2007-10-28

中村安伸 多面体

中村安伸 多面体


千葉は春高速道を空に架け
春塵のすべて光りぬ狡休
君よりも僕が愉しく青き踏む
春は曙肛門に湯を当てる
如月の湯気をみだして女の手

卒業子卵のごとく集ひをり
一生を棒に振らんと野遊びす
たんぽぽや友より取りし手数料
花鳥皿降ることもなき春の雪
飯田龍太たること春の山のごとし

大学も動物園も朧かな
毛を刈られ羊は多面体となる
春昼の村よりぬつと種子島
仲春の城を枕に寝過ごしぬ
九州に文鎮を置く桃の花

菜の花や速達の印ぬらぬらと
風光る仏足石に水の壜
三叉の銀の食器や花曇
花人のけもののやうに煙草吸ふ
花衣脱いでゐるとき行進曲

闇を吸ひ光を吐けり夜櫻は
花人を墓石のうらへ導ける
印に彫る文字を選びて遅日かな
花散るにかかはりのなき球技かな
十薬のかがやく路地を人力車

漢方薬局漢字多くて水引草
テーブルをパスタごと拭く水の秋
コスモスや働かずして美男美女
暗黒大陸の写真を壁に冬館
冬館ひねもす猫は移動して

太りたくなつて太りぬ冬の猫
冬ぬくしバターは紙に包まれて
健康な裸木がある総武線
からつぽの関東平野冬茜
取りかへしのつかぬ北窓塞ぎけり

暖房や絵硝子の濃き緑色
暖房やけものは夜の耳使ふ
ぬるぬると冬の陽のあり観覧車
絨毯に落ちて掃かれる冬の蝶
猟犬の緋の絨毯を深く踏む

六法の紙の薄さよ冬木立
海抜十メートルの寝室寒に入る
寒月を歌舞伎の人のあやつれり
雪の夜の組立式の茶室かな
急行列車過ぎてふたたび雪催

猫は尾を塔のごとくに日脚伸ぶ
イタリアの靴買ひにゆく四温かな
尖塔の影に寒鯉沈むかな
初芝居晴れ着の女海老に見ゆ
国宝のあまり動かず初芝居




7 comments:

匿名 さんのコメント...

一読よく吟味された作品と感じた。今を詠もうとしている作者の姿勢に好感。

読んでいる途中ふっと脱力したいなぁという感慨も。

以下好き句。

春塵のすべて光りぬ狡休
毛を刈られ羊は多面体となる
暖房やけものは夜の耳使ふ
猟犬の緋の絨毯を深く踏む
六法の紙の薄さよ冬木立

上田信治 さんのコメント...

映像が確か、言葉が確か。

 千葉は春高速道を空に架け
 花鳥皿降ることもなき春の雪
 毛を刈られ羊は多面体となる
 仲春の城を枕に寝過ごしぬ
 九州に文鎮を置く桃の花
 コスモスや働かずして美男美女
 冬ぬくしバターは紙に包まれて
 健康な裸木がある総武線
 暖房や絵硝子の濃き緑色
 ぬるぬると冬の陽のあり観覧車
 絨毯に落ちて掃かれる冬の蝶
 寒月を歌舞伎の人のあやつれり
 イタリアの靴買ひにゆく四温かな

じゅうぶんに俳句の型を使って書きながら、どこか、俳句のオーソドキシーとはかけ離れたところがあって、どこが違うんだろう。うん、やっぱり、自由なんだな。

「だれか先生に見せている」っていう感じが、ぜんぜんしないもの。

「今後俳句が、どのように推移してゆくかよりも、私自身がどのような表現をしてゆけるかが重要である」(『21世紀俳句ガイダンス』1997)と、かつて書いた人ですから。俳句のためではなく、自分のために書いている。

当り前? いや、そうでもないと思う。

自分一人のために書く人は、孤独鬼みたいになりがちなんだけど、この人には、なんだか向日性があって(それはこの人が獲得したもの)、そういう意味で、とても安心です。

「先生」的な価値から自由ってことが、評価されにくい、ということだとしたら、残念。

でも、そんな俳句が「どのように推移」しようと、どうでもいいという気にもなりますね。

さんのコメント...

好きな句
春塵のすべて光りぬ狡休
光に巻かれた狡休みの浮遊感。明日のことなど知らない幸福感。

冬ぬくしバターは紙に包まれて
冬日と銀紙の二重包装。融解寸前のバターは象徴でしょうか。

からっぽの関東平野冬茜
影絵に過ぎない現実。そう考えれば、なるほど、からっぽかも。

「肛門」、「卵」、「手数料」、「多面体」、「美男美女」、「海老」などの言葉群に、全体として混沌とした印象を受けました。

匿名 さんのコメント...

