2007-10-07

二階に上がるということ 上田信治

二階に上がるということ ……上田信治


「俳句と詩の会 高浜虚子を読む」におけるスピーチ原稿




俳句は、どちらかといえば、弱い、ちいさな表現方法だと思います。

強い表現方法というのは、虚子が憧れた小説とか、映画とか、マンガも入れてもいいかもしれない。弱い表現方法というのは、たとえば、生け花とか、コラージュとか、口笛とか。俳句は短いですしね。

ただし、虚子の句業は非常に幅が広くて、俳句がちいさな表現方法だということを忘れさせるような、大きなもの、りっぱなもの、強いものを、含みます。それは、前回やった龍太もそうですね。俳句の世界には、ときどき巨人のような、傑物のような人がまぎれこんで、小人たちをとまどわせるんですが、それは、ともかく。

虚子が龍太とちがうのは、虚子の句には、平然と「どうでもいいもの」や「ダメなもの」がある、俳句の弱さに開き直ったような「俳句なんてこんなもん」「こんなもんでいいの俳句は」という句があることです。

そして、そういう句は、ほんとにすごくない。〈くれといふダンサーにやる扇かな〉(笑)。昭和5年の、虚子欧行の折の句なんですが、実に、どうでもいい。

〈なんとなく秋の扇をくれにけり〉これは平成の田中裕明さんの句ですが、こうして、時代を超えて「すごくないもの」が、継承されているわけです。

自分が、同時代の表現として可能性を感じるのは、こっちの、どうでもいい、ダメなほうの俳句です。

これは個人的な話ですが、ぼくが、俳句という表現を発見したのは、ある種のサブカル的な心性のなせるワザであったかもしれません。つまり「立派なもの」「美しいもの」を、真っ正面から指向することを逃れて、心にかなうものを探すという性向です。

ただ、この世の「ダメなもの」というのは、ほとんどの場合、ほんとうにダメなんですよ(笑)。「ダメ」な表現物は、当り前ですけど、平板で醜いことが多い。「そこが、かえって、いい」なんて、そんな、甘ったれたことがあるわけない。

だから「ダメ」なものの中に「ダメゆえに実現されるなにかすばらしいもの」があるとしたら、それはやっぱり、すばらしいことだと思う。俳句には、そういう、どうでもいいものや、ダメなものの良さに対する、感受性の蓄積というものが、あると思います。

佐原「それは、書かれた対象がダメということと、句自体がダメというのはまた別ですよね」

それはもちろんそうで、虚子は、積極的に、小さなもの、つまらないものを、俳句の対象にすることを押し進めた人です。落葉やきのこを季題にしよう、冷蔵庫やマスクを季題にしようと、いうことをしているんですが。その一方で、そういうんじゃない、ダメな句というのがある。

それを代表する句が〈川を見るバナナの皮の手より落ち〉です。

ここには、美しいものや、すごいもの、真善美といったものはないです。この世で、よいとされているものは、何もない。でも、ここには、「ダメゆえに実現されるなにか」があると思います。

なぜ、ダメゆえに、かというと、この世で、あらかじめ「良し」とされているものは、かえって邪魔になる場合があるからです。

なにかすばらしいものを「二階」だとして、「二階」に上がることがほんとうの目的なのだとすると、その場合、美とか詩とかいうのは、しばしば「中二階」にあたる。

ほんとうは二階にあがりたいのに、「中二階」を目指して、そこを通って「二階」に行ければ、なんの問題もないんですが、そこに上がって満足してしまうということが起こりうる。それくらいだったら、はじめから、美でも詩でもない、馬鹿げたもののほうが、すぱっと本当のものに達することができる……のかもしれない。美と詩をいっしょにしては、いけないのかもしれませんが、じゃあ、美しくもすごくもないものが「二階」に上がってたら、ぼくは、うれしい。ダメなものが好きだから。

