2007-10-07

ディスカッション 高浜虚子を読む

ディスカッション 高浜虚子を読む


遠山に日の当りたる枯野かな
村上「なんとも言いにくい。いかにも俳句。自然と正面から向き合っている」
神野 「龍太が、この句について「句碑にならない句」と書いていて、たしかに、特定の場所を必要としていない句。それは、普遍的な単語ばかりで組み立てられているからかもしれない。目の前にある景だけど、こちら側でもあちら側でもある。ここに無さそうなものを呼び起こされるところが好き」
高柳「たぶん、この句を面白いと感じる価値観は、人間に生来ある感覚からは生じえない、たとえば無垢な子供にとっては面白くないはずだと思う。近代の「俳句的なもの」自体の成立に、虚子の評価が深く関わっている。言い換えれば、この句をふくんで成立している、ある評価基準によって評価されている句だと思う」
三木「すごく人工的。新しい西洋的な物の見方、たとえば遠近法とかを野心的に取り入れようとしているのか」
高柳「信治さん、この句、好きでした?」
上田「すごい好き。空間の見せ方があざやかで。〈遠山〉を先に見せて、〈枯野〉を後から言って、こう視線が降りてくる、で、日の当っている〈遠山〉、あるいは空間全体をもういちど、見せなおすという、このあざやかさ。ここには、ひらけた空間、いい景色という生理的な快感があると思うんだけど」

大海のうしほはあれど旱かな
村上「さいきん日照のように暑かったので、特選にしました」
上田「ぼくは、これ、分らない。面白俳句なんですか?」
村上「理屈を言っているようにも思えますが、それを消すようにして海の青さが迫ってくる」
高柳「岸本尚毅さんが、この句を高く評価していて、よく、この句について発言しています。さいきんの岸本さんの句にもこういう傾向のものがあって、天の川の中を流れ星が流れる、なんていう句を平気でつくってしまう。
たしかに理知の句ですが、こっちのほうが〈遠山〉の句に比べて、全く俳句を知らない人にも、分かりやすいおもしろさだと思います。理屈とか理知のほうが、人間の原初的な「感動」っていうんでしょうか、そういうものに近いと思う。景色に感動するとか、人間の理知に越えた自然に感動することのほうが現代的な感覚であって、江戸時代以前には、理知的なものに詩情を感じていた。詩情のあり方がちがうんです。虚子は、一部に江戸俳諧の影響を色濃く残していて、前時代的なものをひきずっていたと思う。その端的なあらわれ」

桐一葉日当りながら落ちにけり
杉本「こうして虚子の句を一気に大量につづけて読んでいると、この句の独特のおさまりのよさが少しわかる気もした。桐の葉が日と影の両方をまとう動的なわずかな時間を、無時間の一筆が描きとめたというか」
佐藤 「流れ行くものを、切字で切ることによって、景を提示している」
神野「ばかばかしいというか、けっきょく桐の葉が落ちてるだけなのを、じっとみてるところがおもしろい」
上田「〈桐一葉〉には、文学的含意があるわけですけど、ぼくは、この言い方のひらひらしてるところが面白くて、〈桐一葉〉の含意がじゃまに感じる」

鎌倉を驚かしたる余寒あり
佐藤「国木田独歩が「喫驚(びっくり)したいというのが僕の願なんです」「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」ということを、小説の登場人物に言わせている。ロマン派から移行する際に「驚く」ということがリアリズムにとって重要だった。しかも〈鎌倉〉という、普遍的な最大公約数的なものが、ここでは驚いている」
上田「これ、リアリズムじゃないんじゃない? 既存の情緒+レトリックで」
佐藤「その実感とレファレンス的なものとの差違が、現在と過去の落差に驚くことで、そこにリアリズムの嚆矢がある」

葡萄の種吐き出して事を決しけり
手塚「葡萄の種を吐き出すときに、思い出してしまいそうな、口誦性、独り言のような、思い出しやすさがある。たいした決意じゃないというところも、面白い」
神野「虚子は、こういう句では、サービス精神をもって演じていると思う」

