成分表7 「自然」と偶然 上田信治初出:『里』2006年4月号・改稿
家の中の「自然」を、探してみよう。
養老孟司が、ある場所で「私は一日に一回は、人間がつくったもの以外のものを見ようと思っています」「一日十分でもいいから、人間の手に負えない「自然」なものを見ると、少しずつ頭が強くなるんです」と言っていた。養老氏自身は、毎日、昆虫の細部をルーペや顕微鏡で見ているらしい。
たとえば、机の脇に、脱いだままのTシャツ。
もの自体は、どこかの工場で作られた人工物だが、その今ここに置かれてある状態は、人間がどうこうして作ったわけではない。偶然そうなった、強いて言うなら、なにかのエクトプラズムのような不定型なかたちをしている。いや、つい読者の便ということもあって喩えを導入してしまうのだが、人間の言葉や概念から生まれたのでないものは、すべて「自然」だ。
窓の外には、隣家の植込みが見える。それはツツジとカイヅカイブキという、名前のある植物であり、刈られて、概念そのもののような姿をしているので、「自然」というのとは、違う。
カレンダーのマス目に引かれた斜線が、味わい深い。
ある一日に「終了」を宣告するように引いた線は、日々、微妙に表情を違え、筆記具を違えながら、だいたい同じ角度同じ長さで、草のように並んでいる。別室にある、家人のカレンダーの斜線を見に行き、微妙に自分の斜線と違うことを確認し、満足して戻ってくる。
そういえば、電気のコードが、今日この形でうねっていることも、飲み干したカップが、乾いて珈琲の匂いを発していることも、もともと人知の及ぶところではないのだった。それらのものは、今日、草がたまたま生えたように、石がたまたま転がったようにして、そこにある。
草むらにトマト散らばる野分かな 岸本尚毅
あまり美しいとか、おもしろいとかではなく。なるべく概念化を経ずに、世界を受けとめ、受け渡す=書くこと。それは、子規以来の、俳句の典型的なありようのひとつである。それは偶然を絵にするということであり、また、俳句が、そこに生えた草のようにこの世に存在することを願って書くことだ。
目が疲れた。目をつぶって、耳を澄ます。遠くを車が通る。血管を血の流れる音がする。それは、偶然の音楽のように聞こえる。
秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴 高野素十
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2007-08-19
成分表7 「自然」と偶然 上田信治
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