バナナの句は、ある一日に、たまたまあった、そういう放心の瞬間を、描写した句です。

放心の瞬間を、内側と外側の両方から書いている。自分が川を見ている。他人なら行為ですけど、自分なら内面です。いま、自分は川を見ている、という自己意識ともいえないような自己意識があって。その視界に落ちていくバナナの皮です。
「あ、バナナの皮、落とした」。

もう、ほんとに、どうでもいい偶然のできごとが、不朽のーどこからも腐ってこないような、100年は楽に保つと思われる言葉で、語られています。

ここにぼくは、言葉が、美の力も、物語の力も借りずに、二階に上がっている手応えを感じます。

内容ではない。ただもうそれは、言葉の仕業です。まちがっても、ここに無とか空とか、俳人格とかを見てはいけない。それは、錯誤だと思うんです。

〈酌婦来る灯取蟲より汚きが〉ここでも、ある偶然の感情が、永遠の形象を与えられて、我々の前に残されている。これも、具体的なものが、みんな消えちゃう句なんですね、酌婦の像が描けない。酌婦のイメージに灯取蟲のイメージがのっかっちゃって〈より汚きが〉で、なんだ比較かよってなって、具体的な像がみんな消えてしまう。灯りがギラッてなって酌婦と蛾のキメラみたいなものが見えて、ああ、いやなものに触れた、ということが残る。これは、波多野爽波が、虚子の最高の句として挙げている句なんですが、書かれているのは、またしても、まったくいいところのない、むしろ下衆な心性で、それが、みごとな言葉のワザで、定型と内容が、それと意識させないほど一体化して書かれている。

さて。ここでなにが起こっているか。

日常語というのは、話者が、言葉で、先行する指示対象を、指すように言うものです。指示対象に言葉が遅れて現われる、というのが日常語で、言いたいことを言うために、言葉を探す。それは、ものを書くときも同じです。

ところが、あまりにぴったりと過不足無しに言えた言葉というのは、受け手から見ると、その遅れをまぬがれているように、つまり、言葉と指示対象が、同時に出現したように見えるんです。

そうすると、それだけで、言葉が「詩語」として立つんですよ。言葉が「もの化」する、なんてよく言いますが、小さな時間の彫刻のようなものができあがる。

それは、おそらく俳句の定型と、短さに、すごく関係がある。

山本健吉が「俳句が志すものは波ではない。もっと実体的なもの、ひとつの刻印である」と書き「いったん十七音の様式に定着してそこに俳句的イメージを形成するや否や、その様式の時間性は失われる」(「挨拶と滑稽」1946)と書いたのは、まさに、このあたりのことだったんだと思います。

以前は、この人が、俳句は時間性を拒否するとか言うのを、えー、だって時間あるじゃんと思っていたものですが、自分が間違ってました。

もちろん、そこに言葉が読まれていく時間、あるいは、そこに描出される時間というものは「ある」んですが、その幅の時間をふくめた、なおかつ一目ですべてを見て、直覚できるような、彫刻的なもの、そういう表現物が、受け手の側に立ち上がる。うまくやれば、ですが。

こういう言葉のハナレワザは、非常に頭を喜ばせる。「あ、バナナ落ちた」なんてことが、言葉であざやかに追体験できるというのは「なにごと」か、なんですよ。

出来ちゃってるのを見ててもわかりにくいんで、例をあげます。

さる有名俳人の、あまり知られていない句に〈骰子の目の赤き一点山笑ふ〉というのがあって、波多野爽波の句集のタイトルにもなっている代表句に〈骰子の一の目赤し春の山〉というのがある。たいへん珍しい、まったく同じ内容の違う句です。(書かれたのは爽波の句が後らしい)。

骰子の目の赤き一点山笑ふ  
骰子の一の目赤し春の山   

爽波の句は、これ、ある段階に達して、何ごとかを実現している、ていうか、名句ですよね。〈赤き一点〉の句は、、、です。

〈赤き一点〉の句は、頭の中に先行するイメージがあって、それを「言おう言おう」として、言葉が対象を追いかけてしまっている。爽波の句は、そういうかんじがしないでしょう。言ってるというかんじがしない。誰かが言ったというより、そこに生えたというか、昔からあるみたいな、ことわざとか、そういうかんじ。