大空に又わき出でし小鳥かな
神野「〈遠山〉の句と同じく、言葉はすごい簡単でそのまんまなんだけど、小鳥が出たり入ったりすることで、大空が大空なんだなあという感じになる。大空が動かなくて小鳥が動いてるのが、生命全てにあてはまるのがいいのかな」
佐藤「〈又〉というのは、過去の回帰する驚き。虚子がなぜ、季語を手放さなかったか。季語は回帰する物だから。だから過去と現在の落差に驚ける。配合の句じゃないことも、人工性じゃなくて、リアリズムを指向している」

雪解の雫すれすれに干蒲団

高柳「詩的なものと卑俗なものの対比ということかな。こういう対比をやってしまうところが、虚子の、なかなか近代になりにくかったところで、愛すべきところだと思います」
上田「白くて質感の違う物が、日光と雪と蒲団の三つある。その中に水分と乾燥、熱と冷たさが交錯していて、非常に読みどころの多い句だと思う」

晩涼に池の萍皆動く
村上「美しいんですけど、じっと見ていると、その動きが不気味に思えてくる。「や」じゃなくて「に」としたところも不気味」

白牡丹といふといへども紅ほのか
高柳「さっきも言った理知の句としての評価です。現代俳人なら〈いふといへども〉をけずる。古俳諧には、青といえども唐辛子、とか、こういう否定表現がけっこうあって、こういうものも、現代俳句が失ってやせてしまったものの一つだと思う」
上田「飯島晴子が、この句をふくむ虚子の代表句について、伝統芸能に見られるかたちの美しさ、上質な気どりの感覚というようなことを言っていて。これは、虚子のかっこよさを代表する句」

われが来し南の国のザボンかな
高柳「自意識の句だと思う。俺が来た国のザボンだという、ロマンがあっていい。波郷が好きだった句」
村上「波郷はこの句を、黒板に書いて卒業したという逸話がある」
神野「でも、卒業の句じゃないですよね(笑)」

流れ行く大根の葉の早さかな
白鳥「この句は、〈大根の葉〉に、自分の中の喪失感を寄り添わせたのだ、という、高校時代の寺山修司の解釈を読んで、そうかなと」 
佐原「その寺山の解釈は詩人的すぎるかも」
上田「この句がすごく語られるのは、そのあまりのそっけなさ、運動しか書いてないことにみんな驚いたんだと思う。」
手塚「この句は〈大根〉だからいい(一同驚)。人参だったらダメ。〈大根〉という重さがある野菜があって、その葉っぱに注目するから、早さが強調される」
神野「〈大根〉って、ちょっと悲しい感じ、味もすくないし。ここの野菜は、何でもいいようで、なんでもよくない」
佐藤「切字で、文字通り下に流れていくものを切ってる。情景でもなく抒情でもなく」
高柳「さっき手塚さんや、神野さんが言われていた〈大根〉そのものがイメージとして浮かぶというのは、面白い話で、山本健吉が俳句には、時間性がないみたいなことを言っていて、飯島晴子も似たようなことを言っていたかな、十七音を字で読むとき全体がいっぺんに目に入ってしまうから。ただ、それを頭から読み下していくものだとすれば、いっしゅん、大根がうかんで、葉の早さと対比が出る。
虚子は謡曲の家に生まれたんですが、虚子の残した朗読の録音を聴くと、謡のようにゆっくり読んでいる。だから、ゆっくり読むのが虚子の句としてはいいのかもしれない」
佐原「後期の虚子の句は、うしろに時間が隠されている句が多い。すごく時間性が出てくる」

石ころも露けきものの一つかな
杉本「このあたり、少し好きですね。<露けきもの>が生きてる」
三木「説教くさくないですか」
佐原「この〈露〉に、儚さの象徴という意味が含まれてるかどうかですね」
上田「あと〈一つかな〉の解釈で、ぼくは、庭かなにか見える範囲ぜんたいが露にぬれていて、〈石ころも〉と、とるけど」
杉本「ぼくも、そうとってしまったけれど」
三木「自分を〈露けき〉と言ってるかと思って、なんといやみな、と」
白鳥「ぼくは、そっちでとりました」

