり検討してみよう。ちょっと有馬君、きみはさ、この作品最も面白く読むとするとどんな感じになるかな。読む以上一番おいしい味を引き出さないと損だよね(笑)。
広志::そりゃまあ、それはそうですけど、あの、解釈を言うんですか?
黒桃::うん、鑑賞してください。感想でもいいよ。
広志::そうですねぇ、水仙は、さっき星野さんも言ってたけど、ナルシストを思わせるから、まあ、そういう自分に惚れ惚れしてる者はですね、自分の非をみとめたら、「とほほふほほ」というなんか思いつめきれない軟弱な態度にでるものなのだ、ではどうですか。いや違うかな、こうかな、そういう者がけっこう意外にも「とほほふほほ」というくらいの態度にまではなったのだ、かな、まあよくわからないですね、わかるわけないよって感じもしますが。このくらいではだめですか。やっぱり回文遊びだから、なんか突き詰めるのも変じゃないかなあ。
黒桃::いやあ、文句なしですよ。ごくろうさま。では星野さんはどう?
まゆみ::えっ、鑑賞ですか?
黒桃::うん。
まゆみ::うーん、困ったなあ。うーん、…じゃわたしは今の有馬君のヴァリエーションということにしてもらって、「とほほふほほ」についてですが、少し言い足すことにします。「とほほ」はふつう情けなさを表しますが、作品の「とほほふほほ」はこのかたちのままで情けなさの変質変形した独特な感情の様態を表している、というのはどうでしょうか。水仙の反省は、とほほ、ではないのです、とほほふほほ、であって、それは情けなさと似て非なるものです、と。それは、にがい、と、ほろにがい、のときのように、かもしれません。笑いには苦笑もあれば微苦笑もあります。あ、なんかうまく言えたかも(笑)。どうでしょうか、先生。
黒桃::いやあ、参ったねえ、きみたちはほんとうに応答が返ってくるからね。授業わたしのほうが面白がらせてもらってるかもな。いやあ…、とこんなことばかり言っててなかなか先へ進まなくなってもいけないね。
今のきみたちの読みと俳句の切れがどう関連するか、説明しなくてはね。これは門外漢の個人的な考えと言われたらそれまでなんだけどね、俳句らしい音数で律動する詩にあえて俳句という限定を与えるなら、切れの有無が問題でね、たとえばよく言われる季の詞、季題や季語などはそのあとの問題、けっこう奥深いけど後で考えればいいことだとわたしは思ってます。じゃ、切れって何か、だけどね、わたしはね、基本的に五七五の音数律で詩的に恰好がついたらね、それ、作品然としてくる、といっても言いし、少しサマになる、と言ってもいいけど、そう読めたらそこに必ずあるものだと思うんだね。でね、切れとはよく言ったもので、さっき有馬君の質問もとらえていたことだけど、理屈をつけるなら何が何から切れるか、問うてみればいいと思う。〈古池や蛙とびこむ水の音〉ならね、「や」という切れ字の前後でその両者が切れて、その配合の加減が一句の恰好をつけて味わいを演出している。池と蛙のとびこむ音だから、それほどとっぴな取り合わせとはきみたちは思わないかもしれない。でもそれは読む側の事情で変わってくる。あれれ、とばかりに、これが実に新鮮に映った伝統の文脈、言語環境も当然あったわけだね。取り合わせはね、意外なものの取り合わせだから新鮮で面白い。だから関連や連想がごく当然だと両者は〈付き過ぎ〉だと言ってこれをきらう習慣も形成されてくる。でもね、あんまり完全に別々でね、取り合わせのその「合わせ」の意味合いが希薄になってしまってもそれはそれでまずいんだね。ま、とにかくね、切れがあるから両者に橋も架かる、そして架橋されると今度は構造性を備えた〈まとまり〉ができるよね、このまとまりによって対外的に独立性も生まれる。この立つってことが大事なんだ。いいですか、このあたりまで。
広志::ああ、なるほど、って思いました。だから一気に読み下せてしまう俳句の切れが問題になってくるんですね。そういう句の、つまりいったん切れたからまたまとまってくる、という性格がみられない句の構造的全体性ってわからなくなっちゃうわけですから。そうですよね、先生。でも、それはじゃ、どういうことになるんですか。
黒桃::そうなんだ。そこでね、切れが最後に来る俳句ももちろん「橋」が架かっているんですよ。では何と何が取り持たれているんだろう。この問題には実に都合のいい解答が歴史的にあるんです。答えとしてあるというより、つまりそう語られているというよりね、事実として示されているのですがね。当たり前過ぎるほどの事実、なんだけどね。つまり五七五はそのとき七七と橋渡しされている、といえるんだね。明治以降の俳句だけみるとわからないけどね、江戸時代の俳諧が示しているけど、五七五には連句の発句として脇句七七とのつながりの加減が意識されていたわけだね。俳句はこの発句の独立ということだからね。発句じゃなくても連句のなかで五七五はたえず七七と呼応してたしね。