これが「あまりにぴったりと過不足無しに言えた言葉」というもので、これは、ほとんど、内容と、定型に「言わされている」言葉なわけですから。まったく、話者の責任というものがない。

それを、言葉の側から言えば、言葉が、話者の存在から解放されている、ということになる。
〈赤き一点〉の句は、575にはなってるんだけど、まだまだ、作者が成仏してないわけです。

繰り返しになりますが、虚子の「バナナ」の句や、爽波の「骰子」の句で、なにが起こっているか。

言葉が、定型と指示対象、双方の要求をぴったり満たしたとき。
言葉は、発話という行為の痕跡であることから解放される。

……いや、それがそんなたいしたことか、どうか、分らないんですけど(笑)。自分が、こうした句から感じている、楽しみ喜びを、それこそ地を這うようにして、ベタに言葉にしてみると、こうなる。

その条件を満たしても、下らない句っていうのは、いっぱいあると思います。自分もこういうのに憧れて、いろいろ作るんですが。「スプーンに小スプーンの混じりをり」「電線にあるくるくるとした部分」……、自分のこういう句を見るとね、やっぱり内容も大切なんじゃないかと(笑)、思うんですが。

これは、写生という方法に準備されていて、より明確には高野素十によって、示された行き方です。鬼城・蛇笏・石鼎といった人も、視覚的造形の確かな句を書くんですが、やっぱり物語性とか、季語の情緒とか、それこそ美とか、そういう価値を目指して書かれている。素十という人は、ちょっと頭おかしくて、ほんとうに没価値的に、ぴったり書くだけで、すごくおもしろいですよ、ということを発見したように思います。

昭和以前の虚子の写生句には両方あって、「露の幹静かに蝉の歩きをり」とか、これは客観写生の名作と呼ばれている句なんですけど、やっぱり、けっこう、言葉で追っかけてる句だと、思うんですよ。何を追っかけてるかっていうと、あらかじめ価値とされる、季語の情緒であるとか、美とされるような景を、追いかけている。

それだったら、ぼくは、俳句じゃなくてもいいような気がする。なぜなら、俳句は弱い表現なんで、ほかでできることだったら、そっちにまかせたほうがいい。

〈春寒や砂より出でし松の幹〉
この句は怖い句ですね。お送りした資料(*)で、澁澤龍彦のいっていた、物自体というのは、こういう句のことかもしれない。

(*) 現象世界の事物のひとつをクローズアップすることによって、現象世界の背後から、不気味な物自体がぬっと顔を出したような印象を私は受ける。この石ころ、この大根の葉は、現象であると同時に物自体でもあるような気が私にはする。物自体とは、申すまでもなくカント哲学の概念であり、要するに私たちが見たり聞いたりすることのできる現象の背後にあって、この現象の原因となる不可知物のことである。「物の世界に遊ぶ」(朝日文庫「高浜虚子集」解説 1984)

「幹が、砂から生えている」って言えば、それは、日常的な把握になるなんですけど〈出でし〉という言い方はちょっとした発明で、松は「生えて」るものなんだけど、〈出でし〉という言い方で、視線の動きを取り込んでいるんですね。

ちょっとの言い方で、見えるように言うというのが、俳句の写生というもので、これはカンペキ感に達しやすい道です。

言葉とか意志によって、注意・志向性が働くとき、人は「春寒」や「砂」や「松」をばらばらに分節してしか認識できないんですが、言葉や注意の下でうごめいてる人間の認識は、それら全てに、もっと同時に触れているんじゃないか。その同時にいろんなものに触れているかんじを、この句全体が表象してるような気がします。

ところで、この句には、季語がありますよね。そして、さっきのバナナと違って、この句の季語は、すごく働いている。句の中にものすごい情報量をもちこんでいるんです。

これがなかったら、この句、すごくコラージュめくんです。砂の上に松の写真を切って置いたみたいな、言葉だけ、構図だけの句になってたと思うんですが、ここでは、季語が生きた砂、生きた松を、この場に呼び出しているように思える。