炎天の空美しや高野山
村上「なにも言ってないのに忘れられない。下手といえば下手な句で、天と空が重なるし、ストレートに〈美し〉とかいってるし」
高柳「〈高野山〉きいてるんですかね?」
上田「効いてるでしょう!坊主の頭がいっぱいあって、そこに日がかーっとあたって(一同笑)。で、結果、空はめらめら燃えてるのに、高野山はヒンヤリしている」

春の浜大いなる輪が画いてある
佐原
「輪が本当に描いてあったというよりも、海の持つある種時間的な大きさを、景色から〈輪〉というかたちで作為的につかみ取ったのではないか。写生というよりは、景色の向うから「大いなる時間的なもの」を引き出すというか感じとっており、そこに虚子の個性がある」
     
酌婦来る灯取蟲より汚きが
三木・杉本「これは笑ったよなー」
高柳「これは、いい。いまは差別とか、うるさいことを言う人がいますけど」

蝶々のもの食ふ音の静かさよ
白鳥「たとえばキッチンがすごく静かな時、鍋が静かかというと、静かな鍋というふうには思わない。ほんとうに静かな景色の中には、静かなものはない。
静かな景色っていうものがあって、それを感じてそれを書く、そのとき、〈もの食ふ音〉が〈静かさ〉の発信源というように感じられたんじゃないか。〈静かさ〉が、そこに集約されて、全体にひろがっていく。逆に〈蝶々〉が〈もの喰ふ〉ときは、世界が静かになるんだというように。時間性がないというより、時間をとめてしまうような魅力がある」
高柳「蝶は蜜を吸うわけですが、それを〈食ふ〉と言ってしまうところに、虚子の大きさがある。小さな、せせこましいものを、大きく表わしてしまう豊かさ」

手をこぼれて土に達するまでの種
手塚「萩原朔太郎の詩、てのひらのうえで花を育てるみたいな詩を、思い出して好きだった」 
神野「蒔いたというより、蒔こうとおもって手においてたら、あ、落ちた、という。短い時間をスローモーションのように延ばしている。種を最後にもってきてるのも、種を見せたいというねらいがよく分る」 
白鳥「ぼくは、ちょっとちがって、種目線で(一同笑)本質を書いたのかと。土にもぐってこそ、種の本領なので、ここに書かれた落ちるまでは、種にとっての「種」の時間。そこが面白いと思いました」

