成分表8 合気道 ……上田信治初出:『里』2006年8月号・改稿
俳句をはじめたのと、ちょうど同じ頃、実は、合気道にも入門していた。我ながら、やることに落ち着きがない。きっと何か、心配事でもあったのだろう。
ビルの一室にある道場に、稽古日には、四十人ほどの男女が集まる。年齢は下は中学生から、六十代まで。
合気道には、柔道や空手のような、勝った負けたの試合がない。取り手と受け手、つまり技をかける役と受ける役を決め、ひたすら型の稽古をする。四方投げ、入り身投げ、小手返し。自分のような初心者も、高段者も入り交じっての稽古で、むしろ白帯は、なるべく黒帯の人と組むように言われていた。下手どうしでやると、手順は分からなくなるし、へんな癖はつくしで、いいことがないからだ。
つまり、上級者は、道場でほとんどの時間を、下手の相手をして過ごすことになる。その間、自分の技の向上は望めない。しかし、みんなそうやって教えてもらってきているので、あとからくる入門者に、お返しをして下さる。
初心者は、せめて稽古のジャマにならないように、とっとと成長することが、お返しである。週に一度の稽古では、まったく向上がおぼつかない。週に最低、二度、できれば三度か四度五度の稽古が必要とされる。この世に人生を傾けずにできることなど、何一つないのだと思い知って、自分は道場を引退した(ケツを割ったともいう)。
今、人生でいちばん合気道が大切、という人で、せまい道場はいつも一杯だった。合気道に精進することで得られるものは、合気道が上手くなることである。それで飯が食えるわけでもないし、喧嘩が強くなっているかどうかも、よく分らない。では、何のために、皆それをするのか。それは、もう「合気道のため」としか言いようがない。
人間の本質は、個であるよりも多く、人間集団としてあることにあるという考え方がある。合気道という集団は、昔、さる天才によって発明された「なにものか」を、未来に手渡すべく、運動会の大玉ころがしのように、転がしていく運動体だった。
それは、俳句にも言えることだろう。リレーではなく、大玉ころがしというのが、このたとえの感じの出ているところです。
秋晴の運動会をしているよ 富安風生
■
■
■
2007-09-02
成分表8 合気道 上田信治
登録:
コメントの投稿 (Atom)
1 comments:
最後の富安風生の句で大笑いしてしまった。この引用の絶妙さ。本当に上田さんの評論は天然の面白さがある。切れ者なのか宿六なのか、ニークロのナックルとはこういう球筋かという感じかな。「しゃっくりをしながら飛ぶ蝶」(笑)。
コメントを投稿