それからね、五七五はね、川柳ではね、江戸時代もともとは「前句付け」と言うんだけど、前句付けではね、七七とセットになった謎かけ遊びみたいなものだからね。たとえばこういうの。〈盗人を捕らえてみれば息子なり〉、これなんてこれだけでもすでにまあ面白い。つまり作品化してるようだけど、もとは〈切りたくもあり切りたくもなし〉という前句七七に「付け」られたものだというんだね。盗人を捕らえてみれば息子なり、切りたくもあり切りたくもなし。と、こっちのほうがやっぱり何かまとまるでしょう。七七、あるいは五七五だけを言われたら、それは散文の一部みたいでね、何かがつながらないと落ち着かなくならないかな、もしそういわれたら。そのままでは、何か切り上がりがつかないというかね。
というようなわけで、五七五はもっと大元のことを考えれば、それこそ『万葉集』以来、和歌だったときの七七に対してね、これを仁平勝という人は「幻肢」としての七七というように言ってるけれどね、切れている。だからね、取り合わせの句もね、はじめの切れを得て、そのことで一句として自分を構造化するわけだけど、自分の外、とりあえずそれを幻のような七七だというのは答えとして相当よい加減でぴたっと決まってるから、わたしはそれでもいいと思うけどね、ま、とりあえず何でもいいんだけど、そういうものとのあいだで実は根本的・本質的に切れているのだ、ということなんだね。
広志::先生、今日も理論的な話になってきましたねえ。でも先生の今の話だと、まあ五七五で詩なら何でも俳句であって、切れもそこにちゃあんとある、ということになりませんか。川柳も俳句、短い詩は俳句って。でも、オレはさっき訊かれて言ったオレなんかの解釈だと、まず、詩を読めてることにならないじゃないかなあ、という気がするんです。
先生が今「散文」って言って説明してくれた時、オレなりにわかりかけた気はしたんですよ。お笑いというか、漫才で言う「つっこみ」をあらかじめ免れている、みたいなイメージ湧いたんですよ、漫才じゃなくて歌みたいっていうか(笑)、そっちが詩なんだって。詩っていうのは自分で足りてて満足してて、こちらはただ受け止めるしかない。ま、詩は水仙の花みたいだというかな。あ、よけいなこといって頭混乱しそう(笑)。ともかくですね、漫才の例えで続けますけど、一人がボケてもう一人にツッコマレてそういう配合見てお客は安心して笑える、笑えるとき漫才がサマになってるわけですが、でもそれは詩的な体験なのかなあ、ってオレは疑問に思うんです。作られた会話だから虚構かもしれないですけど、つまりナマの現実の会話ではないですが、でも歌でもないんじゃないかなあ。詩だったらもっとなんていうか、そもそも変な仕掛けなんか抜きに、まっすぐに、水仙なら水仙ていうものをポンと差し出すか、ていねいにとらえて描いているか、ふわっと、かいろいろでしょうけど、そんな感じになるんじゃないかなあ。先生はさっき季語は俳句の本質にとって大事だけど切れほどじゃないみたいに言ったと思うんですが、そうなんですか。季語ってうまくするとそれだけですっごい俳句がサマになるようにして、詩らしくさせるもんじゃないんですか。
黒桃::その漫才のたとえは面白そうだねえ。なかなかきわどい話に入ってきた感じだね。そうだな、どういうふうに答えていけばいいかなあ。詩とか散文という言葉でわたしが注意を喚起したかった或るニュアンスは、有馬君よく聞いてくれてると思ったよ。わたしもまだきちんと説明しきれていないよね。で最後に訊かれたことはね、でもきみのいうとおりだな、つまりだね、わたしは季語は俳句にとってどうしてもそこに含まれていなければならないものだ、とは思わないんだ。本質的に俳句とはそうしたものだと思うからね。季語への対応はものすごく重要だということに異議はないんだけれどね、だがしかし、というところかな。
まゆみ::先生、水仙は季語ですよね。わたし、もう少しその句について読みながら考えるといいと思うんですけど。
黒桃::その句って、とほほ、の、これ?(まゆみ頷く)、あ、よし、そうしようか。(と言いながら黒桃立って、その句を残していままで板書した語句をそれぞれゆっくり消していく。「とほほ」の句だけになる。一句の脇のかな書きの部分も消す。それから一同しばしまた見ている)
水仙はとほほふほほと反省す
黒桃::水仙は季語です、冬のね。水仙花というのも、俳人たちのあいだではお馴染みの言い方のようだよ。季語もきちんと一つだけ含まれている定型詩。語句の意味から言って取り合わせの句ではなさそうだ。いっきに読み下せる一句だね。それではどんな句なのだろう。星野さん、もう一度鑑賞してみますか。
まゆみ::先生、わたしさっきからちょっと思ってたことがあるんですけど、水仙って、実際に咲いているところってふつう、群落って言うとなんか大げさですかね、でも、何株も一緒になって咲いてる感じではないかなあって…。アニメかなんかのイメージで、一本の水仙さんのつぶやきポエムってふうに初めわたし読もうとしてましたが、でも水仙が何本もある景色だとすると、ずいぶん変わってくるかなあって。それで、わたし、こじつけたんですけど、「とほほふほほと」というのは水仙があっちにもこっちにもぽっぽっ、ぽっぽってある様子を言ってるというのは無理かなって…。
黒桃::わたしがヘンな誘導をしてその線でこの句に出会ったからね。ほんとうは今星野さんが言ってくれたように、いろいろ読めるはずなのにね。今のとても面白いじゃない。有馬君は今の星野さんの読みかたどう思った?