箒木に影といふものありにけり
杉本
「<箒木>も、<影>も、あるかないかわからないものをとらえて、異様に美しい、静かな立ち姿。写生もつきつめれば、単なる写生じゃなくなり、地上から浮き上がるというか、虚子が花鳥諷詠ということを言った怖ろしさの、ひとつの極点だと思う。<箒木>という言葉の歴史的価値にとどまらない、この句でのみ実現されたプラスアルファがある」
佐藤「やっぱり、〈箒木〉からは、新古今のようなレファレンスを想像する。子規がレファレンスから生じる月並みを否定したことを、虚子は丸ごと受けとらなかったということの代表。
同じ<影>の句でも、近世、例えば其角の〈名月や畳の上に松の影〉を読むと、<この私>が見ているという実感、はかなさ、たよりなさが感じられない。その叙景はスタティックであるように思う。虚子はそれとは違う。
<影>に驚く虚子は、季節の推移をプレテクストに即した句で詠みそれを共有する共同体のなかで安寧しているように思えない。ここでの驚きは、そのようなプレテクストをベースにした共同体には埋没しえない自分が、移ろいやすい影をみているという<孤心>がある。
ノスタルジーの字義通りの意味「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることがかなわないかも知れないという恐れを伴う病人の心の痛み」を読み取ることが可能であると思う。その意味で虚子は単純な中世回帰の俳人ではないし、また子規のようなある種密室的実験性とも異なる。いわば前者と後者のあいだに引き裂かれた<孤心>をこの句では<驚き>として詠んだように思える。
過去にあった、あるいは自分がいた共同体から切り離されているという<孤心>を逆説的な共通項とするのが国民国家という共同体であるから、虚子の<驚き>は実は国民大衆と共有することが容易。ゆえに虚子は、季節によって国民に等しく回帰してくる<孤心>を、<影>のような叙景で詠むことで、自身の句は国民一般に共有される抒情性をもつという確信があった。その確信によって虚子は作家から国民作家になったのだと思う。
あるいはもう自身がそこにいないあるいは忘却されたところの過去を季節によって例えば<驚き>として<リアル>に召還する俳句を虚子は<国民>に回帰するオブセッションとして位置づけていたのではないか。」
三木「回帰してくるものって言ってたけど、二回目に人がみつけるものっていうのは、すごく大きい。でもこの句にはこれ以後、何も重なってこない。一回きりの、言ってやったぜ!という句。すごい抒情性がある」
上田「〈箒木〉の抒情性?」
三木「〈影〉の抒情性」
高柳「写生は描写じゃないということに気づかせてくれる句。なにも具体的な描写はないけれども、〈箒木〉のあわあわとした存在感と、うすい影がよく見えてくる。ことばの使い方ですよね。あと、ここは〈箒木〉のような、古典的情緒をおった季語じゃないと、おもしろくない。虚子は俗的なものがよくわかっていた。そこが、子規の理論先行のボンボン的な発想と違うところで、大衆が俳句に求めているものは何か、という、ウケどころのようなものが、よく分っていた」
上田「それは、自分の感覚のツボをはずさないってことじゃなくて?」
高柳「自分の感覚か、意識されたものなのか。生来のもので作っていたのか、必要があって作っていたのか。虚子にとって俳句はお家芸ですから、ちゃんと人にウケなきゃいけない、という、子規とは違った必要性に迫られていた。子規には、俳句を革新しようということだけがあって、ビジネスとかそういうことは考えてなかったんで、はっきり言って、子規の俳句はおもしろくない」
上田「ただ、大衆性っていうのものこそ、才能そのものであって、もともと自分の中に大衆性を持ってない人がやろうとしたってできないと思う」
高柳「それはそうかもしれません」
神野「人を喜ばせるのが好きな人だったのかも、いろんな句があるし。サービス精神が旺盛な気がします」
佐原「でも彼はそんなに「人のため」に書いてたんでしょうか。人は埃のように死ぬもんだ、みたいなことをさらっと言うのを見ると、疑わしくも思えますが」
神野「いや、それは綾小路きみまろとかも言うし。じゅうぶん、うけねらいだったのかも」

旗のごとなびく冬日をふと見たり
上田「これ、すごい好き。語順がおかしいんです。起こったことの順番通りに書くのなら、ふと見ればー冬日はー旗のごとなびく、と書くのが、人間の認識の順番として正しい語順なんですけど、〈旗のごとなびく冬日〉っていう幻想的視覚像がまず提示されて、〈ふと〉見た瞬間、その幻想の中にがーっと主体が引っ張り込まれていく。言い方によって、すごいマジックリアリズムみたいな事がおこっている」
高柳「これ眼目は〈旗のごとなびく冬日〉につきてるんですけど、そのあと〈ふと見たり〉と、重要であるはずの最後の納めかたが、こんなだっていうところがね」
上田「うん、単に、大事なことから順に言っていった結果なのかもしれない。ただその結果が、おもしろいことになってる」

もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭 
杉本「やはり写生の極まりを感じる。あえていえば、発句する自分自身までをも否応なく見てしまうというか、その心が静まっているところを見つめる、見つめるしかないという、一句のかかえた無時間のひろがりのようなものを感じる。
子規から虚子、虚子から尾崎放哉につながるような、あるいはひょっとして西行なんかにもつながるような、そんな接線がもし引けるとしたら、そうした日本語の一行における写生の、あるひとつの本質を考えさせるものがあると思う。<生涯の今の心や金魚見る>も、その意味ではストレートに、見つめる心のひろがりが見えて、おもしろかった。ただ、この<秋の蔭>の句は、句自体の陰翳が深々としていて……。このあたりが、ぼくがいちばん好きな何句かでした」

