成分表9 共感覚 ……上田信治
初出:『里』2006年9月号・改稿
第二芸術論で知られる桑原武夫は、三高の生徒だった時分、初代桂春団治のファンで、あるとき司馬遼太郎に「自分が芸術というものが分ったのは、春団治のおかげ」であり、さらに「芸術というのはヌメッとしてないといきまへんな(原文ママ)」と語ったことがあるそうだ(註*)。桑原というのも、妙な人だ。
しかし、ほんとうに「ヌメッと」していることが芸術の条件なら、鰻や蓴菜が有利すぎる。おそらく、それは桑原武夫という人だけの、個人的な感覚だろう。
十万人に一人くらいの割合で、音に色がついて見えたり、味の形を手のひらに感じたりする、特殊な感覚を持って生まれる人がいて、それを共感覚というらしい。ランボーの「Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑」という詩が有名だが、ほんとうの共感覚は、ふつうの脳の持ち主には関係がないらしく、ランボーも自分は共感覚者ではないと、言っているそうだ。
しかし比喩としての共感覚的認識なら、自分にも一つ二つおぼえがあり、桑原武夫の「ヌメッと」も、そのくちであろうと思われる。
たとえば、自分は印刷物のデザインの良し悪しは、「すっ」としているかどうかで見る。昔「GORO」という雑誌の表紙のデザインに感じた心地よさが、自分の中のメルクマールだ。篠山紀信撮影の女性のアップの写真を取りまくように、長さも大きさもさまざまの大量の文字が配置されているのだが、要素が多いにも関わらず、非常に「すっ」としている。表紙に相対すると、文字の間から風が吹いてくるような、いい気持ちになる。
あるいは、刺身は「ぱあっ」としているのが、美味いと思う。魚の香りと旨みと、あと何かなのだが、それらの感覚の複合が、自分には勢いとか明るさを現す「ぱあっ」に、一本化して感じられる。
つまり、本人に自覚されていないものも含む、多くの要素からなる複合的な判断基準があり、それが別種の感覚、たとえば触覚に喩えられることによって、ひとつの評価軸にまとまり、扱いやすくなる。おや、ずいぶん分かりやすい話になってしまった。
桑原武夫の「ヌメッ」を、よって来たるところの複合的要素に還元してみると、それは情報量の多さと統一感ということになるだろうか。「ざらっ」としていたり「ぼそぼそ」だったり、あるいは「ばらばら」だったりするようでは、まだまだなのである。かといって「つるっ」としていても、だめである。
分節して認識できないほどの情報量があり、しかもそのすべてのディテールが、一つの志向性をもって作品に奉仕していること。そういうものの「ヌメッと」さ加減とは、さらに言えば「生きてる感」のようなものかもしれない。なるほど、すぐれた表現とは、そんなものかもしれない。
月の縁やはらかにして通草かな 宇佐美魚目
(註*)『桂米朝集成・第三巻・上方文化』(豊田善敬・戸田学編・岩波書店・2005年)「対談 落語から見た上方と江戸」p33より引用
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2007-09-16
成分表9 共感覚 上田信治
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