2007-10-14

ことばによる、ことばの俳句 榮猿丸

サバービア俳句 extra version

ことばによる、ことばの俳句
『俳句研究』8月号特集「新・現代俳句集成」を読む ……榮猿丸


初出:『澤』2006年10月号


『俳句研究』2006年8月号で「新・現代俳句集成」という特集が始まった。「第一弾」である今号では、昭和32年から36年に生まれた、現在40代後半の俳人40人を取りあげている。編集後記によれば、「平成時代もすでに18年を経過した現在、俳句界の秀句をもう一度、世代別に一堂に会する。自選代表句に新作を加え、一人十句という篩にかけた作品群により、俳句界の“いま”を提示してゆく」とある。

作品に触れながら、現代俳句について考えてみたい。

まず興味深く感じたのは、本特集が「現代俳句」を「平成俳句」として位置づけ、提示しようとしているようにみえることだ。特集の第一弾としてこの世代を持ってきたのも、そうした意図があってのことのように思えてくる。

平成も大正の年数を越えたあたりから、「平成の俳句は未だ何も生み出していない、語るべきものは何もない」などといった言説が、当の俳人たちの口からここかしこで語られるようになった。はたして本当にそうなのか。

この点について、平井照敏編のアンソロジー『現代の俳句』(講談社学術文庫・平成5所収の「現代俳句の行方」をガイドにして確認してみたい。

「現代俳句の行方」は、編者である平井によって、本編の解説として書かれたもの。まず子規以降の俳句の流れを、「詩(新)」と「俳(旧)」の二つの潮流として捉え、その相克の様相を近代俳句史としてコンパクトにまとめあげている。

人間探求派あたりから、「詩」と「俳」の二因子は複雑に絡み合ってくるのだが、それでも昭和50年代までは、つまり龍太・澄雄等の活躍に代表される「俳」の復権までは、たしかにこの相克の構図は俳句史をすっきりと提示するのに成功している。

しかし、昭和60年代から平成に入ると、状況は変わる。

この頃というのは、岸本尚毅、田中裕明、小澤實らをはじめとした、当時三十代前後の若手俳人が台頭してきた時代だ。当然、本特集の40代後半の俳人も世代的にあてはまるのだが、ここで平井は、特徴的な俳人として夏石番矢と長谷川櫂をとりあげ、それまでの「詩」と「俳」を、あらためて「シュール派」、「古志派」と呼びなおしたうえで、次のように述べる。

ただ、ここでもう一つ注意しておきたいことがある。それは「シュール派」と「古志派」とを問わず、三十代前後の世代が、ことばによる、ことばの俳句を作っているように思われることである。言語空間の「シュール派」的、「古志派」的色づけの違いのように見えてしまうことである。そうしたところに、CMとコピーと構造主義の世代が特色を示しているように思われる。

ひじょうに的確かつ重要な指摘であるが、しかし、この「ことばによることばの俳句」という、いわば上位概念への移行を、「詩」と「俳」の二項対立の止揚と捉えるのは間違っているだろう。

ここでは、それまでの「詩」と「俳」の相克という、俳句の〈内部〉からの視点ではなく、俳句の〈外部〉からの視点で、俳句が捉え直され、俳句性が発見されているのである。だとすると、前述したような「平成俳句には何の動きもない」という意見は、つまり俳句の〈内部〉からの見方であるといえる。その〈外部〉の「言語空間」では、大きな変化がおこっていたのだ。

こうした、昭和60年代から平成にかけての若手俳人の台頭にみられる事象と変化をもって、現在の「現代俳句」がはじまったと考えることができるのではないか。そしてそれは、たまたまではあるが平成のスタートと機を一にしている。とすれば、「平成俳句」という呼称は、たんなる年号の区切りでしかない便宜上のものではなく、俳句史からみた動向、変化に対応した「現代俳句」の別称といって差し支えないと思われる。その当時の若手俳人——ポスト・モダン俳人と言ってもいいが——たちの、現在の活躍と地位がそれを裏付けているといえるだろう。