広志::ああなるほどって思いましたよ。幾つもの水仙のイメージだと、星野さんが言うように、絵的に言って、その、なんて言うか、「反省す」るっていう擬人法のとらえ方が変わってくるっていうかな、水仙各々が心理的に反省とか、ま、後悔とかなんかそういうことする感じではなくて、水仙たちはみーんなただ水仙たちで、詠み手が一方的に彼ら、彼女らのただの様子に「反省」を移し入れて想像してるみたいな…。
黒桃::なるほどわかるなあ。水仙たちの株のあいだにはひそやかに冷気が流れている。あっちでもこっちでも水仙はしずかに微風にゆれている。ただそれだけのことが、実はこの一句の表現と測り合うように狙われていたのだとしたら、そういうのもなんだか愉しいな。
まゆみ::そういうふうに補ってもらってどんどん読みの輪をつなげていってもらうと面白いですねえ。うわあって思いました。でも先生、わたしそもそも回文なんだってことが今度は急に気になりだしました。そのへんはどうなんでしょう。回文だってことは、俳句が言ってる内容に対してとても微妙なかかわり方をしているように感じるんですけど。
黒桃::そうだね。目的は回文なんですからね、って声が低くいつも聞こえているわけだしね。だからこそ他愛なく読む遊びもできるというところはあるよね。しかしこのあたりはね、今も星野さんは「微妙」という言葉を使ったけどね、たんにそういうことだけではなくて本当にひとつの深淵(笑)があるとわたしは思ってるんだ。これからどれくらい上手くアプローチできるかわからないけれどね。やってみたいと思っています。ほらよく「遊びだけれど真剣に遊ぶ」って言うよね。聞いたことないかな、そういう言い方。わたしはこの言い方はなんにも言えていないと思う。言いすぎにならないように、しかしもう少しはなんとか言いたいものだと思う。
一般的に広く言うならね、遊戯的要素の意義をどのように評価するか。もう少し狭く言うと、遊びという方便が読みによって徹底的に消尽されたあとに作品に残るものがあるのか、ないのか。ないならそれはどういうことなのか。あるならそれは遊びのゆえなのか、何が残るのか、というようなことです。今日の授業の題材に則してシンボリックに言うとね、こんなふうではどうかな。〈死んだら談志〉というフレーズには潜在的になかなかのインパクトがあります。〈談志が死んだ〉じゃ挨拶にもなんにもならないですがね。このインパクトを顕在化するために、付かず離れずでさがして「水仙」から「水仙花」が見つかったとします。で始めてみたとします。「完成す」はちょっとした僥倖のようでした。さて回文だという方便が立つからその分メリットはあります。当該のインパクトを損なわないまま音数律上の加算ができたので、これはまずまずの成果です。とこんな言い方になるのも、〈死んだら談志〉は〈水仙花死んだら談志完成す〉よりやはりずっと凄いコトバだけれど、このままではふつう立てないし、そしてこの回文作品はその凄さを壊してはいないかもしれないし、その顕在化に大きく近づいているからです。われわれもそれを今日検討し始めたけれどね。とまあ、時間がなくなって来て少し急いだけれど、こんなところでどうかな。
ただね、実際はこんなに単純には整理整頓できない。たとえば、今日の題材でもう一度シンボリックに言わせてもらうなら、〈水仙はとほほふほほと反省す〉という一句はね、ほかでもない〈水仙花死んだら談志完成す〉と連動する意味内容のもとに読めてしまうというような問題がある。われわれは今日そこにはノータッチだったがね。俳句は一句を独立に読む。しかし同時に、俳人たちの共同性は、さまざまなかたちで歴史的にも、そして現在も、実際に存在する。どうなっていくのか、それはこれからの問題で、これからのことはもちろんまだ決まっていないんだ。それはだれにもわからない。今日はもう時間いっぱいだけど、次回は、回文にして俳句というのではなくて、ただ俳句として差し出されている作品を読んでみましょう。本当は少しは今日示そうと思って用意してきた俳句がまだここにあるんですが、それは次回にしようね。ではそういうことで。ごめん、少し時間過ぎちゃったようだけど、ここで終りとします。ではでは。
広志・まゆみ::お疲れさまでーす。
(一同立った姿勢のまま二三まだ言葉を交わしているがよく聞こえない)
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2007-07-01
黒桃先生特殊講義 「水泡と縄」の巻
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