手毬唄かなしきことをうつくしく
村上「そっけないおおざっぱさ。でも〈かなしきことをうつくしく〉という曲折を持たせて言ったところが、いいんじゃないですか」

大寒の埃の如く人死ぬる
佐原「何かをわかっちゃってる句という感じ。虚子の幅の広さ、と言うよりふてぶてしさがよく出ている」
杉本「その横(大寒の見舞に行けば死んでをり)も笑えるよね、このへんからギャグがね。〈営々と蝿を捕りをり蝿捕器〉もおかしい」
高柳「これは、そんなに面白いと思わない。中世的な無常観からすれば、いまさら、というかんじ」
村上「埃に無常観といった意味的なものを託してるのかなと思うと、あんまりそんなこともない」
神野「人は埃、自分神、みたいな目線があるような気がしておもしろい」
村上「冬の日差しに浮かぶ埃って綺麗ですよね」
高柳「人のはかなさを、塵にたとえるのはよくあるけど、〈埃〉というのが、新しいのかな」

よろよろと棹がのび来て柿挟む 
上田「〈柿〉にまつわる情緒はなにもないけど、青空を見せる句ですね。これは、語順の通りにものが起こるところがおかしい」
神野「4コママンガみたい」

我が生は淋しからずや日記買ふ 
三木「歌謡曲みたいな感じで、とっちゃった」
神野「ここまで、べたにやられると、、、日記買っちゃうかも(笑)」 
佐原「虚子だから読ませる句ですね。〈わが生は淋しい〉とかいうことを、ベタかもしれないけど、わりと強固に思っていた人だったんだろうと思わせる」
神野「〈吾を神かと〉とか言ってたひとが、ふと弱気をみせたところが、かわいいというか」
杉本「ほんとに日記買ったんですかね」
一同「絶対買ってないです」

フランスの女美し木の芽また 
手塚「〈また〉でおわってるところが、言いきってなくていいなあ」
杉本「<美し>まで書いて、あとが一瞬つづかなくなったのかなとも思う」

日課なる昼寝をすませ健康に 
上田「こういう句、この時代のこの人、けっこう沢山あるんですけど、この会のために300句選ぶのに、入れては外しをやっていて、こういうので残る句って、そんなにないんです。不朽の名句と並べると負ける」
佐原「でもこのばかばかしい中に、虚子の本質のひとつがある」
上田「うん、まさに。それで、これは意外にも捨てられなかった句です」  
  
虹立ちて忽ち君のある如し
虹消えて忽ち君の無き如し

佐原「〈和布〉の句もそうなんですけど、類似してはいるけれどちょっとだけ違っている二つのものを対比とか、Aと、Aとちょっと違うもの、という二つのものを併置とかする句が、後期になると多くなる。虚子の場合は、そのちょっとの違いの中に人の「ある/無し」も含まれてしまう」
神野「片方だけど、なに甘いこと言ってるんだとなっちゃうけど、両方あるから」

日凍てて空にかゝるといふのみぞ
上田
「うわごとに近いですが、なんとも、いい」
村上「いいですね。日とか空とか詠むのはむずかしいですけど、これは」

水仙の花活け会に規約なし 
上田「これは不朽の句(一同笑)。はずしてもはずしても、戻ってくる」
高柳「そこを聞きたいですねえ」
上田「謎なんですよ。うーん、この句、〈水仙〉ないんですよね、〈会〉の話だから。で、〈規約〉の話になっちゃって〈会〉の人たちもいないし。で、最終的に〈規約〉もないのね。何にもないんです、この句」
高柳「フリーダムな感じがいいんでしょうか。」
上田「うーん」
村上「〈花活け会〉じゃなく、〈花活け〉で意味的に切れるんだと思います」
高柳「それじゃ、おもしろくないでしょう」
上田「同じ句集の前後にこういう句いっぱいあるのか、、と見ると、ここまで下らない句はこれしかない。俳句がこういう句ばっかりになったらさすがに困るという句なんですが、さすがの虚子も、そうはたくさん、こんなのは書かない」
村上「虚子だから、読んでもらえますけど、虚子じゃなかったらだれも読まない。めぐまれてる」