・朝比古さま

「よく吟味された」と言っていただき大変光栄です。ところで、

>読んでいる途中ふっと脱力したいなぁという感慨も。

これは、よくご指摘を受ける欠点なのですが、なかなか解決することが難しく、悩んでいます。
ご指摘ありがとうございました。


・上田信治さま

まことにありがたいコメントで、感激いたしました。
はからずも十年前の自分のコメントに出会い「まず自分という読者を喜ばせたい」という点はかつても今も変わっていないということを確認できました。
ではなぜ賞に応募したりするのか、というご指摘を受けることもあります。
まず、自分のために書きながら、それが他の人たちとも共有できれば最高、というわがままなことを考えているからでしょう。
もうひとつは、逆のことを言うようですが、他者の評価など気にしないと殊更言うのは、逆に他者の評価を気にしすぎているからなのではないか、ということです。
このことを述べると長くなりそうなので別の機会にいたします。

ともかくもありがとうございました。


・桜さま

好きな句に挙げていただいたものはどれも思い入れの深いものです。

>全体として混沌とした印象を受けました。

連作としての統一感に欠けているのは大きな問題点だと思っています。
ご指摘ありがとうざいました。

匿名 さんのコメント...

春塵のすべて光りぬ狡休
大学も動物園も朧かな
菜の花や速達の印ぬらぬらと
冬ぬくしバターは紙に包まれて
健康な裸木がある総武線
暖房やけものは夜の耳使ふ
ぬるぬると冬の陽のあり観覧車
猟犬の緋の絨毯を深く踏む
六法の紙の薄さよ冬木立

あたりが好きでした。

比喩や見立てで狙いに行っているものよりも、手触りや匂いを再現してくれる句が心地よかったです。

匿名 さんのコメント...

中村安伸様

 鮟鱇といいます。玉作拝読しました。ベルグソンはズレに笑いの源泉を見出していますが、中村さんの句、ズレの切れ味がいいですね。俳句には、付き過ぎず、離れ過ぎずの議論があるようですが、中村さんの句を知り、離れ過ぎでも笑えるなら、離れ過ぎではない、そう思えます。
 
千葉は春高速道を空に架け
  それは千葉だけじゃないでしょう、とあげ足を提供してくれているところが面白い。
毛を刈られ羊は多面体となる
  畜産と数学の学際俳句。
君よりも僕が愉しく青き踏む
  君は女性なんでしょうね。彼女のつまらなそうな顔が眼に浮かびます。
如月の湯気をみだして女の手
  混浴ですか?
春は曙肛門に湯を当てる
  ウォシュレットですね。
たんぽぽや友より取りし手数料
  たんぽぽと手数料、不可解なことが起こる現代の世相の風刺ですね。
花鳥皿降ることもなき春の雪
  季語の混乱と終焉の象徴、風刺に読めます。
飯田龍太たること春の山のごとし
  なんとなく、そうですね。

菜の花や速達の印ぬらぬらと
ぬるぬると冬の陽のあり観覧車
  二句を並べてみました。「ぬらぬら」と「ぬるぬる」の使い分けが面白い。

花衣脱いでゐるとき行進曲
  慌てますね。
闇を吸ひ光を吐けり夜櫻は
  恐ろしくまっとうな句ですね。
花人を墓石のうらへ導ける
  そして、何をするのですか。
印に彫る文字を選びて遅日かな
  
花散るにかかはりのなき球技かな
  この句、季語を虐待しているとしか思えません。
コスモスや働かずして美男美女
  私は、美男ではなかったから働かなければならなかったのでしょうか。
太りたくなつて太りぬ冬の猫
  人に人権。猫に猫権。
健康な裸木がある総武線
  小田急線の裸木が不健康に思えて面白い。
からつぽの関東平野冬茜
  美しい。
絨毯に落ちて掃かれる冬の蝶
  「掃かれる」がいい。川柳の富を俳句への感じもします。
猟犬の緋の絨毯を深く踏む
  緑の絨毯でないところがいいですね。猟犬を居間で飼う世相。
猫は尾を塔のごとくに日脚伸ぶ
  描写秀逸  
初芝居晴れ着の女海老に見ゆ
  海老:お節料理の余韻
国宝のあまり動かず初芝居
  国宝は、あまり軽々しく動いてはいけないのだと思います。

 一部はしょりましたが、楽しい五十句でした。改めて、句集のタイトルが「多面体」であることを思います。
多面体を二句一章的に表現すれば、中村さんの作のようになるのかと思います。

    漢俳・讀中村安伸先生之玉作有感作一首

 佯病探春回。家山花散緑將肥,紅塵映落暉。 (中華新韻五微)
   病(やまい)と佯(いつわ)りて春を探りに回(かえ)る
   家山(=故郷)花は散じて緑まさに肥えんとし
   紅塵 落暉に映ず

 原玉:春塵のすべて光りぬ狡休

民也 さんのコメント...

発句 九州に文鎮を置く桃の花 中村安伸

付句1 歯舞諸島を画竜点睛 民也

付句2 ムネオハウスをルーペで探す 民也

うーん。ベタで付き過ぎか?