しかしながら、平成俳句の特質は、従来の「詩」と「俳」の相克のような、動的な、わかりやすい形をとらない。静的である。それは、俳句の〈内部〉から規定されるのではなく、〈外部〉から律せられる。この状況を表面的に捉えてしまうと、シュールだろうが伝統派だろうがどこの結社に属していようが関係ない、良い俳句は良いし悪い俳句は悪いのだ——というごくあたり前の立場に行き着き、そこで停止してしまう。

必要なのは、従来の閉鎖的・経験的で自明とされている——〈内部〉化した——俳句用語や概念の検証を試み、解体していくこと。それはとりもなおさず、「俳句とは何か」を自問することにほかならない。本特集の一句一句からも、それを強く感じた。

  朝 ざ く ら 白 し 杉 山 檜 山     浦川聡子

四つの単語からなる、単純な構成の句だ。そして、みごとな一幅の絵のように、豊饒にして、何もない。朝桜は朝桜だし、白は白、杉山は杉山で、檜山は檜山である。それ以上でもそれ以下でもない。言葉と事物(イメージ)のあいだに夾雑物が混入していないような印象がある。桜がひらがなで表記されていることで、朝桜の白さがより際立つ。杉山檜山の畳み掛けもよくはたらいている。

まぎれない堂々とした風景句なのに、たとえば大正俳句のそれと比べると、重くれがなく、ことばの密度が軽い印象がある。次の瞬間には浮遊してしまいそうな。しかしそれが一句にある種の神々しさをもたらしている。こういう句を読むと、まさに、先に引用した平井の「ことばの俳句」ということを強く感じる。

  梨 の 実 の 中 に 雨 滴 の ぎ つ し り と 山西雅子
  校 長 の 机 の 上 の 夏 帽 子       岩田由美

雨滴のぎっしりと詰まった梨の実も、机の上の夏帽子も、まったく意味はない。こうして〈記述〉できる意味など、俳句には必要ないのだ。しかし、ここに俳句として再構成され表現された梨の実と夏帽子には、〈記述〉不可能な具体物が放つ、無規定でいきいきとした意味が表出されている。〈もの自体〉の存在感がある。こうした句を読むと、季語のもつ力の不思議さを考えずにいられない。季語は偉大なる引用であると同時に、つねに具体性にかがやいている。

  泥 に 降 る 雪 う つ く し や 泥 に な る 小川軽舟
  ほ と と ぎ す 家 並 は 道 を 離 れ ざ る 同

作者は、句と同時掲載されている作句信条のなかで、「俳句の固有性を緩めるのではなく、それを突詰めてこそ、普遍的な詩情に到り得るのだと私は考える」と述べている。

掲出句、二句とも下五に注目したい。この「泥になる」、「離れざる」が、俳句の詩情である。雪が泥以外のものになったり、家並が道を離れてとんでいったりはしない。俳句の詩性は、言葉と事物の表層に宿る。また、一句目の中七の切字「や」のはたらきに注目したい。ことに係り結びが効いている。切字の前に置かれた「うつくし」は、「雪」にも「泥」にも掛かっているのだ。雪は泥に変容したが、美は変容しないのである。

  飯 粒 の ね ば り 強 さ よ 雲 の 峰   日原 傳

飯粒の質感を捉えた句というと、星野立子の〈水飯のごろ\/あたる箸の先〉を思い浮かべる。立子の句は一物だが、掲句は取り合わせである。立子の句が〈ごろごろ〉と〈箸の先〉により水飯の質感を表しているのに対し、掲句は中七〈ねばり強さよ〉の一語のみで、あとは季語〈雲の峰〉に託している。

この飯粒は、炊飯であろう。お椀の中に盛られたご飯を箸で一掬いするのは、いともたやすい。しかし、その一口大に切り取られた飯粒の塊を、口に入れたときのねばり強い食感に、快く裏切られる。脆さと同時に塊としての存在感をもった飯粒と、大空に白塊として崩れていく雲の峰が響き合っている。