ただ、そのあたりを敷衍することは、たぶん、ぼくの任ではない。あとの回の担当の方におまかせしたいと思います。

ただ、季語自体を価値として、季語というものがいいものなんだから、それに奉仕する俳句がいい俳句なんだ、という立場は、ぼくはよく分らない。外側の価値としての、自然や季語ではなくて、季語が、俳句の中でどう働いているかを問題にしたい。俳句には、自然ってすばらしいよね、ということと関係なく、読むべきものがあると思います。

ともかく、美しくもすごくもないものが、滋味掬すべきものとして、俳句では扱われてきた。バナナの句を、虚子も捨てなかったし、みんなも捨てなかった、という、その針に、ぼくは引っかかったというわけです。

質疑応答 :

佐原「先ほどおっしゃった、違うものを書いて、「二階」に至ろうという言い方だと、やはりある種の真善美の概念に俳句が支えられるという、旧来の「詩的」な価値に戻ってしまいませんか。そういうのとは違う上昇のしかたがありうるということを、こういう句が示していると言ったほうが正確かと思うのですが」

上田「昭和のはじめ以降の虚子は、特にあきれるほど自由で、それこそ俗なものから、崇高なものまで、書いてますけど、その中で、あ、こんなものも俳句になっちゃった、ていうのを楽しんでただけなんじゃないか。特に、方法論を意識するということは、なかったんじゃないかと」

佐原「どうでもいいものを書くということが、至上の目的のように固定化させてしまったらだめだということですよね」

上田「それは、もちろんそうですね」

高柳「発話性から言葉を解放するというのは、意味を伝達するという言葉の本来の機能を、詩によって屈折させるということだと思います。

たしかに〈川を見る〉という句は、そういう虚子の一面の現われた句で、俳句性という意味では信治さんのいうことにほとんど賛成なんですけど、虚子の本質、虚子の面白みがそこにあったかというと疑問もある。

さっき、私が言った俗受けするというのは、マスコミを意識するとか人間関係を意識するとかも、もちろんあるけれど、美の力とか、物語の力を利用するというのも、多分に俗受けに含まれていると思っていて。

やっぱり虚子は美を志向した人でしょうし、既成の世俗の物語みたいなのものを非常に敏感に感じ取って、句に生かした人だったと思う。〈川を見る〉というのは、虚子の中では珍しい句で、偶発的にできたのか、意識的にこういうものを目指して書かれたのかはわかりませんけれど、虚子の中では例外的な句だったと思う」

佐原「虚子が、碧梧桐の「温泉百句」の中のある句に、取り合せが悪い、調和がないと批判している。虚子の価値観の中にはもともと「調和」という観念が入っていたわけですね。だから虚子にとっては、写生という方法から美的なものや主観的なものは切り離し得なかった」

上田「虚子という作家の評価としては、お二人の言われるとおりだと思います。ただ、もちろん、作家の意図に沿って読む必要はないわけで」

高柳「それとも関わってくるところなんですけど、俳句という文芸の面白みはどこにあるか、信治さんの言われたようなことは、むしろ自由詩のほうで実現されるものであって、俳句は美や物語から解放されうるのか。短いからこそ、そう言う力を借りないと見られる作品としてなりたたないんじゃないかという疑問がある。

そのことが、詩であることと同義かどうかは分らない、むしろ、そういう意味では、俳句は詩じゃないかもしれないんですけど、そのことは、やはり、それは虚子を読むときも、俳句を考えることにも重要だと思います。

ほんとに、中二階を経由せずに、二階へ到達することが俳句にとって、価値をもつのかどうか」

佐原「それは子規の考えに近いのかもしれない。ただ、さっきの骰子の二つの句の評価は、それだけではできないと思う」

上田「そう、うーん、あの〈骰子の一の目赤し春の山〉って、美しいんだよねー」(笑)

高柳「その美しさがどこから来るか、ですよね」

上田「そういうことですね」


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