春雨のかくまで暗くなるものか 
手塚「〈なるものか〉っていう、疑問形で終らせてるところが、さらさらっていうかんじで、春の雨の感覚出来そうでできないあいまいさで」
三木「〈かく〉で読者にあずけたところがうまい」

爛々と昼の星見えきのこ菌生え  
神野「きのこが、きれいじゃないところ、きたないものなところがいい。いろいろ見えにくそうなものが、ぶわーっと出てきそうで」
上田「ジブリか、みたいな」

去年今年貫く棒の如きもの
高柳「これは名句。川崎展宏さんが、有名な評を書いていて「この棒には毛が生えている」(一同笑)その解釈で生かされる句」
神野「もうちょっと説明を」
高柳「いや、満足しました。村上さん採ってないですか?」
村上「ちょっと理屈っぽいというか」
高柳「これって〈闘志抱きて丘に立つ〉系の句なんですかね」
佐原「〈大いなるものが過ぎ行く野分かな〉の句と似てる」
神野「私の中では〈大根の葉〉に近い。そういう動的なものを見えるものに、可視化してる。そうしたいという根本のモチーフを感じる。あと、ときどきエロス俳句っていうテーマで書く人がいるけど、そこになぜか入っている」(笑)

和布干す和布に似たるものも干す  
佐原「虚子は、写生という、対象物の細かいところに注目する方法を唱えたわけだけれど、なのに一方でこの句のように、「雑」に対象物をとらえることがしばしばあって、そうした句は特に後期になると増えてくるようです。この〈和布干す〉の句なんて、いかにも「雑」なとらえ方ですよね。
虚子はある時から、写生で描かれた対象物そのものよりも、描かれた対象物の背後にある時間の蓄積の方が重要だと感じるようになったのではないか。写生は、限られた時間の中にある対象物を「地上目線」で描写するので、句の時間性は限られたものとなる。
じゃあこの 〈和布〉の句に見られるような、写生とは対照的な「いいかげん」な視線というのはどこから来るのかと考えると、おそらくそれは〈天〉からなのではないか。例えば虚子の後期に〈秋天に我がぐんぐん\/と〉という句がありますが、〈天〉には四季の時間が、「大いなる時間」みたいなものが、ゆったりと巡っているんです。で、そんな「大いなる時間」と〈我〉とが一体化するとき、地上のこまごまとした物体は、虚子にとっては大した違いのないものとして見えてくる、だから「雑」なとらえ方をする句ができるんじゃないか。
時間的なものは、実際の個別的な経験、例えば春に花を見てはっと驚くような、そうした一回性の経験としても現れるし、物体の背後に感じられる時間、言わば〈大いなるもの〉につながる永遠性のようなものとして、四季とともに回帰するものとしても現われる。写生の方法では、ひとは個別の自然物に対して一回性をもって驚くけど、「大いなる時間」の側から見てしまえば、〈埃の如く人死ぬる〉の句のように、人間だって埃のように移り変わる存在に見えてくる。多彩な自然物は、〈和布〉と〈和布に似たもの〉というちょっとの間に入ってしまうんです。
虚子の後期に、〈だん\/に我に似てくる爽やかに〉という、自分の胸像ができるのを待っているときの句があるんですが、こういう句を見ていると、今まで言った〈天〉の方からものを見る、対象をつき離して客観的に見る視線のなかに、虚子はついには自分をも入れてしまっていたように思える」

藤豆の垂れたるノの字ノの字かな  
手塚「ノの字の不安定さが、風にゆれているようで、素敵な句だなと」

たとふれば独楽のはじける如くなり 
神野「事情を知らなくても、関係が想像できる。あと、言い方がかっこよい」





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