〈もの〉の質感を感得することは、俳句を読む快感の一つだ。即物的であることは、生の歓びをもたらす。そして、形骸化した意味を越えて、未だ名付けられない、具体性のなかにある意味を捉える。これもまた、俳句独特の詩性である。世界の豊かさをひたすら詠むことで、自分の存在が軽くなる。自由を感じるのだ。

  く み お き て 水 に 木 の 香 や 心 太  高田正子

姿正しい句である。それは、言葉の構成がしっかりしているということ。この句がわれわれに与える感動は、詠まれた内容に依るのではない。言葉によって再構成された現実が、ふだん見慣れているのに気付かなかった景のもつ隠された意味を顕現させているからだ。こうした事物の現前性は、俳句という形式においてもたらされるものだと言っていい。

俳句を書くとは、現実の世界をそのまま書き写すことでもなく、事物のあるがままの姿を描写することでもない。現実の世界では見えなかったもの、事物の存在を感得できなかったものを、〈言葉〉によって現実を再構成することでもう一つの世界、事物をつくりあげ、見えるように、感得できるようにすること−−なのである。

俳句はことばでできている、ということ。ごくあたり前の認識かもしれないが、言語空間において俳句という詩型を十全に働かせ、その詩性をどう活かすかということを考えることが、現代俳句ならびに「俳句とは何か」という問いへの出発点となるのだろう。




4 コメント:

匿名 さんのコメント...

ひきつづきのサバービア俳句の記事、とても興味深く読みました。
>『俳句研究』2006年8月号で「新・現代俳句集成」
これは、昨年の俳句研究の記事、ですよね。図書館にあると思うので読んでみます。

>〈もの〉の質感を感得することは、俳句を読む快感の一つだ。即物的であることは、生の歓びをもたらす。そして、形骸化した意味を越えて、未だ名付けられない、具体性のなかにある意味を捉える。これもまた、俳句独特の詩性である。世界の豊かさをひたすら詠むことで、自分の存在が軽くなる。自由を感じるのだ。

>この句がわれわれに与える感動は、詠まれた内容に依るのではない。言葉によって再構成された現実が、ふだん見慣れているのに気付かなかった景のもつ隠された意味を顕現させているからだ。こうした事物の現前性は、俳句という形式においてもたらされるものだと言っていい。

現代の575の魅力にはまった人間として、まさに共感します。
一見、絵にも物語にもならないような日常を掘り起こして、人の心に、やさしいフックのようにひっ掛かる。

一方で、物足りなさもそこにあるかと。
平成俳句をフツウに読んだ印象でしかないのですが(つまり言葉や句の持つ概念を解体して分析した結果ではないのですが)自分達の世界をやさしく撫ぜまわしているように思える。
何句も読んでいると、だんだん言葉が浮遊します。自分達のガラスの城を作り上げている。
(ここで、「ことばによる、ことばの俳句」という解釈と妙にリンクするのですが)

「精神を高める」ことに価値観を置いていないというのは、どの時代にもあったことではないか、とも思います。それは、前の世界の価値観から自由になろうとするとき、自由に新しく自分達の芸術を作ろうとするとき必要な意思だと思う。
そもそも「精神を高める」ことを目的とした芸術なんて胡散臭い。

ただ、それはイコール「ワタクシ達の世界への無批判」の肯定ではありません。「この日常っていいよね」のウラには、同時並行でまったくそんな余裕の無い日常が流れている。そのことを正面から見ようとはしていないように思えます。

正面から見てこの世界への意見を固めるべきだという社会性俳句のようなことを言っているのではなく、そういう姿勢は、同じ顔をした「ぼくたちわたしたち」の袋小路にならないか、と思うのです。

そういうことに気をつけて俳句をつくっていこうと、私は考えています。

匿名 さんのコメント...

