2007-10-28

リハビリ開始 松本てふこ

リハビリ開始 ……松本てふこ


問=こわいもの、こわい状況がありますか?
答=毎日がなんとなくこわい。何が一番こわいかというと、それはなってみないとわからないな。
(「吉岡実氏に76の質問」より、『現代詩文庫14 吉岡実詩集』思潮社、1968年)

今まで帽子でかくされた部分
恐怖からまもられた釘の箇所
そこから充分な時の重さと円みをもった血がおもむろにながれだす
(「過去」より、同上)

わたしはいつも考える
ドアのノブのやわらかい恐怖
(「滞在」より、同上)
 
吉岡実について分かったようなことを書こうとしたが、いやむしろここは分からなかったと正直に書くべきだ、と思い直した。

詩を読んでも分からないことは怖い。いや、詩を読むときにどんなことをどれほど分かっているべきなのかが分からない、それが怖い。本当のことを言えば、私は詩を通して人と交流するのが怖い。

大学一年の頃、非常に良くしてもらった年上の詩人から田村隆一の『腐敗性物質』を借りた。

読み始めたら頭が混乱して、苦しかった。そのことを友人に話すと「詩とはそういうものだから」と言われた。どこか失望したような表情をしてそう言われたので、私はああ、自分は「分かっていない」ようだ、と直感してさらに頭が混乱した。この本を読み終われば、詩とは何か分かるのかもしれない、というか、この本を読み終わらないと、きっと私は彼に友人と認めてもらえない。そう思うと、私はこの本を読み終わらなければならなかった。

読み終わったときは借りてから一年以上経っていた。だが達成感は皆無で、何も分からなかった。一語一語をかみしめて読んでも、それをつなげるポエジーの在処が分からない。「どうやら読み終わったようだ…」と他人事のようにとらえていた。気合いを入れて読んでいたはずなのに、読むだけで精一杯で、返すときに彼に感想を問われたが、ひどくお粗末なことしか言えなかった。

本の内容はほとんど覚えていないのに、少し汚れたクリーム色の表紙を開くときの何とも言えない重苦しい気持ちは今でもはっきり思い出せる。

彼はその後も詩集を数冊貸してくれたが、どれも読み通せなかった。彼とは今も年賀状のやりとりをするが、詩の話はしない。

「俳句と詩の会」のお話を頂いた時、面白そうだなと思ったけれど、恐怖も感じていた。私の中のもう一人の私が「お前はまた読むだけで何の感想も持てず、『はあ』とか『そうですね』とか相づちを打って終わるんだろうが!!」と悪態をつく。

そうだね、きっとその通りだね。恥かいてるとこしか想像できないよね。まあでも恥かいて得られるものもあるだろうし、他の人がしゃべっているのを聞いたら、何かしゃべりたくなるのかも?…そう考えてみようよ、ということになった。自分の中で。

吉岡は読んでも、苦しくならなかった。むしろちょっと可笑しかった。

「僧侶」の「一人は死んでいてなお病気」とか、「下痢」の「歴史の変遷と個人の仕事の二重うつしの夜にまぎれて /僕は下痢する」とか、シリアスなのに笑ってしまう言葉のせいだろうか。

ふんだんに盛り込まれたエログロ描写にも心和まされた。

卵や球形へのこだわりを知って「あ、桃」「あ、テーブルの円」「わの字ってちょっと球形を思わせるな」などと詩の中に球形のものを探して喜んだりした。死者を実にいきいきと描いているけれど、これは俳句では出来ない、と思った後で、じゃあ何で出来ないと思うんだろう、と考えたりもした(まだ考え途中だけれど)。

あと、恐怖に関する、または恐怖を感じさせる描写が何となく心に残り、冒頭に抽いてみた。毎日がなんとなくこわいという感覚には非常に共感するところがあった。いつの頃からか一句の中に閉じ込めたいと思い続けているけれど、出来ていない。やっぱり、共感を抱けると一気に詩が近しいものになっていくんだな、と思う。これは進歩だろうか。

そんな訳で、私は今、詩を読むためのリハビリ中なのである。分からないなりに卑屈になりすぎず読んでいこうと思っている。当面の目標は『腐敗性物質』の真の読破だ。



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