どうも、コメントの言葉がむき出しでお恥ずかしい。フォローのコメントを出させていただきました。

上記コメントの「精神の高さ」論は、前回のサバービア俳句(2)の記事のコメントからとった内容です。

そのときの天気さんのコメント
>サバービア俳句は、それゆえ、俳句分野の話ではなく(すなわち、俳句のカテゴリーではなく)、それ以前に、私たちが2007年時点で、どんな過去・現在・未来に規定されているのかといった包括的な問題と捉えています(硬い書き方ですね、すみません)。サバービア俳句は、そうしたふわっと大きなテーマの、ひとつの「相」として見出されるものだと思います。

その通りだと思います。その上で、歩いている道に、私は疑問の石を投げております。

そのコメントで天気さんの述べている通り、オンライン・現在進行形でお話を進めていけるのがとても面白く思います。どうぞこれからも宜しくでございます。

さるまる さんのコメント...

匿名さん
返信遅れましてすみません。
(週刊俳句の不熱心な読者ということがバレますね。)

貴重なご意見ありがとうございました。

> ただ、それはイコール「ワタクシ達の世界への無批判」の肯定ではありません。「この日常っていいよね」のウラには、同時並行でまったくそんな余裕の無い日常が流れている。そのことを正面から見ようとはしていないように思えます。

> 正面から見てこの世界への意見を固めるべきだという社会性俳句のようなことを言っているのではなく、そういう姿勢は、同じ顔をした「ぼくたちわたしたち」の袋小路にならないか、と思うのです。

重要なご指摘だと思いました。
平成俳句における、いわゆる「日常性の復権」というものが、ご指摘の部分まで捉えているかということに疑問が残るというのは、よくわかります。

ただ、ひとつには、日常というものの質的変化があるのではないかと思います。
恋愛の諸々の恍惚の瞬間とか、芸術の諸々の美的体験などの、われわれを精神の高みまで連れて行ってくれる「特権的な時間」と対置される、「有限で無目的なくだらない時間」としての日常、という図式は、すでにここにはないと思うのです。

もちろんそれは、日常の「小さな、ささやかな幸せ」を捉え、現状肯定するという意味でもありません(それは前述の「図式」に組み込まれているものですから)。

ポスト・モダン以降の平成俳句にみられる日常性は、もっとポジティブで、切実なものだと思います。「この日常っていいよね」ではなく、日常の変容をとおして、「『ぼくたちわたしたち』の袋小路」から逃れ、世界とのつながりを回復するような試みではないかと思います。

ただ、おっしゃるとおり「『ぼくたちわたしたち』の袋小路」への危険性も十分にあります。内輪受け、という意味だけでなく、わたしたちが生きている現実の閉塞感というものをひしひしと感じています。「サバービア俳句」と言いだしたのも、ひとつには、俳句を〈外〉へと解放して、同時代的感性とのつながりをもっと意識したい、しなくてはいけないのではないかという思いがあってのことです。

まとまりませんが、今後ともよろしくお願いします。

匿名 さんのコメント...

お返事ありがとうございます。もともと私の感覚的な疑問からコメントしていましたので、お返事、とてもありがたく読みました。

>ポスト・モダン以降の平成俳句にみられる日常性は、もっとポジティブで、切実なものだと思います。「この日常っていいよね」ではなく、日常の変容をとおして、「『ぼくたちわたしたち』の袋小路」から逃れ、世界とのつながりを回復するような試みではないかと思います。

とても腑に落ちました。
いわゆる「平成俳句」といわれているアウトプットばかり気にしていたのですが、「試み」の一つとして考えると、たくさんの可能性が広がりますね。

>俳句を〈外〉へと解放して、同時代的感性とのつながりをもっと意識したい、しなくてはいけないのではないかという思いがあってのことです。

同世代とのつながり、という試みも、新しい可能性として気づかせてもらいました。

今後の企画も楽しみにしています。